記憶を無くした、わたしの弟
「ルーカス、帰っていたのね!」
大好きな愛する弟を前に、平常心ではいられなかった。
「待ってたわ! 手紙くらい寄越してよ、毎日新聞を見てたのよ! 水くさいじゃないの、会いに来てもくれないなんて!」
いつだって、ルーカスはロキシーの心の支えだった。だけどあの雨の日、彼はロキシーの前から姿を消した。
キスをして、告白をして、そのまま旅立った。
だけど、こうして帰ってきたのだ。こみ上げる思いが、嗚咽となって現れる。
そのまま、ロキシーはルーカスを抱きしめた。生身の彼を、どんなに望んだことだろう。
だがルーカスがロキシーを抱きしめ返すことはない。
「離してくれないか」
冷たい声色に、驚いて体を離した。
目が合うが、その瞳にいつも秘められていた愛情はない。よく知る灰色の瞳は、訝しげに見つめてくるだけだ。
だがロキシーは、この声色を知っていた。この目を、知っていた。
――貴女は歴史に名を残すだろう、稀代の悪女として。
首を切られて死ぬ前に、言葉を交わした最後の声色、厳しい瞳が蘇る。あの時のルーカスと、今この前にいるルーカスが重なる。
「まず、あんたは誰なんだ」
「だ、誰って、冗談はよしてよ……」
笑い飛ばそうとしたが、口元が引きつっただけだった。
「ロクサーナさん」
名を呼ばれ、ロキシーはこの場にもう一人いたことを思い出す。
「シャノンさん、どういうことなの!? ルーカスは、どうしちゃったの!?」
こうして話すのは初めてだったが、彼女ならルーカスの変化を知っているのかもしれない。なにせ一緒に店から出てきたのだから。
「ルーカスさんは、戦争で怪我をしたんです。それで、記憶がちょっと、飛んでしまっていて。覚えてないんです。あなたのことを」
「そ、それって記憶喪失ってこと――?」
シャノンは頷いた。ルーカスはなおも無表情でロキシーを見ている。
(――なんてこと)
最愛の弟は、戦争に行って、記憶をなくして帰ってきた。
何も覚えていないんだ。笑った日も、喧嘩した日も、再会も、あの、雨の教会も。
ロキシーだけをあの日に閉じ込めたまま、ルーカスは記憶ごと捨ててしまった。
「小さい頃の記憶はあるし、日常生活は問題ないんですけど。王都に来てからの記憶がすっぽり抜けていて」
「小さい頃を覚えているなら、わたしを覚えているでしょう!? あなたのお姉さんよ! いつだって、一緒に原っぱを駆け回ったじゃない!」
「姉だって……?」
そこで初めてルーカスの表情が変わる。驚いているようだ。
だが、答えたのはシャノンだった。
「言ったでしょう? あなたのことを、覚えていないって。ご両親のことも、小さい頃の暮らしのことも覚えているけど、あなたのことだけすっぽりと忘れているの。よほど思い出したくないことがあるんじゃないの?」
そこで初めて気が付いた。
シャノンから発せられる、明確な敵意に。
まるでルーカスをロキシーから守るように、間に立ちはだかる。
「あたし、ルーカスさんを追って従軍看護師になったんです。あなたはそんなこと、考えもしなかったでしょう? 絶対に安全な場所にいて、泣いて過ごしていただけじゃない。それなのに、彼のことが大切なんて、よく言えるわね」
目から鱗だった。そんな風に従軍してルーカスの側にいるなんて、確かに思いもしなかった。最も思っても、モニカが許すはずがなかったが。
シャノンは続ける。
「傷を負ったルーカスさんを看病したのよ。婚約しているんですあたしたち。もうすぐ、田舎へ越す予定です。挨拶には行こうと思っていましたよ、一応は。
……行きましょう、ルーカスさん。彼女、今冷静じゃないみたいだし」
「だがシャノン」
「これからお医者様のところでしょ。遅れたらご迷惑だわ」
シャノンはルーカスの腕を掴み、無理矢理歩かせる。ルーカスはロキシーをちらりと見たが、すぐに興味を失ったのかそのままシャノンに従った。
ロキシーは立ち尽くすことしかできない。
頭を殴られたような衝撃に、だた、二人の背を見送る。
だがシャノンが振り返り、ルーカスをその場に残し、再び歩み寄ってきた。
たじろぐロキシーを鋭く睨みながら、厳しい口調で言ってきた。
「ロクサーナさん、彼を刺激しないで欲しいんです。あたしたち、今、すごく上手く行っていて、彼もあたしを愛してるって言ってくれています。ようやく手に入れた平穏なの。だから、極力関わらないで」
「だけど、わたしとルーカスは姉弟なのよ」
言い返すと、シャノンは呆れたように笑った。
「また彼に、叶わない恋をさせるつもり? あなたに彼の人生をめちゃめちゃにする権利があるっていうの? 本当は、姉でもない赤の他人のくせに。彼のことを心から愛しているのなら、もう二度と現れないで――」