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ひかる海  作者:
6/9

【第六章】幾千の夜を越え

【⑥-1 かつての光】


――ざわめく観客席。


キラキラと光る水面を、

ひときわ速く、

ひときわ美しく、

ひときわ自由に泳ぐ少年がいた。


浜辺 千紘。


彼が泳ぎ出すたび、空気が変わった。


水と一体になるようなそのフォームは、

誰も追いつけない速さと、

誰も真似できないしなやかさを持っていた。


小学生の頃、

中学生になっても、

常に表彰台の一番上。


――「100年に一人の天才」

そんな呼び名が、自然とついていた。


プールサイドに並ぶ選手たちは、

皆、千紘の背中を見ていた。


その中に、幼い日の湊もいた。


必死に、

必死に、

千紘の背中を追いかけていた。




【⑥-2 底に沈む】

中学三年、最後の大会。

誰もが、千紘の勝利を信じて疑わなかった。


スタート台に立つ千紘。

観客席は、声援で揺れていた。


ピッ――


笛の音と同時に、

千紘は完璧な飛び込みを決めた。


誰よりも、速く、

誰よりも、きれいに。


ぐんぐんと水を切り、先頭を独走する。


――そのときだった。


ふと、足元に、強い引っ張りを感じた。


(……?)


次の瞬間、

千紘の身体は水中で引きずられた。


プールの排水口の不備。

そこに吸い込まれかけたのだ。


必死にバタつかせた手足。

必死に呼吸しようとした肺。

でも、水が、空気を奪った。


世界が、暗く、沈んでいく。


「誰か……」


声にならない叫び。


どうにか壁を蹴り、必死に抵抗して、水面へ這い上がった。


助けられたときには、目の前が滲んで、音が遠かった。


その日からだった。


――水と一体化する感覚が、

――恐怖にすり替わったのは。





プールサイドに腰を下ろし、

千紘は黙って水面を見つめていた。


水は、静かに光を揺らしている。


(俺は――変わったんだ。)


(もう、あの頃みたいには泳げない。)


(朝陽は、俺を信じてくれている。)

(直も、変わろうとしてる。)

(――そして、あいつ。お互いを高め合った、湊。)


みんな、前に進んでいる。


自分だけが、

過去に縛られたままだ。


(水が怖い。)


(なのに、俺は、水泳しかない。)


拳を握る。

爪が食い込むほど、強く。


(何やってんだよ、俺。)


(こんなんじゃ、誰にも追いつけない。)




【⑥-3 差し伸べられる手】

大会の会場。

人が行き交うざわめきの中で、

千紘は、ふと足を止めた。


目の前に立っていたのは――

中学時代の、元チームメイトたちだった。


「――お前、まだ水泳やってたんだな。」


気軽な口調。

でも、その言葉の裏にあるものを、千紘は感じ取った。


「……まあな。」


かろうじて、そう返す。


「やっぱまだ、あの時のこと思い出す?」


軽く笑いながら、

しかし、確実に踏み込んでくる。


千紘は何も言えなかった。

ただ、黙って視線を落とす。


「俺ならやめるわ、あんなことあったら。タフでいいよなー、千紘は。」

「タイムもだいぶ落ちてるよな、あの頃に比べたら。」


笑い声。


千紘は、拳をぎゅっと握った。


(タフなんかじゃない。)


(怖い。ずっと、怖いままだ。)


けれど、何も言い返せなかった。

ただ、俯いて――

その場に立ち尽くしていた。




「あっ、千紘先輩!こっちっすよー!」


元気な声が響く。

朝陽と直が、こちらへ駆けてくる。


千紘は、無理に笑って、元チームメイトに軽く手を振ると、その場を離れた。




少し無理に明るい声で、千紘が言う。


「……俺、やっぱもう、水泳、無理なんかな。」


ぽつりと、こぼれる本音。

誰に向けたわけでもない、心から漏れた弱音だった。


その言葉に、直が、静かに口を開く。


「……お前の努力、見てるやつはいる。」


振り向いた千紘に、直は真正面から向き合って言った。


「俺だって、見てる。朝陽だって、見てる。」


すぐ隣で、朝陽が笑った。


「俺、今も昔もずっと先輩に憧れてますから!」


千紘が驚いたように目を見開く。

朝陽は、まるで当たり前のように続けた。


「ここに、先輩の味方、ふたりいますよ。」

「……それだけじゃ、水泳続ける理由になんないすか?」


真っ直ぐな瞳。

からかいも、慰めも、憐れみもない。


ただ、千紘という人間を信じる瞳だった。




胸が、痛くなる。


(……俺は、)


(怖くても、恥ずかしくても、情けなくても――)


(それでも、泳ぎたいと思ってる。)


握った拳に、ほんの少しだけ、力がこもった。




【⑥-4 今のままで】

プールには誰もいない。

水面は静かに揺れ、白い照明が、淡く水を照らしていた。


千紘は、スタート台に座っていた。

プールを見下ろして、動けずにいた。

飛び込む勇気が、出なかった。


また、途中で――足がすくむ気がして。


(……やっぱ、ダメかもしれない。)


そのとき。


「なあ。」


背後から声がかかる。


振り向くと、そこには、湊が立っていた。


「飛び込まないの?」


千紘は、肩をすくめた。


「……やっぱ怖い。」


湊は黙って隣に座る。

プールを見下ろして、ぽつりと言った。


「俺、記憶ぜんぜん戻ってなくてさ。」


千紘は黙って耳を傾けた。


「でも、ひとつだけ――誰よりはやくてきれいな、お前の背中を追いかけてたこと。それだけは覚えてる。」


千紘の喉が、小さく鳴る。


「……お前、楽しかったろ?泳ぐの。」


静かな言葉。

押しつけるでも、慰めるでもない。


ただ、ありのままに。

千紘は、言葉が出なかった。

喉が、何かを必死に堪えて震えた。


湊は続ける。


「無理にトラウマ克服しなくていいんじゃないか。」

「俺も、昔の自分、よく知らないけどさ。それでも――今の俺で、強くなろうと思ってる。」


湊は、ふっと笑った。


「お前もさ。今のお前で、また泳げばいい。」

「誰のためでもなく。自分のために。」



心が、揺れる。


(昔に戻らなきゃ、って思ってた。)

(あの頃みたいに速くなれなきゃ、意味がないって。)


でも。


この夜、

静かに波打つプールと、

隣で無邪気に笑うこいつを見て、


(違うかもしれない。)


と、思った。


(昔に戻るんじゃない。今の俺のまま――前に進むんだ。)


拳を、ぎゅっと握る。


(もう一度、泳ごう。)


(怖くても。)


(足がすくんでも。)


(それでも――俺は、泳ぐ。)




千紘は、湊を見た。


「……悪いな。」


湊は、にやっと笑った。


「別に、助けたつもりないし。」


ふたりは、小さな笑いを交わした。


そして。


今、静かに、同じ未来を見た。




【⑥-5 幾千の夜を越え】

練習もかねて出場した個人種目。

会場は、まだ少しざわついていた。


千紘の名がコールされると、

その空気は、一瞬だけピンと張り詰める。


スタート台に立つ千紘。足に冷たい水の気配。

深呼吸をして、目を閉じた。


(大丈夫。今の俺で、泳ぐんだ。)


ピッ――


笛の音。




千紘は飛び込んだ。

水が、優しく肌を撫でる。


ぐんぐんと、力強く、周りを突き放す。


(――いける。)


だが。


水と完全に一体化したその感覚の先で、

ふいに、胸を締めつけるような恐怖が襲ってきた。


(溺れる――!)


一瞬、身体が強張る。

世界が、暗く沈みかける。




息継ぎで顔を上げた瞬間。

プールサイドに立つ湊の姿が目に入った。

湊は、両手を口に添えて叫んでいた。

声は聞こえない。


でも、

口の動きは、はっきりわかった。


――「たのしめ!!」




その一瞬、心に火がついた。


(そうだ。)


(俺は、過去に戻るために泳ぐんじゃない。)


(泳ぐことが、好きだったんだ。)


(好きだから、楽しいから、俺は――泳ぐんだ!)




ぐん、と千紘の泳ぎが変わった。

まるで、水が、千紘自身を押し上げるようだった。


力強く、しなやかに、

そして――美しく。


水と完全に一体になりながら、千紘はぐんぐん加速していく。


観客席から、ざわめきと歓声が湧き上がった。


(気持ちいい――)


(泳ぐのが、楽しい!!)




壁にタッチする。

パシャァ――と水飛沫をあげながら、顔を上げた。

すぐにタイムが表示される。


結果――圧倒的1位。


千紘は、水の中で、拳をぎゅっと握りしめた。


そして、

こらえきれずに顔をくしゃくしゃにして叫んだ。


「っしゃあああああああ!!!」




プールサイドでは、湊、朝陽、直が、

それを見て、目を潤ませながら、拳を握っていた。


「……よかったな。」


「……ほんと、すげぇや。」


「千紘先輩、かっけーっす!」


涙ぐむ目を拭いながら、笑い合う3人。


千紘は、

そんな仲間たちを見て、

これ以上ないくらいに、

晴れやかな笑顔を見せた。


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