誰でもないと、わたしは気づく
埃を被った家の中は、いたんではいたものの、ほとんど以前と変わりなかった。荒らされてもいない。
一通り回った後で、自分の部屋に入る。
子供サイズの小さなベッドに座ると、はずみで埃が舞った。
「お父様が心配してしまうわ。無断外泊なんて……」
「驚いた。まだ戻るつもりでいるんですか?」
言いながら、隣にレットは腰掛けた。彼は帰る気がないんだろうか。
「かわいらしい部屋ですね」
視線はぬいぐるみ群に向けられている。日に当てられ色あせているそれらは哀愁を漂わせ、時の流れを感じさせる。
「ずっと当時のままだもの。今の部屋はそうじゃないわ。もっと大人っぽいんだから」
照れをごまかすようにそう言うと、レットが声を上げて笑った。
しかし、ふと真面目な顔になると、ロキシーの頬に手を添える。
ロキシーはいまだかつて知らなかった。男が愛する女に向ける表情が、これほどまでに慈しみに満ちたものだとは――。
見続けられず、顔を背けた。
「他の誰に恋をしてもよかった。あなた以外なら、それでよかったのに……。モニカが怒るわ。わたしの罪を、一緒に背負ってくれていたのに」
「あなたが何の罪を犯したと言うんです?」
「あるのよ。生まれる前に犯した、決して許されない罪が」
「分からないな。原罪のことを言っているのか?」
目の端で、彼が不思議そうな顔をしたのが分かった。
「あなたは実に奇妙だ。人が抱える罪を、全て背負っているような顔をしている。その背にあるのは十字架か?」
「そうじゃないわ。もっと確かで、おぞましいものよ」
言いながら、恐ろしくなった。夢から徐々に覚醒していくように、現実がじわじわと忍び寄ってきた。
ぽつり、と窓に水滴が落ちる。雨が降り始めた。
モニカの側にいなくてはならないのに、どうして彼女の愛する婚約者と、こんなところにいるんだろう。
首が痛む。痛むはずなどないというのに。
「ああ、レット、どうしよう! モニカはきっと泣いているわ! わたし、戻らなきゃ……!」
すがるように伸ばした手を、彼が受け止める。
「あの娘が泣くものか! またあの地獄に戻るつもりですか?」
「自分で望んだ地獄だわ!」
「なぜそうやって受け入れるんです?」
「神様の罰だからよ」
「違うだろう。罰しているのは神じゃない、あなたの妹だ。あなたを思うように操って、愉悦に浸っているんですよ」
ひゅっと、息を吸い込む自分の呼吸が聞こえた。ロキシーだって、そんなこと分かりきっている。
だがレットやルーカスが言うような、そんな種類のものではない。もっと悲痛で、切実だ。いつだってモニカは心からの悲鳴を上げている。
「分かりっこないわ。あなたにも、誰にも。あの子のこと分かってあげられるのは、世界でたった一人、同じように苦しんだわたしだけなんだから――」
「まるで悲劇のヒロインのようだ」
ロキシーの必死の訴えを、レットは鼻で笑う。
「戦場で私が学んだことは、地方の男たちの口の悪さの他には、たった一つだけです。何も傷つけずに、戦いもせずに、欲しいものを手に入れられる訳がない、ということですよ、ロキシー様」
言い返そうとしたが、レットが突然シャツのボタンを数個外し、肌を露出させたため機会を失う。
息を呑んだ。
「……ひどいでしょう? あまり見せられたものじゃありませんが」
彼の体は傷跡だらけだ。兵士というのは皆そうなのだろうか。内蔵まで達していそうな、深く、長いものもある。生きているのが奇跡のように思えた。
「傷ついているのは、あなた方だけじゃない。今の時代、誰もが等しく傷を負っている。体だけじゃない。その精神にもだ。狂い出しそうな頭を抑えつけ、普通の顔して暮らしてるんです。分かりますか? 苦しんでいるからと言って、人を支配する権利は、人にはないんですよ」
その傷跡を隠すように、ロキシーはレットのシャツを掴み閉じた。手が震える。悲しみが心を埋めていった。
「……いつかあなたは言ったわ。わたしはまだ、自分が誰であって、誰でないのかを知らないって」
だが今は分かる。
「わたしは、誰でもなかった。誰にもなれなかった。結局、前と一緒だわ。人を傷つけてばかりの無知で馬鹿の女よ」
「あなたが誰であっても、誰でなくても、そんなことは、本当のところ重要じゃないんですよ。あなたに傷つけられるなら、進んでその刃を受けましょうとも。無知だって? これから知っていけばいいだけの話だ」
なぜ彼が、ロキシーの側にいてくれるのか。答えはとっくに知っていた。水滴が家の壁に当たる音の他には、自分と彼の呼吸の音しか聞こえなかった。
あなたが好きだと、そう言ってしまえたらどんなに楽だろう。
雨音が強くなる。口から出たのは、愛の告白ではなかった。
「助けて……。助けて、お願い、助けて……」
自分を救えるのは自分だけだと、幼い自分は思っていた。王子様なんて現れないと知っていた。なのにもう、自分を救い上げることさえままならない。
嗚咽のように漏らした情けない言葉ごと、レットはロキシーを抱きしめた。温かい腕の中で、思いがけず心が安らいだ。
「これから先、何があっても、私はあなたの味方だと、信じてくれますか」
レットはまるで砂糖でできた底なし沼だ。甘さに惑わされていたら、気が付いた時にはきっと溺れて死んでいる。
「あなたは何も考えなくていい――」
何度目かの、口づけをした。
ロキシーは両手で彼を抱きしめた。狭いベッドに、背中がつく。
雨が降る。こんな時は、いつだって雨だった。