恐ろしい夜
馬車が止まった。
乱暴な運転で体を床や壁にぶつけていたので、安堵の息が出た。
ところが、ホッとする間もなく、扉が無遠慮に開かれた。
「出ろ」
兵士が短く命令する。
「ここは……」
状況的に他の候補は考えられないが、違っていてほしいと思う。
「魔の森だ」
ああ、そんな。魔物が出る森に、これから夜になるというのに……死ねと言われているのと同じではないか。
「待ってください。どうしてこんな……」
パーティーに出ただけだ。
いつも通り、婚約者である王太子にはエスコートしてもらえなかった。それでも、大人しく壁の花をしていたではないか。
婚約破棄だって受け入れた。よくわからないことを言われたが、とにかく謝った。
何が悪かったというの? どうすればよかったの?
「あんたが、ソフィアを虐めるからだろ」
責めるような声がした。司祭の少年だ。
「ごめんなさい。気をつけるわ。もうしないから許してください」
早朝に教会に行って祈り、学園に通って、その後また教会に行っているわ。たまの休みは王太子妃教育に王城へ……いつ、虐めたのだろう? 申し訳ないけれど、気がつかなかった。そして、何がいけなかったのか?
必死で言い募る。ここで、なんとかして一緒に連れ帰ってもらわなければ。
「つべこべうるさいなぁ。聖女でもないくせに、大聖女に取り入ろうとするなんて、図々しい」
取り入ろうとなどしていない。何か言わなければ。
頭の中でガンガン音が響いているようで、考えられない。
口を開いたまま反論しないことに、少年はますます苛立っていく。
「今さら、何を言っても遅いんだからね」
兵士を押しのけて、馬車の中にいる少女の手首を掴んだ。
そのまま馬車から降りれば、少女は引きずり出される。突然の暴挙に、少女は馬車のステップを踏み外して転がり落ちた。
ずさっ、バサッと大きな音がして、周囲から鳥型の魔物たちが羽ばたいていく。
その羽ばたきが夕暮れの中で、さらに不気味さを加えた。
「……っ!」
驚きと恐怖で声も出ない。それに肉体的な痛みが加わった。
「ざまあみろ。じゃあね」
ふくらはぎをどこかで切ったようだ。足首もおかしい。
痛すぎて声も出せない。
少女がうずくまっている間に、馬車はなんとか方向転換をして、去って行った。
血の臭いで、魔物が集まってきてしまうかもしれない。
グローブを脱いで血を押さえようと考えた。だが、指先が震えて、ぴたりと貼り付いたグローブを脱ぐことができない。
日が落ちて寒くなってきた。震えながらも、精神を統一して聖力を練る。
焦りか、疲労か、いつものように上手くいかない。倍以上の時間をかけ、ようやく止血をした。
ほっと息を吐いた途端、魔物のうなり声が聞こえた。
いや、今まで集中していて気がつかなかっただけかもしれない。
歯の根が合わず、カタカタと音を立てる。
まだ足首を治療していないので、大木の根元まで這って行く。
大木を背にして座り、結界を張る。
真夜中を過ぎた頃、目眩がして、平衡感覚がおかしくなってきた。
聖力の限界が近い。
このまま聖力が枯渇してしまえば、命を落とすかもしれない。生きていても、全身を壮絶な痛みが襲うという。
今日一晩をやり過ごしたとして、明日はどうする? 魔力が回復しきらない状態では、同じように結界を張り続けることはできないだろう。……無駄なのか。全てが。
「お姉さん、助けてあげようか」
頭上から、幼い子どものような声が降ってきた。
赤く光るものが二つ。おそらく目だと思うが、暗くて正体はわからない。
「だ、誰?」
「お姉さんたちが魔物って呼ぶ存在だよ。でも、僕は賢くてしゃべれるから、魔人に近いかも」
魔物は聖女たちが結界を張って、王都から遠ざけている存在だ。
人間と敵対関係にあると言っていい。
だが、ここにはこの声の主以外に、すがれる者はない。
恐る恐る訊いてみる。
「助ける?」
「うん。僕が代わりに結界を張ってあげようかって言ってるの」
「どうして?」
「お姉さんにお願いがある。交渉しに来たんだ」
ああ、やはり……物語にもよく出てくるあれね。魔人の口車に乗ってはいけない。
「駄目よ。交渉には応じられないわ」
「それって、教会のため? お姉さんをここに置き去りにした教会の言うことを、まだ守るつもり?」
「あれは……彼の暴走かもしれないじゃない」
十二歳で聖女に指名されてから、五年間も教会に通って修行してきた。その教会からも拒絶されたと考えたくなくて、弱々しく反論した。
頭のどこかで、彼一人の考えではないと気付きながら……。
お父様の言いつけを守り、国王の命に従い、教会の教えを守ってきた。そのあげく、こんな目に遭っている。
どの振る舞いが駄目だったのか。反省すべき点は……義妹なら、はっきりと教えてくれるのに。
どうして。なにが。とにかく――わたくしのせい。全て、わたくしが悪いの。
「でも、お城の兵士がついてきたんだから、そんなわけないってわかってるでしょ。
お願いを聞いてくれたら、お姉さんの味方になるよ」
味方……孤立無援のわたくしに?
「お願いって何かしら?」
つい、聞いてしまった。心のどこかで、いけないと思いながらも――。
「こちらが攻撃しなかったら、お姉さんも聖なる力を魔人と魔物に向けないでほしい」
「そちらが攻撃しなかったら? わたくしを攻撃しないの? わたくしは生きていけるの?」
あはは、と軽い笑い声が響いた。
「攻撃されたら、反撃していいよ。それは、仕方ない。黙って食べられちゃえとは言えないから」
食べ……そうか、ただ殺すのではないのね。
ぞわっと鳥肌が立った。
「お姉さん、その顔は、了承したってことでいいね?」
声は、楽しそうにクスクス笑う。
気づいたら、頷いていた。
その直後、ついにわたくしの結界は消えてしまった。
代わりにぽわん、と生暖かい空気に包まれた。
お礼を言おうとしたが、その前に気を失ったらしい。




