【第五章】真っ直ぐに前へ
【⑤-1 朝陽の変化】
今日もリレーの練習。
スタート台に立つ朝陽が、少しだけ表情を引き締める。タイムを計る顧問が、笛を鳴らした。
「ピッ!」
朝陽、飛び込む。
水しぶきが高く上がる。
勢いよく、鋭く、水を切っていくフォーム。
プールサイドで腕を組んで見ていた直は、ふっと鼻を鳴らす。
(……たまたまだろ。)
心の中で、冷たく切り捨てた。
何本もリレーを通していくうちに、
朝陽のスタートが目に見えて安定してきた。
タイムも、徐々に縮まっていく。
それに比べて、
自分――直の泳ぎは、大きく変わっていなかった。
(……くそ。)
密かに、焦りがにじむ。
「朝陽、いいぞ。タイム、確実に上がってるな。」
顧問が声をかける。
それに、千紘がぽつりと呟いた。
「コイツ、部内で一番練習してますから。当たり前ですよ。」
朝陽は照れくさそうに後頭部をかきながら、
「やめてくださいよー!照れるじゃないすかー!」
とおどける。
その能天気さに、直の胸の中に、イラつきがわき上がった。
(ふざけんな。何でも軽く流しやがって。)
でも、知っている。
朝陽が、誰よりも早くプールに来て、
誰よりも何度も何度も飛び込んでいる姿を。
(――知ってるくせに。)
胸の奥が、じりじりと痛む。
(何度も、何度も、壁にぶつかって、それでも立ち上がってきたこと。)
(ふざけてるわけじゃない。笑ってるだけだ。本当は、誰よりも必死なのに。)
認めたくない。でも、もう――
否定できない。
【⑤-2 千紘の苦しみ】
その日は、部活終わりでもなかった。
空が群青に染まりかける頃、直は、忘れ物を取りにプールへ向かった。
がらんとしたプール。
夜の水面は、昼間とは違う、どこか深く、冷たい色をしていた。
そこで、見た。
ひとり、泳いでいる影。
(水の音――。)
音もなく、すべるように泳ぐ背中。
誰よりもしなやかで、
誰よりも力強くて、
誰よりも――自由だった。
ぐんぐんと、水と溶け合うようなその泳ぎに、
直は思わず息を呑んだ。
(……すげぇ。)
(あいつ、やっぱすげぇよ。)
一瞬、素直にそう思った。
でも。
ある瞬間、
その美しい泳ぎが、ふっと崩れた。
スピードが急激に落ちる。
千紘は、水中から顔を出すと、
荒い息を吐きながら、
自分の髪をぐしゃぐしゃにかきむしり、
力任せに水面を叩きつけた。
ぱしゃん、と
悲しい音が夜に響く。
その姿は、
ただ「落ちた天才」なんかじゃなかった。
――誰にも見られたくない、
でも、どうしようもない苦しみと戦っている、
そんな姿だった。
直は、プールサイドの陰で立ち尽くしていた。
(……俺は、)
(あいつのこと、何も知らなかった。)
(トラウマ抱えて、それでも……誰にも頼らず、あいつは、戦ってた。)
拳を握る。
心が、ずしんと痛む。
(本気にならない理由、探してたのは――俺の方だ。)
(傷つくのが怖かったのは――俺の方だ。)
夜風が吹き抜ける。
誰にも届かない場所で、
誰にも見せない闘いをしている千紘の姿を、
直は静かに、焼きつけた。
そして、自分に問う。
(――俺は、このままでいいのか。)
【⑤-3 湊の本質】
今日もリレーは、勝てなかった。
直たちはプールサイドに集合するが、
誰も声をかけなかった。
悔しさも、やりきれなさも、みんなそれぞれ胸に抱えたまま。
そんな中。
直の元に、ひとりの小さな少年が駆け寄ってきた。
弟だ。
「なお兄!」
嬉しそうに駆けてきた弟の頭を、直は軽くくしゃっと撫でた。
プールの外、人気のない場所で二人きり。
弟は楽しそうに話していた。
「あのね、ぼく、プール好きになったよ!」
「なお兄、かっこよかった!」
無邪気な笑顔。
直は、うまく笑えずに頭をかく。
「……そっか。」
そのとき。
弟が、ふと、プールサイドを指さした。
「――あの人、ぼくを助けてくれた人だ。」
その指の先にいたのは――
湊だった。
一瞬、直の脳裏に、点と点が結びつく。
――数ヶ月前。
「弟が溺れかけた」と、家に連絡が入った日。
心配して病院に駆けつけた家族。
「高校生くらいの男の子が助けてくれたらしいわ。」と、涙ぐんだ母親。
「その子も、無事だったらいいけど……」
と、優しく心配していた母の声。
何気なく、「優しいやつもいるもんだな」と、相槌を打ったあの日の夕飯の記憶。
事故に遭った湊。記憶を失った姿。
かつての、冷たく勝利至上主義だった姿。
今の、仲間を大切にしようとしている姿。
全部が――繋がった。
(……あいつ、)
(昔から、優しかったんだ。)
(勝利にこだわってただけじゃない。勝ち方しか知らなかっただけで――本当は、誰よりも、人を見てた。)
そして。
(俺だって、同じだ。)
(朝陽のことも、千紘のことも、わかったつもりで、勝手に決めつけてた。)
(――俺は、変わる。)
(本気で、向き合う。)
プールサイドに戻る直。
歩く足取りは、さっきまでとは違う。
空を見上げる。
群青に染まる空。
その向こうに、夜明けが近づいているような、
そんな気がした。




