歪んだ世界を、彼女は否定する
ぱたぱたと、去って行く小さな足音が、確かに聞こえる。
(……かわいそうなロキシー。だけど、これが彼の本音なのよ)
――だが予測に反して、レットがモニカを求めることはなかった。
触れる唇から、ふ、と息が漏れるのを感じた。
モニカがレットから体を離すと、彼は声を上げて笑った。おかしくてたまらない、そんな風に。
「モニカ様、見くびってもらっては困ります。私がそんなつまらないものにこだわる男だと?
彼女に結婚を申し込んだのは、単に彼女と結婚したかったからですよ」
少なくない衝撃を食らう。よろめいて、テーブルに手を着いた。
「う、嘘よ、そんなはずないわ! あなたは愛なんて理解できない、自分本位の冷徹な人間だもの!
ねえレット、あなたはわたくしと一緒にいるべきよ。そうしたら、望むとおりの幸せをあげるから!」
レットは笑みを浮かべたままだ。だがその瞳は驚くほど冷たくモニカを見下ろしている。
「……私のことをよくご存知のようで嬉しいですが、多少誤解があるようです。あいにく、自分の幸せは自分で決めたい質ですので、お気遣いいただかなくとも結構」
「まさか、本気でロキシーを愛してるって言うの? あなたが?」
その問いに、彼は答えない。
「モニカ様。私とあなたはよく似ています。誰からも愛されるくせに、自分から愛することがひどく苦手だ。だからまるで違う彼女に惹かれるのでしょう。彼女ほど、熱烈に人を愛することができる人間はいないから」
カッと頭に血が上る。
「わたくしがロキシーに惹かれてるっていうの? 馬鹿なこと言わないで! 愚図でのろまなあの子を、守ってあげているのよ!」
しん、と静寂が訪れた。
モニカは両手を握りしめ、レットを睨み付ける。レットもまた、モニカを見つめる。
そして、答えが分かりきっている問いを確かめるかのように、静かに尋ねた。
「ルーカス君は、記憶を失う前に私に銃を向けましてね。苦渋に満ちた顔をしていましたよ。まるで本意ではないようでした。
モニカ様。知っていたら教えていただきたいのですが、彼は私を殺せと、どこの悪魔に命じられたのです?」
恐らく、表情に出ていたのだろう。
レットはもはやモニカから目を逸らした。料理の支度を途中で切り上げることを決めたらしい。
モニカの横を通りすぎ、部屋を出て行こうとする。だがその刹那、思い直したかのように、一度だけ振り返った。
「愛なんて理解できない、自分本位の冷徹な人間が実際誰なのか、あなたはもう一度、考えてみる必要があるようですね」
無機質にそう告げて、遂に出て行った。
モニカは、一人取り残される。虚しいほど空っぽになった心には、急速に闇が忍び寄った。
(奪われる。何もかも、奪われるんだわ。ロキシーをも奪われるんだわ!)
嫌だ。このために、今まで頑張ってきたわけじゃない。
せっかくロキシーをモニカにべったりと依存させ、思考の隙すら与えないようにしてきたというのに。
ロキシーは悪の女王だ。放っておけば世界を混沌に陥れる悪虐非道の悪者だ。真実の女王となるモニカが、ロキシーの大切なものを全て取り上げるのは、ごく当然の権利だったはずなのに。
なのに、王女はロキシーだった。その上、レットまで、彼女を愛している。
彼は権力しか愛せない哀れな男だ。だから愛を囁くのは王女という記号の上でしかない。なのに本気でロキシーを愛しているというのか?
もう敵が誰かも分からない。
どう戦えばいいのかも、分からない。
ずっと考えていた、暗い予感が胸をよぎる。
この世界に不要だったのは、本当は、誰だったのか。
ポーカーの不要なカードのように、誰にも必要とされずに捨て場に放り投げられる。――それが、モニカだ。
モニカがいなければ、この世界は全て、上手く回っていくのかもしれない。
これは罰か。
初めの世界で、真実の女王ロキシーを処刑した罰なのか。
何度も繰り返し死に、希望を見つけたこの世界で、真実を知ることが、神が課した罰なのか――?
「そんなの認めないわ」
唇を噛みしめた。血が滲む。
まだだ。まだ負けを認めてやるものか。
口の中に広がった血の味を感じながら、笑みがこぼれた。
(……ロキシー。あなたが生きるためには、このわたくしの言うことを聞いているのが、一番正しいってことを、もう一度教えてあげなきゃならないわね)




