恋もキスも、わたしはいらない
三人で、オースティン兄妹を見送りに行った。彼らの学校の友人に紛れ、ろくな別れもできなかったが、それでも二人はこちらをみて、手を振った。
以前の世界でも彼は留学して帰ってきたはずだ。だが覚えていないのか、そもそも近しい関係ではなかったのか考えても思い出せない。
また会える、というモニカの言葉を信じるしかない。
などと、思いを馳せていた矢先だった。玄関が叩かれる音がした。
ルーカスはパン屋に働きに出て、屋敷を不在にしていた。使用人は昼の買い出しに行っている。屋敷にはロキシーとモニカだけだ。
顔を見合わせる。来客の予定はない。ロキシーの脳裏に嫌な記憶が蘇る。誘拐犯も、こうして突然現れた。
「わたしが出るわ」
「待って! わたくしが行く!」
二人で押し問答していると、扉が開けられた。
そして聞こえた大声に、二人して安堵する。
「ロイ・スタンリーだ! ファフニール姉妹、おられるか!」
ひとまず誘拐犯ではないと分かっても、平穏が去ったわけではない。なぜロイがこの屋敷を訪れたのかなんて、そのすぐ後ろに見えた人物により即座答えが出たからだ。
「ロクサーナ! 後で聞いたぞ、この前は大変だったらしいな!」
「クリフ殿下……」
波乱が待ち受けているのは明白だ。
ロキシーの驚愕に反して、モニカは眉を上げ、呆れたように笑っている。
普段だったら男性がロキシーの名だけ呼んだとなれば、モニカが怒り狂うのは必須だったが、それが実の兄となると様子が違うらしい。
「ロキシーに会いに来たのかしら。わたくしが追っ払ってあげるから、どーんとまかせときなさい」
使用人がいないからモニカと二人で茶を用意しているとき、悪巧みをするような顔で、そんなことを言われた。
応接間に通し、彼らに茶を差し出す。
「ロイ様。お茶菓子を運ぶのを手伝ってくださる?」
モニカがよそ行きの笑顔でロイにそう言う。
大抵の人間は、男も女も関係なく、可憐な彼女のお願いを断ることはない。彼もそうだった。
自分の主を許可を伺うように見た後、行ってこいと言われてようやくではあったものの、頷いて二人して厨房の方へ行ってしまった。
(これがモニカの作戦?)
クリフと二人きりでいるのは心細い。先ほどからロキシーを凝視しているのだから。
出されたカップに口を付ける前に、クリフは言った。
「君とゆっくりと話がしたかった」
柔らかく笑う彼は普段関わるどの男性とも違っていた。
ルーカスのような思慮深さがあるわけではない。フィンのような情熱があるわけではない。レットのような危うさがあるわけではない。
生まれながらにしてあらゆるものを持っている。他人が自分のために動くことが当たり前で、自分の存在証明に、疑問を抱いたこともないのだろう。笑顔は透き通っていて、陰りが少しもないのだから。
「いらしていただけるなんて、感激ですわ」
ロキシーがそう言って彼の目の前に座ろうとしたときだ。
「ロクサーナ!」
クリフに力強く手を掴まれた。
「私と結婚してくれ!」
「な……!」
この人は、頭がおかしくなってしまったのだろうか。
何を馬鹿なことを言っているんだろう。
目の前のクリフはなおも真っ直ぐな瞳で見つめる。
「わ、わたしは……」
「私と結婚して欲しい。君は少し、母に似ている気がするんだ。だから形見の指輪を嵌めてくれ」
聞き間違いを許さないかのように、クリフはたたみ掛ける。
ロキシーの顔は引きつっていた。どうするのが正解かわからない。
モニカがからかい半分に、この世界のクリフはロキシーに気があるなんて言っていたが、まさか本当のことだったとは。
(モニカ! はやく戻ってきて――!)
手を握るクリフを前に、微動だにできない。
クリフの顔が迫ってくる。
彼が何をしようとしているか知っている。
だってお芝居で見たことがある。女王だったとき、恋人のレットとした――?
覚えていない。したこともあったかもしれない。偽りだったとしても、恋人ではあったんだから。
でも今のロキシーは当然したことがない。それにしたいとも思わない。
――キスなんて!
◇◆◇
「驚きましたわ、まさかクリフ殿下とロイ様がわたくしたちを訪ねてくださるなんて」
厨房に着いたところで、そう話しかけられた。目の前で美しく笑うモニカにロイは微笑み返す。
「中将がおられるときにと提案はしたんだが、殿下はああいう人だ。言い出したら聞かない。
このところあなたの姉に夢中で。物珍しさもあるのだろう。きっと一過性の熱だと思うが……」
「――しい」
聞こえた小さな声に驚く。
「え? 何か?」
「いいえ、何も言ってはいませんわ」
にこりと微笑む彼女の笑顔に邪気はなく、きっと聞き間違いだろう。
ロイは思わず顔を背けた。
モニカ・ファフニール。
十四歳にして、彼女は王都中の男を虜にしているのではないかと疑いたくなる。腐るほど噂を聞いた。
可憐で純真な高嶺の花。
多くの男が彼女を狙っている。
それに気が付いているのかいないのか、彼女は誰にも平等に笑いかけていた。
ロイは特に興味がなかった。自分よりいくつも年下の少女で、まだ子供だ。女性として意識をするはずもない。
しかしいざ目の前にすると、他の男を笑えない。何でも見透かされているのではないかという不思議な魅力が彼女にはあり、直視してしまえばたちまち囚われそうになる。
「か、菓子はどこにあるんだ」
誤魔化すようにそう言う。
「そこの上の戸棚ですわ。高くって、手が届かなくって」
見ると、なるほど確かに少女では無理だろう。ロイにしても背伸びをする程の位置だ。
「取ってくださる?」と言われるまでもなく、そのつもりだった。
かかとをあげ、戸棚を漁る。それらしきものが手に触れ掴んだところで、奇妙なことが起きた。
足元にモニカが抱きついてきて、そのまま崩れるようにバランスを崩し、床に手を突いたのだ。
ちょうど彼女に覆い被さるような体勢になってしまう。
「す、すまない!」
慌ててどこうとしたところで、襟元を掴まれ唇が触れた。
キスをされているのだと理解し、驚き離れようとするが、彼女の手が逃すまいとしがみついてくる。
ロイはクリフの護衛として、常に鍛え上げてきた。それでも全くもって予期せぬことに思考は停止寸前だった。
ガタッと、厨房の裏口が開く音がした時だ。今度はモニカがロイの体を思い切り押しのけ叫んだ。
「きゃああああ!」
一体何か起きたのか訳も分からないままロイは後方の棚にぶつかり、床にへたり込む。
裏口から入ってきたこの屋敷の使用人と思しき中年女性が口をあんぐりと開け二人を見ていた。
モニカがその女性に駆け寄る。
「ロイ様が、突然、わたくしに、き、キスを……!」
即座、ロイは悟った。
この少女は、噂ほどには純真ではない。そればかりか、どうやら対極の存在だ。
気に入らないのがロイなのかクリフなのか知らないが、とにかくこちらを悪者に仕立て上げ追い払おうとしている。
ロイが彼女を襲おうとしているように、使用人の目には映ったことだろう。
キスをすることくらい、彼女にはどうってことはないのだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺は何も……」
少女に手を出す悪漢などと誤解されては困る。ほとんど無理矢理キスされたのだ。
だが誰が信じる? ぽろぽろと涙を流す可憐な少女が、大の男を襲ったなどと。
「この暴漢め! お嬢様はまだ子供なんだ、手を出すなんてとんでもない奴だよ!」
使用人の女性が、ロイに殴りかかってくる。
やがて騒ぎを聞きつけたクリフとロクサーナがやってくるまで、使用人にぼかぼかと殴られ続けた。
(なんてこった! なんて少女だ!)
聞き間違いなどではない。
さっき彼女は言ったのだ。口元に侮蔑したような笑みを浮かべ、ただひと言。
「――馬鹿馬鹿しい」と。