列を外れて、彼は銃を向けた
やはりその日も大雨だった。夜になり戦闘が開始された。暗い森の中だった。足場も視界もひどく悪い。銃弾が飛び交い、当たった兵士が倒れていく。
熾烈な戦闘の末、敵兵を退けることに成功した。撃退された敵は、後方へと下がっていった。
遙か左方では、遠く砲弾の音が聞こえていた。あちら側には敵国の大砲が集中的に配置されていたはずだ。だがやがてそれも収まった。
戦場は静寂に包まれる。休憩を与えられているのではない。必ず来るであろう第二波に備え、再び装備を調えた。
だが肩すかし。敵からの攻撃はなかった。
そして、突如として退却命令が出た。
レットは上官の言葉を伝えに来た兵士を前に困惑する。
「退却だって? それは本当に確かか? 聞き間違いではなく」
「確かです! 私もこの耳を疑いましたから。一度山脈まで戻り、そちらで迎え撃つようです。詳細はまた、とにかく引けと! 左方のラインが突破されたんですよ!」
前線を捨て下がれという命令を聞き、決死の覚悟で戦っていた部下たちの顔に疲れが見えた。
「この前線は死守しろということではなかったんですか」
先日病院で合流したルーカスが、兵士たちの疑問を代表して尋ねる。
内心どう思っているかは全く不明だが、上司となったレットに一応の敬意は払っているらしい。
「捨てるわけではない。山脈に戻り、そこで他の旅団と合流するんだ。我々は、敵が横断するのを食い止める」
ほぼ全ての兵士に退却が命じられているようだ。雨が降りしきる中、兵士たちは無言で、蟻のように連なって動いた。
途中、雨で水かさを増した川にさしかかったところで部下の一人が泥濘に足を取られ、転んだ。
奇妙な倒れ方に違和感を覚え駆け寄ると、おびただしい量の血を流しているのが暗がりで見えた。どこかに致命傷を受けている。
「なぜ黙っていたんだ!」思わず大声を出す。
「すみません、中尉。大丈夫だと思っていたんですが、どうもだめらしい」
「少し休みましょう。彼はもう動かさない方がいい」
ルーカスが彼を支えながら言った。隊の部下も足を止め、どうしたものかと様子を見ている。
「他の者は先に行ってくれ。合流先で理由を話し、他の将校の指揮下に入るんだ」
部下たちは進み始めた。行列が去って行く。ルーカスは留まることに決めたようだ。
一人で立つことも限界らしいその部下を、二人で木の下に運んだ。気休め程度の雨よけにはなった。すぐ側で、川が轟音を立てて流れていく。
「くそ」と負傷した部下が毒づいた。
「ここがおれの死地なのか。死ぬなら女の腕の中が良かった」
「君は誇り高い名誉とともに逝けるんだ。商売で相手してくれる女性よりは人の愛情を受けるはずだ」
「相変わらずへらず口を。……中尉、行ってください。へま野郎にかまけてる暇はないはずだ」
「つれないことを言うな。最期までいるさ」
すでに兵士たちは去った。暗い森の中には、三人しかいない。
「なあ、フォード中尉。あんたは何か特別なことを成す人だ。言ったでしょう、おれはあんたが好きだって。それは変わっちゃいない。だが思っていたよりも遙かに、いい人間になった。行く末を見たかったが、もう無理らしい。おれは何人も殺した。迎えに来るのは悪魔だろう。行き先は地獄だ」
「行ったら住み心地を教えてくれ」
「ここよりはましでしょう。ここは地獄よりひどいんだから」
「ならどこだって天国だ。安心したまえ、私もすぐに行くさ」
「馬鹿を言え。なるべく時間をかけて来るんだ。あの世に行っても青二才に命令されるなんてこりごりだ。もうあんたの顔は見飽きたんだから……」
そう言って小さく笑った彼から、ふ、と命が消えるのを感じた。何度も見た光景だが、何度見ても慣れない。
呼吸をすることをやめた彼に、上着をかけた。敬意を示したつもりだった。レットが戦地において持った部下の中で、最も長く一緒にいた者だったから。
魂の抜けた肉体というものは、不思議と誰もが穏やかだ。苦痛からも幸福からも、解放されている。憧れないわけではなかった。だが、今ではない。今はまだ、行けない。
レットは立ち上がる。
背後のその気配を感じたのはその瞬間だった。
即座に振り返る。気配が確かにそうだと目で確認してからも、ではなぜ彼がそうしているのかは少しも分からなかった。
「ルーカス」
できる限り冷静に、彼の名を呼んだ。
「敵味方の区別すらつかなくなったのか」
自分でも間抜けな質問だと思った。
だが問いかけずにはいられない。ルーカスが拳銃をレットに向けている、その理由を。
「あんたを、殺さなきゃならないんだ」
揺るぎなくルーカスは言った。
「私が君に何をした。それは死を持って償わなければならないことなのか? 自分で何をしているか分かっているのか。私が反撃しないとでも? だが君は、私の大切な方の大切な人だ。理由を話せ」
「話すことはできない」
「なら殺される訳にもいかない。ロキシー様が悲しむぞ」
その名を出した途端、初めて彼の顔に怒りが滲む。
「黙れ! あんたがロキシーの名を口にするだけで、虫唾が走る!」
ルーカスがロクサーナを、姉として以上に愛していることは知っていた。
ならこれは嫉妬か? だがそんな単純なものではないことは、彼が浮かべる苦悩の表情から明らかだった。精神と体の統合が取れていない者のようだ。それでも、銃口をレットから外そうとはしない。
「ああ、ちくしょう!」ルーカスは叫んだ。
「あんたが根っからの悪人だったらマシだった! 待ち望んでたまたとない機会だ。頭の中で何度もあんたを撃った。殺すことに、躊躇なんてしないはずだったのに――」
刹那、レットは自分の腰から拳銃を引き抜き、ルーカスに向けて発砲した。
正確には、その後方に向けて。
弾の先で、人に当たった気配がした。ルーカスは弓ではじかれたように木の陰に入る。レットも岩に身を隠した。途端、おびただしい量の銃弾が浴びせられる。
敵兵だ。追ってきたらしい。
大軍ではないが、少なくない人数がいる。
「たった二人で、敵を突破できるか?」声が届く距離にいるルーカスに尋ねた。
「……無理に決まってる」やや遅れて返事があった。
「持ちこたえて、援護を待つか」
「来やしない。山脈で防衛線を張るんだろ。ここで二人死んだくらい、大した痛手じゃない」
同感だった。
「なら、我々も逃げるか?」
「あんた、やっぱり嫌な奴だな。分かって言ってるんだろう?」
ルーカスが笑った。
「逃げるなんて、死よりも屈辱的だ」
また一発、銃弾が側をかすめていった。こんな究極の場面においておかしな話だが、レットもつられて笑う。
さっきまで銃口を向けられていたのにも関わらず、同じ思いを抱える同志がいるという事実に励まされたのだ。
「ここでオレもあんたも死んで、名誉ある戦死になれたら、それが一番いいのかもしれない。誰も傷つけないまま、目的を遂げることができるんだから」
一体どうしてそこまで彼は思い詰めているのか、やはり想像すらできない。
自分の命を賭けてまで戦場に来たのはレットを葬り去るためか。だがまるで自分の正義とは反しているかのように苦悶の表情だ。にもかかわらず、彼はしなくてはならないのだ。
「君は何を抱え込んでる?」
そう尋ねたときだ。一瞬のことだった。耳に、発した覚えもない自分の声が聞こえた。
――彼女を殺してからだ。この胸のざわつきはなんだ!
ぐわん、と耳鳴りのような重低音が響き、締め付けるような頭痛を覚えた。あまりの痛みにどうすることもできず拳銃を手放し頭を抑えた。
――ロクサーナ、なぜ死後も私を苦しめる!
やがて痛みが引いていき、幻聴も消えていく。
銃声とは明らかに異なる現実の音がしたのは、その直後だった。
大砲から発せられた砲弾により、岩が破壊される。
それは彼のとっさの行動だったのかもしれない。
ルーカスが木の陰から飛び出し、レットの体を掴むと岩から引き離す。
だが遅かった。体が吹き飛ぶ。
岩の破片が無数のナイフとなって体中に突き刺さった。死とはかようなものか。あまりにも一瞬で、感じる暇も無く過ぎていく。
目を覚ました時、辺りは白んでいた。川岸にいた。体が冷えていた。切り刻まれ続けているかのように全身が痛む。だがその痛みが自分の存在を知らしめた。
数カ所の裂傷があるものの、どうやら生きてはいるらしい。
周囲を確認する。攻撃を受けた場所とは地形が違っている。川に落ち、下流へと流れ着いたようだ。側に自分以外の気配を感じて慌てて目を向けた。
赤毛の青年が川から上半身を出し、ぐったりとしているのが見えた。




