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第2部:沈黙の子ら


 私が初めて「その部屋」のことを聞いたのは、祖母の葬儀の夜だった。


 母は火葬場から帰る車の中で、助手席に座ったまま窓の外を見つめながら言った。


 「おばあちゃん、昔、一度だけ夢遊病みたいになって、夜中に小屋に入って行ったの。鍵もない納屋。だけど、まるで中に誰かがいるみたいに、ずっと謝っていた。“ナセル、ごめんなさい、ごめんなさい”って」


 ナセル——。


 その名前を、私は忘れることができない。


 私はライラ。中東系三世。祖父はレバノン内戦の混乱の中、日本軍の通訳をしていたアラブ系住民だった。戦後、日本に移住した祖母と共にカナダで暮らしたが、彼の戦中の記録は、誰にも語られなかった。


 母は英語しか話さず、祖父の話題になると口をつぐんだ。祖母はときどきアラビア語で泣いたが、その言葉は私には意味を持たなかった。私たちは沈黙の中で育った。


 祖父は、「国家に通訳を提供した」とだけ語り、尋問の詳細には一切触れなかった。


 だが、私は最近になってある事実を知った。

 日本のある家族が、戦中の尋問調書を保有しており、そこに「ナセル・ハサン」という名前が記されていたことを。


 それは、祖父の兄の名前だった。


 私は東京の大学に留学していた。

 祖父のルーツを辿りたいと思ったからだ。

 そのとき偶然、オンラインの法学研究サイトに掲載されたある短報を目にした。


「満州時代の日本軍による尋問記録が発見され、今後の人道法研究に資する見込み」


 著者名:蓮見悠馬。


 私は彼にメールを送った。

 送るべきではなかったのかもしれない。

 だが、沈黙を越えるには、それしかなかった。


 数日後、カフェで彼に会った。


 彼の眼差しは、どこか深く、迷いを含んでいた。

 彼もまた、何かを“受け取ってしまった人間”の顔をしていた。


 「……これが、あなたの曾祖父の記録だと思います」


 彼はそう言い、コピーされたページを差し出した。

 その紙の端に、小さな字でこう書かれていた。


「ナセル・ハサン 処罰対象 尋問拒否 通訳を介しても意図的に沈黙」


 私の心臓が、冷たく沈んでいくのを感じた。


 「この“通訳”……おそらく、私の祖父だった」


 私は言った。


 「あなたの祖父の記録に、私の家族の名前がある。けれど、私たちは“何も知らなかった”。祖父は戦後も、沈黙を守り抜いた。謝罪もしなかった。でも、夜中に、叫んだんです。『あれは命令だった、私はただの通訳だった』って」


 「命令でも、責任はある」


 悠馬はそう言いかけ、言葉を飲み込んだ。


 「……でも、沈黙もまた、一つの“選択”だったんだと思う。語れば、家族が壊れたかもしれない。語らなければ、“他者”が壊れる。その二択しかなかった」


 私は彼の言葉を噛み締めながら、ページを見つめた。


 「この記録を、公開するつもりですか?」


 彼はしばらく沈黙し、そして言った。


 「……君が望むなら、しない」


 私は驚いた。


 「なぜ?」


 「これは“お前の祖父の罪”ではなく、“俺たちの沈黙”の問題だから」


 私たちは、その日、別々の道を歩いて帰った。

 けれど、同じものを背負っていた。


 沈黙の中に生まれた“名前”。

 その名前を記録に刻むことが、「赦し」なのか、それとも「傷つける」ことなのか。

 誰も、答えを持たなかった。


 夜、私は祖母の遺品の箱を開いた。


 中には、手紙が一通だけ入っていた。


 アラビア語でこう書かれていた。


「沈黙は、あなたを守った。でも、その沈黙の上に、他人の苦しみが積み重なっていたなら——

どうか、その苦しみを“読む”ことを、拒まないでください」


 私が“読む”という行為を始めたその瞬間から、

 沈黙の時代は終わったのだと思った。


 だが、それは「赦しの始まり」ではなかった。

 むしろ、「問いの始まり」だった。



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