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第4部:語られなかった赦し



 赦しという言葉には、奇妙な沈黙がつきまとう。


 声にすれば何かが癒えると信じた人々が、語るたびに傷口を広げていく。

 誰かが謝ると、誰かが沈黙する。

 誰かが赦すと、誰かが忘れ去られる。


 私は、語られなかった赦しについて記すべきだと思った。


 語られなかった赦しとは、「赦す機会さえ与えられなかった者たち」のことだ。

 あるいは、「赦す前に、語る力を奪われた者たち」。

 そして、もっと根源的には、「赦しなどという構造自体に関われなかった者たち」のことだ。


 彼らは“赦さなかった”のではなく、“赦せなかった”。

 ただそこに沈黙として、否定の余地なくあった。


 悠馬は、ある日私にこう言った。


 「記録という行為は、“赦しを記すこと”ではないんだ。

 むしろ、“赦されなかった痕跡”を世界に刻む行為だと思う」


 「それって……私たちは、記録を残すことで、誰かの苦しみを固定してしまうんじゃないの?」


 「固定することは、時に解放でもある。誰にも語られなかった沈黙を“場所”に定着させることができるなら、彼らの痛みは少しだけ“他者に属する”ようになる。つまり、共有される苦しみになる」


 私は祖父の記録の中から、ある一節を読み返していた。


「被尋問者、頑として黙秘。通訳者への視線は敵意と哀願を混ぜたようなもの。

彼は何度も口を開いたが、ついに一言も語らなかった。

通訳として私は、意味のない沈黙を“意味のある言葉”として日本語に置き換えた。

だが、それは虚構だった。

本当の意味は、彼の沈黙の中にしか存在しなかった」


 その“通訳”が祖父だったのだ。

 彼は沈黙を翻訳しようとした。

 だがそれは不可能だった。


 私はこう考えた。


 沈黙とは、赦しの不可能性が“音”を持たないまま佇んでいる状態なのかもしれない。


 そしてそれを無理に翻訳することが、逆に「赦しが成立した」という誤解を生む暴力になる。


 ある日、私は「赦し」に関する旧約聖書の注釈を読んでいた。


 そこにはこう書かれていた。


「赦しとは、罰を放棄することではない。赦しとは、関係を回復させようとする意志である。

しかし、関係そのものが断絶されたとき、赦しは神学的な“演技”に堕する。

赦しを語るには、“語り合えるだけの生存”が必要である」


 私の祖母、ファティマ・ハサンは、生きてはいたが“語る”ことはできなかった。

 彼女に赦しの機会はなかった。

 沈黙のまま、隔離され、埋もれたのだ。


 では私は、彼女を「赦された者」として語ってよいのか?

 それは彼女を“赦された者にしてしまう”という形で、二重の加害を行うことではないのか?


 答えは、出なかった。


 そんな中、悠馬は再び、手紙の束を見つけた。


 それは、日本軍の尋問資料と共に送還された「未提出書簡控え」の中にあった。

 そこには、祖母の筆跡でこう記されていた。


「ナセルへ。

あなたは語らなかった。でも私は語らないことで、あなたを守るつもりだった。

私の沈黙があなたを殺したなら、私は生きる資格がなかった。

けれど私はそれでも、あなたの妹でありたかった。

この手紙を出すことは許されないけれど、書くことだけは許された。

だから私は、あなたに語られなかった赦しを“書く”」


 私はこの手紙を読んで初めて、赦しのもう一つの形に気づいた。


 赦しとは、語りの行為ではなく、「語れなかった者たち」の声を“残す”ことなのかもしれない。

 語られなかった赦しを、私が語ることはできない。

 だが、その「語れなさ」そのものを、私は引き受けることはできる。


 夜、私は再びマイクの前に立った。


 今回は、名前ではなく、「語れなかった言葉」の再現を試みた。


 その録音の冒頭で、私はこう言った。


 「これは、沈黙そのものの記録です。

 語られなかった赦しの、空白の記録です。

 この音には、意味がありません。

 でも、この“意味のなさ”こそが、語られなかった人々の痕跡なのです」



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