3-1 緊急事態
「シルフ、起きてください。」
仮死状態から強制的に起こされた。
「何があった?」
「ハイバネートでぼんやりしているところ申し訳ありません。緊急事態です。」
緊急事態だってさ。何百年、幾度となくこうした旅を続けてるけど初めての経験だ。いったい何が起きたんだろう。
「中性子星の重力に引かれてしまっています。」
「え、スイングバイに失敗したのか?」
スイングバイとは天体の重力を使ってハンマー投げのように加速する航行テクニックだ。中性子星というブラックホールに次ぐ超重力天体を使って加速を試みたところ失敗したらしい。
「はい。ベースからの観測と実際の誤差を修正しきれませんでした。この手前で通り過ぎた大型恒星の重力レンズ効果により観測を誤った可能性があります。それと姿勢制御スラスターが故障しました。」
「故障だって?」
「はい。おそらく荷電粒子がピンポイントでスラスター制御回路を直撃し、姿勢制御スラスターの機能が失われました。部品交換を行わないと修理できません。現在は慣性が優位でメインエンジンの推力偏向でバランスを取ることが可能ですが、低加速度時には乗り心地が大きく損なわれます。」
いくら俺が乗り物酔いしにくい体質と言っても限度がある。
とはいえ、準光速航行中においては複雑な観測はまずできないから事前に調べた航路上にあった問題に気が付くことは難しいか。それでリンクスを責めてもなんの得もない。
今回のような事態が生じて事前に設定した航路から外れることはたまにあることだが、いくら何でも中性子星のような大質量星でトラブルを起こすのは重大なインシデントだ。無事に帰れたら探査局にクレームを入れないと。
重力圏から脱出して任務地へ赴いていたら往復の燃料も足りなくなっちゃうだろうし、とにかく任務は中止だな。
「任務は放棄。帰還しつつ航路の再調査にプランを変更しよう。」
「かしこまりました。航路情報を収集しつつ帰還します。シルフ、念のため、シュラフに退避してください。」
シュラフとは寝袋ではなくめっちゃくちゃ狭い緊急避難スペースのことだ。
構造は真空断熱されたいわば魔法瓶でマミーシュラフにその名づけは由来しているそうだ。
その昔はそこに入るのは死を意味するといわれていて、石棺とか棺とか縁起でもない呼ばれ方もしていたとか。いくら閉所に耐性のあるエルフでも望んでそんなところに入ることはない。試しに入ってみたことはあるけど、必要があって入るのは初めてだ。リンクスはそれを知ってて入るよう指示を出すのだからよっぽどの状況ということだろう。
「はい。現状の試算によると重力回生ブレーキの許容量を超過する可能性が見込まれています。」
重力回生ブレーキとは重力というか加速度を相殺する装置だ。
一定の許容量までは船の電力などの各種エネルギーに変換されるが、許容量以上は熱に変換される。
重力回生ブレーキは西暦時代でいうところの電気自動車のブレーキシステムに似ている。回生可能な運動エネルギーは電力に変換できるが、それ以上のエネルギーは制動装置によって熱に変換され大気に放出される構図のように。
ただし、真空に近い宇宙空間において放熱は電磁波による輻射に頼ることになるので大気内での放熱とは事情は大きく異なる。従って、重力回生ブレーキは船の耐えられる温度以下の範囲でしか使うことができない。
そして船の耐えられる温度というのは有人機の場合は搭乗員が耐えられる温度にて規定される。
そこでシュラフだ。シュラフは魔法瓶のような構造になっており、船室が人間が耐えられない温度であっても真空断熱により中の人間が干上がるまでの時間が稼げるという寸法だ。
搭乗員がシュラフ内に移動した後、船室には二酸化炭素など蓄熱効果の高い気体を充満させ、十分温まったところで宇宙空間に放出することで船体自体の放熱を行うこともできる。
それによりシュラフの温度上昇をなるべく伸ばすことが行われる。
ヒトだったらこの事態に遭遇したらパニックに陥るかもしれないが、俺はリンクスの指示通りシュラフに移動して寝ることにした。
リンクスが対処しやすいよう避難することが俺にできる唯一の行動だから。
これから船体が大きく揺れ動くことを想像した。机の小物なんかは几帳面に片づけたりはしていない。それらを蓋つきの箱に無造作に放り込み、箱が動かないようロックした。
そして催眠剤を飲んでさっさと寝ることにした。おっと、その前に一言言っておかないと。
「退避準備よし。あとは任せる。んじゃ、お休み。」