矛盾を抱えて、男は酒に酔う
思えば、レットの帰りはいつも遅かった。
オリバーの現役時代もそうだったから、軍人とはそんなものだと思っていた。
(隠し事があるのは、お互い様だったってわけね)
どの道、ロキシーにレットを責める権利はない。だって恋人ではないのだから。
心がざわつくのも、自分勝手な感情だ。
(今日言おう)とロキシーは思った。
彼に隠し事をさせて、縛り付けるのは止めにしたい。隠し事をいちいち詮索したくなる自分も、終わりにしたい。
レットが帰宅したのは、零時の少し前のことだった。これほど遅い日は珍しい。
「お帰りなさい」
玄関まで出迎えると、彼は陽気に笑う。
「やあ、こんな遅くまで起きていたのか!」
深夜にも関わらず妙に高揚している彼にピンと来る。
「お酒を飲んでるの?」
「ほんの少しだけ」
窮屈になったのか、上着を脱ぎ、それを床に捨てた後で部屋の中に入ると、そのままソファーに横になった。
「ご飯は?」
「ああ、食べたとも」
いつもの彼の話す調子とは違う。
ソファーの背もたれに置かれた彼の足だけが見える。相当酔っているようだ。
無造作に落ちた上着を拾い上げてから、ロキシーはソファーを回り込む。
目を閉じていた彼は気配に気がついたのか薄目を開けて尋ねてきた。
「今日、街に?」
「ええ、ちょっとだけ」
「あまり出歩かない方がいい。例の徴兵命令で、人々は荒れている」
「あなたが荒れているのも、そのせい?」
レットは答えない。少しの沈黙があり、そしてロキシーは思った。
今、言ってしまおう。決心が崩れないうちに。
「レット、あのね、わたし――」
「出て行くとは言わないで」
驚いた。彼の前で、それを口に出したことはなかったからだ。
酔っている人間にしては、やけにはっきりとその目はロキシーを見た。懇願するかのような瞳が、教会の前の物乞いのそれを彷彿とさせる。
「あなたは、とても綺麗だ」
突拍子もない褒め言葉を口にして、彼はロキシーの手を握り、そのままソファーに引っ張った。
覆いかぶさるようにして倒れ込む。
「ちょっと! この酔っ払い!」
半身を起こし、叱りつけようと声を荒げると、彼の腕が背に回りさらにきつく抱きしめられる。
「あなたが好きだ」
時が止まったようだった。
「あなたを私の中に取り込んでしまえたらな……。
あなたの顔は綺麗だ。あなたの心は綺麗だ。私にとっては、あなたという存在全てが美しく思えるんだ」
ロキシーの愚かな心臓は、それだけで跳ね上がる。
酔っ払いの戯言だと言い聞かせても効果は薄い。
熱いほどの体温を感じていた。
「いてほしいんだ。側に……。それ以上は望まないから。もうキスもしない。あなたを困らせることは、なにもしないから」
吐息が顔にかかった。今現在困っているが、それは計上されないらしい。
彼の胸が上下するのを感じていた。酒の匂いに混じり、どこかで嗅いだ覚えのあるような、甘い香りが漂う。
しばらく、二人でそうしていると、突如として悲しみが這い上がる。
彼がどんなにロキシーを大切だと口にしても、言わない感情がそれ以上に多すぎる。何を考え、何をしようとしているのか、それを教えてくれることはないのだ。酒に酔ったときにしか弱さを見せてくれないなんて、対等な人間としては必要とされていないのだと、思い知らされる気がした。
ロキシーは静かに尋ねる。
「……日中、どこにいるの? 今日、軍に行ったのよ。だけどあなたは休みだって」
返事はなかった。
「いつも遅くまで何をしているの? 教えてほしいわ。だって、わたしもあなたの味方でいたいから……」
やはり返事はない。呼吸の音が聞こえるだけだ。
「……レット?」
体を起こして彼を見ると、本当に疲れていたのか、目を閉じ、眠り始めている。
「もう! 人の気も知らないで!」
毒づいた後、しかし寝苦しいかと思い服を緩めてやる。
寝室から毛布を取ってきて、彼の体にかけた。
ソファーの空いている場所に座り、しばらくその顔を見つめる。苦痛とは一切無縁の無邪気な子供にも、逆に世に疲れ切り束の間の夢に救いを求める放浪者にも見えた。
そっと、彼の髪を撫でる。
いつだって彼はロキシーの側にいた。辛い時には勇気づけ、楽しい時には一緒に笑ってくれた。別の世界の自分たちに愛がなかったとしても、今の、この世界では強い絆を結んでいると感じていた。
だけどかつての世界で、女王を操っていたのは誰だったか。強制徴兵をするように進言したのは誰だったか。その答えを知っている。
知っていて、必死に打ち消した。
「あなたを、信頼しているわ」
そう言って、彼の額にキスをした。
◇◆◇
ロキシーが自室に戻った気配を感じ、レットは目を開けた。
彼女を感じた額を、指でなぞる。
――なぜ。
自問が浮かんだ。
――なぜ自分は引き止めているんだ。
やらなければいけないことは分っている。
分かっているし、実際やっている。道は一つしかないし、結末もまた、そこでしかない。
――彼女を出て行かせるべきだ。
どこかで切り捨てなければならない。余計な感情は排除しなくては。
にも関わらず、酔いを言い訳にして、彼女に触れた。触れた体は細く、白い肌に透き通った静脈に、確かにその体に血が巡っているのだと気づかされる。
だからか、言うはずのないことまで言ってしまった。
彼女が部屋を出て行こうとしているのは気がついていた。いつか離れるときは来る。だから止めないつもりだった。なのに。
彼女を前にすると、理性や正しさなど吹っ飛んでいく。まるで自分ではない誰かがいるように、腹の底からどす黒い欲望が沸き上がって来た。
なぜブラットレイの屋敷に逃げ込んだ時、強引にでもあそこで暮らし続けようとしなかったのだろう。きっと優しい彼女は、同意してくれたはずだ。
彼女を自分だけのものにして、永遠に閉じ込めておきたい。誰の目にも触れさせたくない。この手で破壊してしまいたい。自分と彼女の境界が分からなくなるほど、ぐちゃぐちゃに、曖昧に崩してしまいたい。そうして混じりあえた先で、ようやく最上の幸福が得られるのではないか。
(馬鹿げた考えだ)
そこまで酔っちゃいない。
思考を打ち消すため、地方の兵士がよくやるように、珍しく舌打ちをしてみる。
(あの娘じゃあるまいし――)
ソファーから半身を起こし扉の向こうに呼び掛ける。
「……ロキシー」
返事はない。聞こえなかったのか、もう寝たのか。
戦争の英雄なんて、結局のところ虚構だ。
人々が見ているのはメッキの貼られた空洞でしかない。
見てればいいさ、見たいものだけを。そうして信じた先で、等しく穴に落ちればいい。
「信頼に値する男ではないんだよ、俺は――」
呟きは誰にも聞かれずに消えていく。
空洞を、彼女に見抜かれることだけが恐ろしい。
それでも額の、とうに消え失せているはずの熱に、いつまでも触れていた。




