幼なじみが現れて、わたしは少し自棄になる
しばらく冷戦が続いていた。
父の前では表面上は仲良く、しかし二人きりになると言葉を発することはなかった。
それでも意外なことに、モニカが表立ってなにか仕掛けてくることはなかった。ルーカスとやりとりする手紙に励まされながら、日々は思いがけず平穏に過ぎていく。
戦況が変わったのは夕食中の父の言葉だった。
「ロクサーナ」
名を呼ばれて顔を上げる。
「フィンを覚えているか?」
「フィン……。フィン・オースティン?」
懐かしい記憶が蘇る。
ファフニール家で暮らしていた六歳までの頃――まだモニカとも本当に仲が良かったあの頃――よく一緒に遊んだ三つ年上の少年がいた。
フィン・オースティン。
確か、商家の息子だったはずだ。身分は違えど家は近いし、裕福な彼の家は社交界でも顔が利いた。おてんばなロキシーとやんちゃなフィンは気が合って、その頃しきりに遊んでいたのだ。
父が頷く。
「そう、そのフィンがお前が戻ってきたと聞きつけたらしく、近々会いたいと言ってきた。いいかね?」
「はい! 楽しみです」
また友達になれるかしら、と期待に胸を膨らませた。
フィンとの約束の日、父は仕事で不在だった。だから屋敷にはロキシーとモニカしかいない。
「ねえロキシー。フィンに会えるの楽しみね?」
「え、ええ。本当に久し振りですもの」
客間で待っていると珍しくモニカが話しかけてきたので、驚きつつも答えた。父がいないときに面と向かって口を利くのはお茶会以来だった。
「仲良くなれるといいわね?」
そうね、とぎこちなく微笑むとモニカも天使のような無邪気な笑みを返してきた。
もしかして、馬鹿げた考えを捨てて、歩み寄る気になったのだろうか。それなら、やっぱり嬉しい。
「ねえ、ロキシー。わたくしたち、仲直りできるかしら?」
面食らったロキシーは束の間答えられなかった。モニカは神の裁きを待つ懺悔人のように不安げな表情でロキシーを見つめる。
妹も、ロキシーと同じ思いを抱えていたのか。一緒に仲良くやっていきたいというこの思いを。
「当たり前よ! わたしの方こそごめんなさい」
そう告げると、モニカはやがて満面の笑みへと変わる。ロキシーの側に寄ると嬉しそうにその手を握った。
そして手を握ったまま、自分の頬に近づけていくと、信じられないことに――自ら頬を殴った。
乾いた音がして、彼女はそのまま床に倒れる。
タイミング良く人が現れたのはロキシーがあっけにとられたその時だった。
使用人に連れられて、快活そうな少年が部屋に足を踏み入れたのだ。彼は少女二人を見て、目を大きく見開く。
「モニカになにを!」
そう叫ぶなり少年は即座にモニカの側に寄った。頬を押さえる彼女の手を慈しむようにそっと取る。
「見せてみろ。あぁ、頬が赤くなってるけど、大丈夫さ、血はでてない」
「あなた……フィン?」
声をかけると、彼はロキシーを振り返り、敵意を込めた瞳で睨み付けてきた。
この目を知っている。
憎悪だ。
ロキシーの背筋は凍る。図らずも、処刑されるあの夢で自分に向けられる群衆の瞳を思い出した。
彼は誤解している。モニカは自分で自分の頬を殴ったのだ。だが、傍からはロキシーがモニカの頬をぶったように見えただろう。使用人だってそう思ったのか、驚いた表情をしていた。
「ロキシー。お前、本当にモニカをいじめていたとは!」
フィンの剣幕に押されながらも、ロキシーはやっとの思いで言い返す。誤解を解かなければ。
「わたしはなにもしてないわ! モニカは自分でやったのよ!」
「馬鹿を言え! 誰が自分で自分を殴るんだ」
「――そこに泣きそうな顔でいる、あなたの目の前の少女よ!」
「いい加減にしろ!」
フィンはモニカを庇うようにロキシーとの間に立つ。静かに、しかし絶対に許しはしないという意志を秘めた突き放すような口調だった。
「モニカに相談されていたんだ。ロキシーに暴力を振るわれていると。
手紙でそれを知ったとき、まさかあのロキシーがモニカに手を上げるなどとは信じられなかったが。本当だったとは」
――ああ、まただ。
ようやく思い至る。
またしてもモニカにしてやられた。初めから歩み寄る気なんてなかったんだ。フィンの足音でも聞いて、あんな芝居を打ったのだ。
この妹の本性を知っていたのに、それでもあの微笑みに騙されてたなんて!
(不覚だわ!)
きっとフィンだって、彼女が呼び寄せたのだ。ロキシーが自分を虐待していると嘘を付いて。
(これじゃあ、まるきりわたしが悪者じゃないの!)
ロキシーがもし、普通の傷つきやすい少女であったなら、ここでモニカに屈していたかもしれない。
だがあの厳しい母に徹底的に仕込まれたロキシーは名誉を傷つけられて引き下がるような真似を自分自身に許さなかった。
「わたしがあなたに何をしたって言うのよ!」
叫ぶや否やフィンを突き飛ばしモニカに掴みかかった。不意打ちを食らったフィンは反撃する間もなく床に尻餅をつく。
仲良くなろうと努力した。
揺るがなかったのはモニカの方だ。ロキシーの胸にあるのは怒りではない。悲しみだ。
そして今度こそロキシー自身の力によってモニカの頬に平手打ちをかまそうとした――が、できなかった。胸ぐらを掴み、モニカの瞳を見つめ、彼女の目に浮かぶのが怒りや憎しみではないと分かった瞬間、振り上げた手を下ろすことができなかった。
モニカの瞳からは無機質の人形のように、何の感情も読み取れなかったのだ。
「やめろロキシー! 自分が何をしているのか分かっているのか!?」
すぐにフィンに羽交い締めにされる。
今度はロキシーの頬に痛みが走る。
殴った相手を睨み付けるが、あまり効果はなかった。フィンもまた、罪人を決して逃すまいという決意に満ちていたからだ。
「モニカに謝れ! 君はひどい仕打ちをしたんだ」
「わたしは絶対に謝らないわ! だって悪くないもの!」
ピクリ、と彼の眉が不愉快そうに動く。
「暴力を振るって楽しいのか」
まるで彼は正義の味方だ。
「今日のことは男爵に報告させてもらう。ロキシー、君は後悔するぞ」
「わたしが? まさか」
にこり、と微笑んでみせるとモニカでさえもぎょっとした表情になる。少し愉快だった。
「フィン、いつか商家を継ぐ気でいるなら、女を見る目を養ったらいかが?」
捨て台詞のようにそう言うと
「じゃ、ごきげんよう」
別れの挨拶を令嬢らしく礼儀正しく決めると、その場を後にした。最低だな、とフィンの声が背後から聞こえた。
自室に逃げ帰る。無残な敗退。
もうどうにでもなってしまえ、と思った。