列車に乗って、彼と駆け落ちをする
――レット、ロキシーに何をしたのよ!
――疲労が溜まっていたんでしょう。一人でずっと慣れない家事をしていたのだから。
――どこに連れて行くの!?
――医者です。金の心配ならしなくていい、私が出しますので。
――待ちなさい!
――お父上とお待ちを。すぐに戻ります。
誰かが言い合うような声を、遠くで聞いていた。
自分の体が揺れているような気がして、ロキシーは目を覚ました。すぐ隣に人の気配を感じて目を向ける。
「長い間軍服を着ていたから、普通の服というのは締め付けがなさすぎて落ち着きませんね。寝間着のようだ」
目を覚ましたロキシーにレットは優しく微笑みかけた。
彼の後ろで景色はものすごい早さで動いていく。
しばらくぼんやりとそれを見つめ、ようやく普通でないことに気が付いた。
「こ、ここはどこなの!?」
「列車の中です」
「なんで!?」
窓際に座る彼に乗り上げるような形で窓にしがみつく。知らない形の建物や畑が見えた。
「厨房で、あなたは気を失ってしまったんですよ。医者に運ぶと言って、連れ出しました」
顔が青ざめるのが分かった。
レットと二人、こうして列車に乗っている。しかもキスまでしたと知れば、モニカの怒りは果てしないだろう。
「帰らなきゃ!」
「次の駅で降りれば最終には間に合います」
通りすぎる景色はすでに暗い。
レットは再び言う。
「このままこの列車に乗っていけば、あなたの家へ帰れます。あなたが選んでください」
あの場所だけが、ロキシーの帰る場所だった。山があり、川があり、広大な農場があり、愛する家族がいた。
ずっとあの場所に帰りたかった。焦がれて夢見て望んでいた。
彼は言い訳を与えてくれた。だが引き返す道も与えてくれた。
ロキシーに選べと言っているのだ。
きっとモニカが怒るだろう。オリバーが悲しむだろう。
それでも心を染めていくのは温かな思い出だった。あの家に、本当に帰れるのだ。
やがて列車は隣の駅に到着する。到着を告げる駅員の声が響いても、ロキシーは席から動かなかった。
レットの手が、ロキシーの髪に触れる。
「悪くない選択だと思いますよ」
そう言って、レットはその髪の一房にキスをする。
「いつかの続きのようだ。今回は、正真正銘駆け落ちですね」
真意が分からず、困惑した。
「なんでこんなことするの?」
彼は微笑む。
「あれから繰り返し考えていました。もしあの雨の日に、本当にあなたを攫っていたら、どんな未来になっていただろうかと」
「お父様があなたを見つけ出して叩きのめすだけよ」
「もしくはあなたを迎えに行ったとき、帰れと言われて素直に帰っていたら、あなたはずっと笑顔で過ごせていたかもしれないとも思いました」
「戦争がやってきて、農場が無くなるわ。路頭に迷って死んじゃうだけ」
「それじゃあどうあがいても無理だ。やはり今戻るのか一番良い」
なんと答えていいか分からず、ロキシーは黙った。なぜレットがここまでしてくれているのか分からないし、自分がどうして彼の側にいるのかも分からなかった。
「兵士たちと結婚の話になったとき、結婚するならあなたとだろうなと思いました」
「……小さい女の子が好きなの?」
「そうじゃない。あなたが老人でも幼くとも、きっとそう思ったでしょう」
「十年早いって言ってたのに」
「十年は言い過ぎました」
しれっとレットは答える。
頭では分かっている。
彼はモニカの隣にいなくてはならない。なのにそれを口にできなかった。言ってしまえば、隣の温もりを失うことになる。
「わたし、あなたを利用してる」
「光栄だ。存分に利用してください」
レットの手が、ロキシーの手に触れた。だがするりと、そこから逃げ出した。
彼と場末の旅館に泊まった時のことを思い出す。あの時彼は、拒絶したというのに。
「前は利用するなって言ってたわ」
「利用するなとは言ってません。利用する気ですねと言ったんです」
「そういうのを詭弁っていうのよ」
「難しい言葉をご存知ですね。利用されたとしても、人に必要とされるのは悪くない、と考えを変えてみました」
「自分のない人ね」
「発想が柔軟なんですよ」
のらりくらりと躱される。
核心に触れさせまいとしているようだ。だがやはり、先に踏み込んだのはロキシーの方だった。
「でも結局、あなたはモニカを選んだわ」
彼は答えない。
「……蝙蝠の童話をご存知ですが?」
「鳥にも動物にもいい顔をして、どちらからも相手にされなくなったって話でしょう?」
「この話の教訓は、立ち回るならばれないようにということだったと思うのですが」
違うと思うが黙っておいた。
「私は理想のためなら他人をどこまでも利用できる人間だと思っていました。ひらりひらりと立ち回るような。でも実のところ、一人の愛する女性が悲しんでいるのを目の当たりにするだけで、容易く信念が揺らいでしまった。
なんでこんなことするか、でしたね。なんのことはない。私は普通のちっぽけな男でした。ただ、それだけの話です」
ならレットは、モニカを利用しようとしていたのか。彼女が王女だから。
モニカは本当にレットを愛しているのか。ロキシーに立場を分からせたいだけ――?
レットはまだロキシーが王女だと思っているのか。だからこんなに側にいてくれるんだろうか。権力欲しさに? あるいはモニカとどちらが王女かまだ見当を付けられずにいるんだろうか。
それとも本当にモニカを愛している? だって婚約をするくらいだ。なら、どうして今ここにいるんだろう。
それとも、それとも……。まさかロキシーを本気で心配してくれているのか。
聞きたいことはまだあったが、彼が先に言葉を発した。
「これから、どうしましょうか。二人で農場でも始めますか?」
「ずっと向こうに住むつもり? あなたほどの有名人が軍を抜けるなんて許されないでしょう。それに今だって、勝手に抜け出していいの?」
「休暇は山ほど溜まってますし、文句は言わせません。それくらいの貢献はしてきたつもりです。誰も私たちの行き先を知らないし、本当に姿を消したところで、追うことなんてできませんよ」
そこまで言ったところで、レットの手が、ロキシーの手を遂に包んだ。たったそれだけのことなのに、なぜだか泣きそうになった。
この手は知ってる。以前の世界で無理矢理掴んだ手だ。彼から握り返されることはなかった手だ。憧れてたまらなかった。今は容易く触れられる。握り返せば、より強く返される。こんな簡単に――。
「今度こそ、家に帰りましょう。あなたの、家に」
感じる彼の手は、過去よりも遙かに強く、温かかった。
ロキシーは今相当うじうじしているはずだ。
八つ当たりめいたことも言った。
それでもレットは、いつかのように途中で席を立つことはなく、いつまでもロキシーの隣に座っていた。