決意を固めて、わたしは家を出る
「よくものこのこと顔を見せられたわね!」
帰宅すると予想通り、モニカは怒りを露わにした。玄関先で、ロキシーとレットは彼女の非難を受ける。
「散々探したのよ! 二晩も情事にふけっていたってわけ――!?」
モニカの右手が天高く掲げられ、そのまま振り落とされる。
だがロキシーの頬に痛みはなかった。
「私の前でもご自分を偽らなくなったのは喜ばしい限りですが、暴力はいただけない」
二人の間に割って入るようにレットが立ち、モニカの手を掴んだからだ。その手から抜け出すようにモニカが腕を引こうとするが、動かせずにいる。
「……離しなさいレット。あなたはわたくしの婚約者のはずよ!」
「今更、もう無理でしょう」
「たった二日で婚約を破棄するなんて! わたくしに、恥をかかせる気!?」
レットは冷笑する。
「どうやら過去の世界と一番異なるのはあなたのようだ」
モニカの目に疑問が満ち、しかし次の瞬間には氷解したかのように見開かれた。
「は、話したのロキシー!? よりにもよって、この男に!?」
「話したわ、全部」
レットがモニカの腕を離したせいか、バランスを崩しよろめく。
「ば、馬鹿なの!? レットの言う言葉なんて、嘘に決まっているでしょう! 分かってるの!? この男がわたくしとあなたを殺すのよ! あなたは利用されてただけ! わたくしだって、本当はそうだったのよ。この男に殺されたのよ! 愛してなんていなかったの!」
「分かってるわ」
「分かって――ええ!?」
モニカは怒るべきか困惑すべきか見失っているようだった。
「分かってるのよモニカ。わたしが彼に良いように利用されたってことも、彼が目的のためになんだってやった人だったってことも。彼だって、別の世界で自分が何をしでかしたかも知ってるわ。わたしたち、何もかも分かっていて、その上で帰ってきたの」
ロキシーとレットを交互に見て、モニカは何か言いたげに口を動かす。しかし出たのは空気だけだった。
言うべき言葉が見付からないようだ。
そしてようやく発せられた声は、ひどくかすれたものだった。
「わ、わたくしは、いつもロキシーのために、ロキシーを守るために動いてきたっていうのに! いろんなものを犠牲にして、それでもあなたのために……!」
それだって分かっている。だが静かに、ロキシーは問いかけた。
「モニカ。あなたはルーカスにレットを殺せと、命令をしたの?」
違う、という返事を期待していた。お馬鹿ねロキシー、どうしてそんな勘違いをしたの、と。そしていつもみたいに山のような証拠とともに、ロキシーの勘違いを否定して欲しかった。
だがモニカは目を見開き、答えない。
もはやそれが答えだった。
音も無く失望が広がっていった。
ルーカスはモニカの駒にされた。ロキシーを大切に思う、その感情を利用されたのだ。
あの教会で弟はすがるようだった。だが最期まで助けてとは言わなかった。
何度も謝り、静かに思いを伝え、そして去った。二度と戻るつもりはなかったんだろう。その通り、彼は永遠にいなくなってしまった。もうあの笑みを、ロキシーに向けることはない。
消沈するロキシーをモニカはいつも慰めてくれた。側にいて、元気づけ、冗談を言って笑わせてくれた。モニカがいなければ、ロキシーは悲しみに暮れるだけだった。だからロキシーがこうしていられるのは、モニカのおかげだと思っていた。
だが、ルーカスが戦争にいったのは、モニカが命じたからなのだ。
慰めも、笑顔も温もりも、何もかも嘘だった。偽りの優しさで得たかりそめの安寧。二人で少しずつ作り上げた砂の塔は、風が吹いて崩れ去った。
愚か者はロキシーだった。
「……わたしたち、もう、側にいない方がいいと思う。正しいことが分からなくなるほど、二人の世界に閉じこもっていたんだわ。一度離れてみましょう。このままじゃ、よくない。もっと世界を知らなくちゃ」
モニカは必死に首を横に振る。
「嫌よ……。世界なんて、隅々まで知り尽くしてるもの! だめよ! そんなことしたら、あなた死んじゃうわ! わたくしの側にいなきゃ、守ってあげられないじゃないの!」
「平気よ。人間って、案外強いから」
「わたくしを一人にするの!?」
「そうよ。そしてわたしも一人になる。お父様のお世話は、今まで通りわたしがするわ」
モニカがロキシーに掴みかかろうとしたのを、レットが体を抑えるようにして阻止した。
しかしその手が目に入らないかのように、モニカは叫ぶ。
「この屋敷を出て行って、どこで生きるって言うのよ!?」
「どこだって生きていくわ」
「自分が追い出されるという考えはないのか」
呆れたようにレットが言う。
「私がロキシー様とお父様を引き取りましょう」
「だけどレット」
「新しい住まいが決まるまでの仮住まいとでも思ってください。出て行くのは今日にしましょう。そうだ、それがいい」
彼はモニカを腕から離した。
「お父様を連れて参ります。すぐ戻りますから」
答える前に、階段を上がっていく。
モニカはロキシーを睨み付ける。
「二人はできてたってこと? もしかしてずっと前からなの!? 彼が帰ってきてから!? 二人で屋敷の様子を見に行った時!? それとも戦争に行く前からなの!? あの宿屋での一晩でやっぱり何か起きたってこと!?
ロキシー、あの男のことなんて、なんとも思ってないって言ってたじゃないの! 気色が悪いわ、あの男が愛に目覚めたですって!? 二人してわたくしを嘲笑っていたんでしょう!?」
「そんなことしてないわ」
覚悟を決めてから、ロキシーは自分でも驚くほど冷静だった。
モニカがどれほど泣きわめき怒ろうとも、いつかはそれが互いのためになると信じている。
「裏切り者! ずっと側にいるって言ったのに! やっぱりあなたはそういう人間だったのよ! 自分だけが大切なんだわ! 悪役の、史上最低の女でしかないのよ!」
モニカは言いながら、その大きな瞳に涙をため始めた。
「……ロキシー、お願い。あなたが大切なの……。側にいて欲しいの……。こんなの、嫌。ひどすぎるわ。一人じゃわたくし、生きていけない……」
しゃくりあげるモニカから、救いを求めるように手が伸びてくる。いつだって、ロキシーとモニカはそうやって生きてきた。片方が立ち上がれなくなったときは、もう片方が手を差し伸べてきたのだ。
その手を、思わず取りそうになる。
「耳を貸すな」
声が聞こえ、はっとしてそちらを見た。
階段の上に、オリバーを支えたレットが姿を現した。どちらの表情も固い。
「そのしたたか者が、一人で生きていけないはずがない」
ぎろりと、モニカがレットを振り返る。涙は止んでいる。
「モニカ様。私が意地悪をしているとでも? あなたのことを考えてそう言っているんですよ。財産と家は残すと、お父様はおっしゃっておいでだ。暮らしには当面困らない」
「こんなことして、ただで済むと思ってるの……!」
彼女の言葉に、誰も答えない。
「お父様、その男に従うの!? 娘のわたくしを、ここに残していくつもり!?」
足が悪いオリバーは、支えられながら降りてくる。レットからどんな話を聞いたのか、苦渋の表情だった。モニカのことも、ロキシーのことも見ようともしない。
「……すまないフォード。お前にはいつも迷惑をかけてばかりいるな」
「したいからしているだけです。一生かかっても返せないほどの恩がありますから」
下まで降りてくると、レットはロキシーにも手を伸ばす。
「さあ、用事は済んだでしょう? 行きましょう」
ロキシーは首を横に振った。
「一人で歩けるわ。……モニカ。荷物は後で取りに来るから」
小さい頃、星に願ったことは何一つ叶わなかった。
今なら理由が分かる。
守られたゆりかごの中から祈ったって、誰も聞いてやしないのだ。
玄関を出る。雨が降ってきた。ブラットレイの屋敷でも出会った雨雲が、こちらまできていたらしい。
モニカは動かないままだ。目の前の光景が、信じられないかのように唖然とした表情で見つめていた。
レットの帰宅のために外で待っていた馬車に、三人で乗り込む。
「私の部屋は手狭ですから、もう少し広い部屋に越しましょう」
「ありがとう。だけど王都から、離れたくないわ」
これから内乱が激化するなら、少しでも未来を知っている自分は役に立つはずだ。
「あなたには大切なものが多いんですね。ええ、そうしましょう」
レットが笑った。
「平行線は交わることは決してないが、永遠に側にいる。今はそれで良しとします」
刹那、屋敷の中から、憎しみをはらんだ声が追ってきた。
「許さないわロキシー!」
雨音に混じる、彼女の声。
「あなたから何もかも奪ってやる。わたくしを裏切ったこと、絶対に後悔させてあげるから! そしてその時、確かにわたくしが必要だったって、あなたは実感するのよ!」
狂気的な高笑いが聞こえる。
屋敷を遠く離れても、その笑い声はいつまでも耳に残っていた。




