冬の空に、小鳥は飛んでいく
庭から空を見上げた。
冬の空は遥か高く青く澄み、この世の憂いを映さない。
この箱庭の中で、木々の葉は外に広い世界があるとは遂に知らず、地に落ちる。それを足で踏みつけた。
「モニカ、朝が早いね」
「お兄様」
現れたクリフを見て、モニカは微笑む。
「何か、ご用でしょうか?」
「いや、私も時には早朝に庭を眺めたくなることもあるんだ」
クリフもそう微笑み返し、どちらともなく、連れ立って歩き始めた。
「暮らしには、もう慣れたかい?」
「はい、皆さん、とても優しいですわ。お父様も、よくしてくださいます」
「父上は、モニカがかわいくて仕方がないらしい。無理もない、生きているかも分からずに探し回っていた娘と、ようやく再会できたのだから」
モニカが王女だと名乗り出てから、半年が過ぎていた。あれ以来、家族とは会っていない。モニカがこうして王家に迎え入れられた以上、通常であれば育ての親のオリバーは褒賞に値するだろう。
だが彼は、反乱軍と内通していたのではないかと未だ疑惑の渦中にいた。見張りはいなくなったものの、王からの言葉もない。存在を忘れているかのようだった。まさしくそうなのだろう。王にとって、命を懸ける覚悟で国に献身してきたオリバーはすでに過去の人間だったのだ。
ファフニールの家族とは疎遠になったと城の面々に伝えていた。皆モニカに気を使って、連絡を取ることもしなかったらしい。この半年、音沙汰はない。
「まだ、信じられないようだ」
ふいに立ち止まったクリフが、じっとモニカを見つめる。
「君が妹だとは、思いもしなかった」
「まるで他の人のことは、そう思っていたような口ぶりですわ」
ふふ、とモニカは笑うが、クリフは真面目な顔をして押し黙った。
「オリバー・ファフニールが、わたくしの出自を保証してくださいますわ。気になさっているのなら――」
モニカが王家に迎え入れられたということは、それなりの裏どりをしているはずだ。間違ってはいるが。
「疑ったわけじゃない。すまない」
言葉を遮るように、クリフは謝罪を口にした。父親に似ず、さほどプライドは高くない。
「ただ、奇跡のように思えるよ。父は母を憎んでいたし、命さえ奪った。だから君が帰ってこれたということは、父は母を許せたということだ」
――果たしてあなたの母はあなたの父を許しているのかしら?
モニカはクリフのこともよく知っていた。
人の愛を信じる、夢見がちな青年。そう思えば、確かにロキシーとよく似ている。愛されて育ったから、人間誰しも愛を持っていると勘違いをしているのだ。
「わたくしも、とても幸福に思っていますわ」
どこかでヒタキが鳴く声がする。
口から漏れた白い息が、宙に消えていった。
◇◆◇
自室にいたモニカは、ひどく取り乱した様子のメイドに呼ばれた。
用件を伝えられ、ああ、そういえばと思う。もうその日になったらしい。
赤い目をしたメイドに礼を言い、そこへと向かう。
夜だった。街の明かりが眼下に見えた。
城内は勝手知ったるものだ。面白味もない。
この人生においては二度目だ。クリフの誕生日に、ロキシーと来た。何度も来たこの城が、あの日だけはとても楽しく思えたのは、なぜだったのだろう。
答えは知っていたが、辿りつく前に打ち消した。そんなもの、認められない。
進むと、廊下にロイ・スタンリーの姿があった。
「モニカ様、陛下がお呼びです」
「聞いたわ」
彼との立場は逆転した。モニカはもはや男爵令嬢ではない。
厳粛なアーロン王の心さえ溶かした、麗しの姫だ。かたや、ただの王子の家臣である。
父親の死に際して泣きもしないモニカを、ロイがどう思っているかは不明だ。ロイはモニカの本性の一部を知っているが、口の堅い男だ。忠義のつもりか、モニカの性格を口外することはなかった。
扉を開くとすでにクリフがいた。憔悴していたが、モニカを見ると微かに笑う。
「おいで、モニカ」
手が差し出され、それを取る。そのまま、ベッドに横たわる王の前に立った。
やせ細り、かつての威厳はない。目を閉じ、既に死んでいるように見える。
「お父様」
呼び掛けると彼は目を開けた。
「モニカ……」
弱々しい声だった。
「私は既に父と話した。モニカ、お別れをするといい」
そっとクリフは一歩離れる。
アーロン王。王家の外様であり、血統だけでは決して王位にはつけなかった。女を利用することで、ようやくそれを手に入れることができた、身の程知らずの野心家だ。冷徹で傲慢な王の評判は、当然の如くあまりよくはない。
だがモニカに会ってから、他の者への態度も和らいだ。涙を流してモニカに感謝をする使用人すらいたほどだ。
その王は、先刻血を吐き、そして倒れた。そのまま帰らぬ人となることを、モニカだけが知っている。病に苦しみぬいた彼は、しかしどこや安らかに見える。
最期に生き別れの娘に会えて、元妻に許されたとでも思ったのだろうか。すがるように、モニカに手を伸ばす。
(馬鹿ばっかり)
許されはしない。
なぜなら、モニカにはその権利も、興味もないからだ。
モニカは手を握り返した。彼はほっとしたように、力なく微笑む。
耳元で、彼にしか聞こえないほど小さく囁いた――。
「……ねえ。わたくし、本当はあなたの娘じゃなくってよ」
王の目が、驚愕に見開かれた。
笑いをこらえきれずに、小刻みに揺れる背を、泣いているとでも勘違いしたのだろうか。誰かのすすり泣きが聞こえた。
真相を告げてあげるなんて、自分はなんと優しいのだろう。
だが彼は、何を言われてたのか、理解できていないらしい。
「だからあなたは、誰にも許されていない。未来永劫、咎人よ」
王の顔がぴくりと震える。
口が物を言いたげに開かれたが、出たのは不規則な呼吸だけだ。二、三度嫌な呼吸を繰り返し、そのまま目を閉じた。すぐさま医者が駆け寄ってくる。
「父上!」
クリフもまた、王の隣に寄り何度も呼び掛けた。
「お父様!」
モニカは、涙を流しながら、果たして父はどこにいるのだろうかと冷静に思った。
少なくとも、ここにはいない。
モニカにとって、父は一人だけだった。それはあの、頑固で融通の利かない、正義だとか信頼だとかいう言葉が大好きで、真面目の上に馬鹿がつくような、オリバー・ファフニールだけだった。
実の娘すらその信念のために利用しようとした、あの父だけだ。
ほどなくして王は死んだ。
やはり何の悲しみも抱かなかった。