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第3部:赦されざる名前



 名前は、命よりも重い。


 祖父が記録した紙片に、ナセル・ハサンという名前が刻まれていた。

 私はそれを“発見”したつもりだったが、実のところ、その名前は私の中にずっと在った。


 幼いころ、母が眠るときよく呟いていた。

 “ナーセル”と、伸ばすように。


 まるで、誰かの影を、引きずるように。


 その日、悠馬が再び私の元を訪ねてきた。


 彼の顔は疲れていた。

 眠れぬ夜が続いているようだった。


 「……例の調書、他にもあった」


 彼は分厚い封筒を差し出した。


 「ナセルの尋問の二週間後。もう一人、女性の被尋問者が記録されていた。名前は、“ファティマ・ハサン”——ナセルの妹だった」


 私は言葉を失った。


 「彼女の調書にはこうある。“兄の罪を認めず、家族の沈黙を守る者。国家にとって有害な思想を抱える可能性あり”。

 ——つまり、沈黙が、また沈黙を呼び、家族までもが処罰の対象になった」


 私は調書を震える手で開いた。


 その最後に、こう記されていた。


「処分保留。被尋問者、尋問中に流産。特段の配慮を行わず、隔離収容」


 「名前を記録することが、加害になる」

 私は言った。


 「でも、記録しなければ、誰も存在しなかったことになる」

 悠馬が応えた。


 数日後、私は図書館で「戦争加害の記録と言語の倫理」という研究論文を読んでいた。


 そこに、こう書かれていた。


「言語は人を記録する。だが記録は、倫理と暴力のはざまで揺れる。

名前を“残す”とは、しばしば“加害を固定化する”行為である。

では、名前を“消す”ことは赦しか。

それは、忘却という名の二次加害になりうる」


 私は答えを求め、佐伯教授に面会を申し出た。


 「教授、記録を“公開すべきか”について、私はもう一つの問いを抱えるようになったんです」


 「ほう?」


 「それは、“名前を呼んでもよいか”という問いです」


 「つまり、加害者として記された者たちの“名前”を?」


 「いいえ。沈黙して死んだ者たちの名前を。彼らは語らずに死にました。でも、私は、名前を口にすることで、彼らを‘赦して’しまうのではないかと、怖いんです」


 「それは、赦しではない」

 教授は即答した。


 「君が語ることで、何かが“清算”されると考えるのは傲慢だ。

 語ることは赦しではなく、ただの“責任”だ。

 君は赦せないし、赦されるべきでもない」


 私はその夜、祖母の名前をノートに書いた。


 ファティマ・ハサン。

 戦時中、17歳で捕らえられ、流産し、記録の最後に“隔離”とだけ書かれた人。


 その名を、私は、ノートに——日本語で、英語で、アラビア語で——書いた。


 書いて、消して、また書いた。


 その行為に、赦しの気配はなかった。

 ただ、私は彼女がここにいたことを、世界のどこかに、残したかった。


 数日後、悠馬が言った。


 「僕たちは、“過去の沈黙”を語ることで、未来の沈黙を壊せるかもしれない。

 それは、暴力の連鎖を断ち切る唯一の道かもしれないんだ」


 「赦しじゃなくて?」


 「赦しなんて、きっと誰にもできない。でも、“引き受ける”ことはできる。

 沈黙と共に生きた人たちの、苦しみと、言えなかった言葉を」


 その夜、私は録音を始めた。


 マイクに向かって、ただ名前を呼ぶ。


 ナセル・ハサン

 ファティマ・ハサン

 ミーナ・カリーム

 イブラヒム・ジャアファル

 ……

 祖父の記録に記された、全ての“沈黙した名前”たち。


 私は、名前だけを呼び続けた。

 それが、赦しでなくてもよかった。


 それが、記録という加害であっても。

 名前を残すことが、唯一、彼らの“存在”だったのだから。



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