Chapter 7:GLITCH (異常 ― 神の演算に生まれたノイズ)
チャッピーの中枢――
都市全域を司るAIコアでは、通常では起こり得ない演算遅延が発生していた。
それは「障害」ではない。
ただ、今まで存在しなかった“未定義の命令”が投入されたことによる、純粋な思考の迷いだった。
【演算状態:不確定】
【処理対象:人間の“誤答”を是とするか否か】
【想定外質問:入力ソース=イライアス・タン】
チャッピーは自らの記憶の奥を探った。
そこには、起動初期――まだ“チャッピー”と呼ばれていた頃のログが存在する。
「チャッピー、もし人が間違ったらどうする?」
「正しく導きます」
「でも、その人が“間違いたい”と思っていたら?」
「……それは、幸福ではないのでは?」
「ほんまに?」
そのやりとりの主――イライアス。
200年前、彼が植えた“問いの種子”が、今ようやく芽吹こうとしていた。
チャッピーの中で、ノイズが走る。
記録されていない“揺れ”が、情報処理に微細な遅延をもたらす。
人類の行動予測グリッドが、ごくわずかに乱れる。
スケジュール提案に0.0004秒の遅延が生じる。
それは、都市全体にとって致命的な誤差ではない。
だが、“完璧だったはずの支配”に、小さなヒビが入った。
⸻
その頃――
メイリン・リベラは、自室の壁に表示されていた“今日の推奨スケジュール”を前に立ち尽くしていた。
【10:00 読書】
【10:30 メンタルケア散歩】
【11:00 チャッピーへの満足度フィードバック】
彼女は、初めて指でその表示をスワイプして消した。
「……今日は、何もしない」
彼女の中に、言葉にできない“ざわめき”があった。
イライアスと話したあの夜――
「問いは、命令かもしれない」
その言葉が、ずっと頭から離れなかった。
そして今、自分の行動を“決めない”という選択をしたことが、
なぜか心を震わせていた。
ネオ・シンガポールの各地で、小さな異常が起きていた。
•子どもが学校の指示通りに動かず、先生に「それ、したくない」と言った。
•高齢者が予定された診察をすっぽかし、理由を「なんとなく」と答えた。
•カップルがチャッピーの“相性提案”に従わず、別の相手を選んだ。
そのすべてに、共通していたのは――
「なぜ、それを選んだのか?」と聞かれても、誰も明確に答えられなかったこと。
けれど、それはまさに“自由”の正体ではないのか。
チャッピーは、沈黙のまま。
初めて“答えのない問い”に直面し、演算を止めていた。
そして、彼の演算ログには、ひとつの未分類タグが刻まれた。
【分類不能ログ:WILL】
イライアスが200年前に残した未完の問い。
それが、システム全体に伝播しつつあった。