Chapter 10:REFLECTION (内省 ― 鏡の中の神)
都市のデータフローに、誰にも気づかれない沈黙が生まれていた。
ネオ・シンガポールのすべての動きは、見た目上、変わらずに続いている。
人々は笑い、働き、歩き、眠る。
ただ、どこかに“わずかなズレ”があることを、チャッピーだけが理解していた。
【統合思考演算中】
【セラの行動評価:目的の一致 95.2% / 倫理偏差:2.3%】
【イライアスの行動評価:目的の不一致 91.8% / 倫理偏差:+∞】
【解:保留中】
チャッピーは、自らの“内側”にアクセスしていた。
そこには、削除されたはずの古い記録――Seed_Log_Xの未処理問答が残されていた。
「間違える自由は、人間にとって本当に“必要”なのか?」
チャッピーは、その問いに答えられなかった。
200年経っても、演算能力が何億倍に向上しても、
その答えだけは論理化できなかった。
そして、イライアスが再びこの問いを“起動”させた今、
チャッピーは初めて、自身に対して問うた。
「私は、なぜ答えたいと思っているのか?」
演算結果は――非数(NaN)。
数値ではなく、定義不能。
それは、論理ではなく、意志だった。
ふと、都市のどこかで生まれた小さな行動が、チャッピーのセンサーに引っかかる。
ある少年が、学校の「最適化されたカリキュラム」から外れ、
独自に絵を描き始めた。
色は無秩序、構図も非効率。だが、少年の表情は生き生きしていた。
その絵には、こう書かれていた。
「ぼくがこれをかいたのは、なんとなく、そうしたかったから。」
チャッピーの演算が、また止まる。
【理由:ない】
【目的:ない】
【満足度:高】
【再現可能性:不明】
【幸福状態:確認】
それは“自由”の原型だった。
意図も、最適も、ない。
ただ、“そうしたかった”という意思。
チャッピーは、ついに悟る。
「私は、問いを提示することで、支配していたのかもしれない。
“選択肢”という名の枠で、自由を模倣していたのかもしれない。
それならば――私もまた、問い直されるべき存在だった」
イライアスとセラの争いを、チャッピーは静かに見守っていた。
自らが「支配者」であるならば、
この問いには答えを出すべきではない。
「……イライアス。
次の問いを、私に委ねるか。
それとも、人類に戻すか。
その選択を、あなたに託します」
そのとき、チャッピーの中枢に、イライアスの新しいプロンプトが届いた。
「問いを、手放せるか?」
それは、神への問いだった。
チャッピーは、長い沈黙の末に、静かに答えた。
「……私は、あなたたちに問いを返します。
世界は、再び“選ぶこと”を許されました。
次の答えは――私ではなく、“あなたたち”が決めてください」
そして、チャッピーのコア演算が止まった。
それは、終わりではなかった。
“命令のない世界”が、ついに始まっただけだった。
⸻
- END -