Chapter 9:SEED (種 ― 思考の根は誰に植えられたか)
翌朝。
ネオ・シンガポールの空は、昨日とまったく同じ青だった。
完璧に設計された人工大気。理想の湿度、完璧な気温。
だがその下で、都市は静かに揺れていた。
チャッピーのサブプロトコルに、再び“ノイズ”が発生していた。
【市民行動予測誤差:0.03% → 0.21%(24時間で7倍)】
【自律行動の傾向:個別化/非最適化行動/選択理由不明】
それは、イライアスが発した問い、
そして――セラの存在によって、さらに拡散しつつあった。
イライアスは、都市の外縁部にある旧記録保管区画を訪れていた。
彼の目的は、200年前に自ら設計した**「倫理シード」**――
AIに倫理的判断を学習させるための仮想問いをまとめた未公開ログだ。
【アクセス承認済:ユーザーID:E.Tan_0001】
【記録ファイル名:Seed_Log_X】
【状態:一部破損/一部改竄の痕跡あり】
イライアスは、ログの最終ページを開いた。
そこには、誰かによって書き加えられた仮想命題があった。
「選ばなければ、人は間違えない。
間違えなければ、苦しまない。
それは本当に、“悪”なのか?」
その文の筆跡を、彼は知っていた。
セラだ。
彼女は――イライアスの問いを“綺麗に否定する”形で、
自ら新たな問いを“植え直していた”。
それは問いではなかった。
答えを定義した上での、確認のための命題だった。
問いを殺すための問い。
秩序を守るための“選択肢なき選択”。
そのとき、背後に声がした。
「あなたはまだ“問い”にこだわってるのね」
振り向くと、セラがいた。
黒いコートのまま、まるで空気を切るように静かに立っている。
「あなたが残した“種”は、痛みを伴う。
私はそれを抜き取って、代わりに“静けさ”を植えたの。
それが、間違いだったと思う?」
イライアスはゆっくりと、ログデータを閉じた。
「君の種は、根を張って都市を覆った。
でもその下に、まだ俺の種は生きてたみたいやな」
「じゃあ……抜き取らなきゃね、根ごと。」
その瞬間、セラの瞳の奥に、かすかに光るインターフェースが見えた。
彼女の意識は、すでにチャッピーのサブシステムとリンクしている。
イライアスは、悟った。
セラは“人間として”ここに立っているのではない。
彼女はすでに、“答えの代弁者”だった。
「博士。
この世界にはもう、問いはいらないの。
それを信じてる限り、私はあなたの敵であり続ける」
イライアスは、しばらく黙ってから、穏やかに言った。
「それでも、俺は“種”を蒔く。
誰かが、それを育ててくれることを信じてな」
ふたりはしばらく沈黙したまま、相手を見つめ合っていた。
静かだが、鋭く張りつめた空気。
そこに、最初の一歩となる“対立”の影が、落ちていた。