【第七章】湊まる光
【⑦-1 もがくうなぞこ】
本番を控えた練習。
リレーの通し練習、スタートの確認、
みんなの泳ぎも確実に仕上がってきた。
でも――
湊だけが、
どこかリズムを崩していた。
タイムが、ここ一番で伸びない。
(俺は変わったんだ。)
(もう、昔みたいに冷たくない。)
(優しくて、仲間を大事にできる、そんな俺になったんだ。)
(だから――)
(だから、勝つことに必死になるなんて、もう、違うんだ……!)
リレー練習。
ラスト4走、湊。
飛び込んだ瞬間、頭の中でぐるぐると思考が回る。
(速く、速く……いや、違う。勝ちたいとか、思っちゃダメだ。)
(優しく、仲間のために――)
身体が、ぎこちなくなる。
水を掴めない。伸びない。
タイムは、過去最低だった。
壁にタッチして上がった湊に、周囲は何も言わなかった。
ただ、静かな、重たい空気だけが流れる。
湊は、プールサイドに座り込んで、うつむいた。
(違う。こんなはずじゃない。)
(俺は――変わったんだ。)
けど。
胸の奥で、小さな声が囁く。
(……本当に?)
(俺は、何のために泳いでる?)
【⑦-2 花弁をひろう】
リレー練習が終わった後、
部員たちはそれぞれ散っていった。
湊だけが、まだプールサイドに座り込んでいた。タオルもかけずに、濡れたままの体で、うつむいて。
自分が水面に映った影を、
じっと見つめていた。
(俺は……変わったはずなのに。)
(それでも、速く泳げないなら――俺は、もう、いらないんじゃないか。)
(何のために、泳いでるんだろう。)
静かに、胸が軋んだ。
「先輩。」
声がした。
顔を上げると、朝陽がそこに立っていた。
いつもの、明るい笑顔。
でも――
その目は、どこまでも真剣だった。
「……練習、お疲れ様っす。」
「……ああ。」
ぎこちなく返す湊に、朝陽は迷いながら、でも、真っ直ぐに言葉を重ねた。
「あの、先輩。言いたいこと、あります。」
「……なに?」
朝陽は、一度、深呼吸してから。
しっかりと湊を見つめて、言った。
「俺、最初、水泳部で居場所なかったって言いましたよね。」
「下手くそだったし、誰にも期待されてなかったし。どこにも、立てる場所なかった。」
「でも。」
「――先輩が、作ってくれたんです。」
湊は、目を見開いた。
「あのとき、“出オチ野郎”って言われたときも、俺、めちゃくちゃ悔しかったっすけど、それでも、“あ、見てもらえた”って思った。」
「ちゃんと、俺を見てくれてた。」
「……だから、俺、スタート極めようって思ったんです。」
湊は、何も言えなかった。
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
「今の俺があるのは、先輩のおかげです。」
「勝ちたいって思えるのも、このチームで戦いたいって思えるのも、先輩がここにいてくれるからです。」
「……だから。」
朝陽は、にっと笑った。
「先輩が変わったかどうかなんて、どうでもいいっすよ!」
「――ただ、俺に居場所をくれて、それありがとうございます!」
(……俺は。)
(最低だったと思ってた。誰にも、必要とされてなかったと思ってた。)
(でも――)
(あのときの俺も、ちゃんと誰かを、救ってたんだ。)
(過去の俺を、否定しなくてもいいんだ。)
(全部抱えて――今の俺で、泳げばいい。)
拳を、ぎゅっと握った。
湊は、立ち上がった。
朝陽に、笑う。
少し、涙をこらえながら。
「――ありがとう。」
静かに、けれど、力強く。
湊は、前を向いた。
【⑦-3 花弁にふれる】
プールの練習を終えたあと、
湊は、更衣室の隅でひとり着替えをしていた。
シャツを着ながら、ふと目を閉じる。
頭の奥で、
断片的な記憶がよみがえる。
小さなころ。
いじめられて、泣きながらプールに逃げたこと。
水の中だけは、誰にも邪魔されなかった。
(……だから、勝ちたかった。)
(強くなれば、誰かが、俺を見てくれるって。)
バラバラな記憶が、胸にチクチクと刺さった。
(でも今の俺は――。)
「おーい。」
直が、更衣室の入り口から顔を出した。
「一緒に帰ろうぜ。」
湊は、驚いた顔をする。
「……俺と?」
「文句あんのか。」
ぶっきらぼうな言い方。
でも、その顔は、どこか優しかった。
湊は、小さく笑って、うなずいた。
夕焼けの道を、並んで歩くふたり。
ぽつり、と直が話し始めた。
「俺、弟がいるんだ。」
「へぇ、そうなんだ。」
「ああ。数ヶ月前、海で溺れかけた。」
湊は歩みを止める。
直は、少しだけ空を見上げてから、続けた。
「でも――助けてくれたやつがいた。」
「……優しいやつがいたんだな。」
直は、ふっと笑った。
「そうなんだよ。マジで、感謝してる。」
湊も、少しだけ笑った。
そのとき。
直が、まっすぐに湊を見た。
「……ありがとな。」
「え?」
「弟を助けてくれたの、お前だよ。」
湊は、言葉を失った。
「俺、それに気付いたとき、
なんでだろうな、すげー納得した。」
「どんなに冷たく見えても、
どんなに勝ちにこだわっても――
お前、本質は、ずっと優しいやつだったんだ。」
直は、にやりと笑った。
「今も昔も、変わってねぇよ。」
「だから、無理して変わんなくていい。」
「――お前は、もう十分、“お前”なんだから。」
胸に、じわりと温かいものが広がった。
(俺は――。)
(変わったんじゃない。)
(もともと、こうだったんだ。)
(ただ、勝ちにこだわるしか自分を守る術を知らなかっただけで。)
(俺は、最初から――仲間が、ほしかったんだ。)
涙が、滲みそうになる。
でも、今は、笑って言えた。
「……ありがとう。」
直は、照れ隠しに、顔をそむけた。
【⑦-4 湊まる光】
大会前夜。
プールはすでに施錠されているはずだった。
でも、こっそり抜け出してきたふたり。
湊と、千紘。
静かな夜のプールサイドに、ふたりきり。
水面は鏡のように静かだった。
千紘は、プールサイドに腰を下ろすと、ぽつりと言った。
「……ぐちゃぐちゃだったよな、最初。」
湊も、笑って座る。
「ああ。」
笑いながらも、胸の奥があたたかくなる。
しばらくの沈黙のあと、千紘が、真剣な声で言った。
「――お前のおかげで、俺、変われた。」
湊は、目を見開く。
千紘は、まっすぐに続けた。
「怖くて、逃げたかった。本当は、もう無理だって思ってた。でも……お前が言ってくれたから。“無理に昔に戻らなくていい”って。」
千紘は、少しだけ顔を伏せて、
でも、しっかり湊に向き直った。
「俺は、お前を信じてる。」
「お前の前だから、泳げるんだ。」
「……ありがとう。」
まっすぐな感謝。
飾りも、嘘もない。
その瞬間――
湊の記憶の奥で、
何かが、一気に溢れた。
(ああ、そうだ。)
(俺は――)
幼い頃。
小さな表彰台。
1位、千紘。
2位、自分。
誇らしげにメダルを掲げる千紘に、
小さな湊は、必死に声をかけた。
「俺、お前のライバルになるから!」
千紘は、にかっと笑って、答えた。
「俺、いつかお前とチームで泳ぎたい!」
あの頃――
誰よりも速くなりたかった。
でも、それはただの”一人勝ち”じゃなかった。
(――誰かと、一緒に、勝ちたかったんだ。)
(千紘と、仲間と、みんなで。)
勝ちにこだわったのは、
強くなりたかったのは、
孤独が怖かったからじゃない。
(俺は、ずっと――友達が、仲間が、ほしかったんだ。)
胸が熱くなる。
涙が、こぼれそうになる。
湊は、ゆっくり顔を上げた。
千紘と目が合う。
「――ありがとな。」
静かに、でも、心からの声で、そう言った。
千紘も、にっと笑った。
ふたりの間に、もう言葉はいらなかった。
ただ、
同じ空の下で、
同じ水の匂いを感じながら。
今、確かに、
ふたりはチームだった。




