元婚約者と、わたしは列車へ
母の形見とほんのわずかな私物をトランクに詰めてロキシーは旅立った。
「お二人とも、ロクサーナ様に会うのを楽しみにしておられますよ」
口数が少ないロキシーを励ますようにレットは言った。
開通したばかりの蒸気機関車の中でシートに座り顔を突き合わせる。
いつかルーカスと乗ろうと約束していた列車を、この男と乗ることになるなんて。
「……モニカも?」
「もちろん、お二人、と言ったでしょう?」
レットは微笑むが、大人が柔軟に嘘をつくことくらい知っている。
あの双子の妹が、ロキシーに会いたいと思っているとは到底信じられない。第一、ロキシーをファフニール家から追い出せと言ったのも彼女なのだ。
改めてレット・フォードを見た。女王ロクサーナは今なりを顰め、彼を見てもロキシーは愛も憎しみも感じなかった。
若い男。軍人。見た目から得られるのはそれくらいだ。
実父オリバー・ファフニールに頼まれたと言っていた。幼い頃、ロキシーに会ったことがあるとも。
(ああ、そうか)
昔一度会っているなら、それをどこかで覚えていて、あんな夢を見たに違いない。
思えばモニカがあの頃語った妄想がそんな感じじゃなかったか。
なんだ。
女王ロクサーナなんて、結局妄想だ。良かった、馬鹿な思い込みだ。
思い込み?
本当に?
あれは現実にあったことでは――。
「私も少々聞いておりますが」
レットの声に、ロキシーの思考は遮られる。
「モニカ様の、病のことを。大分良くなられたとか……。実際、私が会う彼女もご病気には見えませんでした」
外の風景を見ながらモニカを思い目を細める彼に、ロキシーは思った。
(結局、彼もモニカの信者なのね)
双子、と言ってもロキシーとモニカは構成要素から違うのではないかと思えるほど、性格から外見に至るまで何もかも違っていた。
つり目ではっきりとした顔立ちのロキシーに比べ、モニカは垂れ目がちの優しい顔立ちの儚げな少女で、それを見た大抵の男たちはたちまち彼女の虜になってしまうのだ。
別れた六歳の時ですらそうだったのだから、十二歳になった今はますますその魔性に磨きがかかっていることだろう。きっと男たちは皆彼女を好きになる。……目の前の、この男のように。
「あなたは何歳?」
「今年で二十歳になります」
そう。とロキシーは返事をする。
大の大人をも夢中にさせる妹の存在は、やはり少し恐ろしい。
(でもいいわ。また追い出されたら、ルーカスの所に帰ればいいんだもの)
「私は男爵家の使用人というよりは、軍でお父様の部下でしてね。それなりに信頼されていて、貴女をお迎えする役目をいただきました」
聞いてもいないのに、レットはそんなことを話している。
「お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……何を?」
「モニカ様の病とはどのようなもので?」
「少しは聞いているんじゃないの?」
「本当に少しですよ。その、やや……妄想癖があったとか」
言いにくそうに彼は眉を顰めた。
「……お父様とモニカがあなたに言っていないのなら、わたしも言わない」
それは残念、とレットは爽やかに笑う。
その笑みを見たら、きっと百人中九十九人の女性が顔を赤らめるだろう。だがあいにく、ロキシー残りの一人の方だった。
(この人、実際深い事情は何も知らないんだわ)
それなりに信頼されていると言っていたが、絶対の信頼を置かれているわけではなさそうだ。
ロキシーを子供だと思って男爵家最大のタブーであるモニカのあの妄想を聞き出そうとしてくるとは、むしろ虎視眈々と隙を狙う、抜け目のない男かもしれない。
ロキシーはレットから視線を外し窓の外を見る。街はもう遠くに置き去りにして、景色には木々が混じる。
道連れの少女の無言を母恋しさと思ったのか、レットは三度声をかけてきた。
「病で死ねる人間は幸福かもしれませんよ。自分に何が起こったかも分からず、死すら感じる暇もない人に比べたら。きちんとお別れができたんでしょう? よかったじゃありませんか」
かなり自分勝手で独善的な慰めだ。死ぬ前の自分はどうしてこんな男を好きだったのだろう。
ロキシーはレットの慰めに沈黙で答えた。彼は肩をすくめ、外の風に当たると言い残し席を立った。どうもうじうじした子供が嫌いらしい。
――ロクサーナ。お前の身を守るためなんだ。
もうずっと忘れていた父の声が蘇る。
(あの妄想――)
あの家に帰る。そう思うと胸の中に不安が広がる。
妹は、あの日を境にロキシーに怯えるようになった。きっかけはロキシーの投げたボールが、モニカの額に当たった事だった。
◇◆◇
それぼど強く当たったわけではないはずだ。だがモニカは地面に倒れたまま動かなくなってしまった。
「モニカ! ごめんなさい、大丈夫?」
すぐに駆け寄り妹の顔を覗き込む。額が少し赤くなっているが大した怪我ではなさそうだ。ほっとするが妹の様子はおかしかった。
呆けたように口を開け、ぼんやりとした目で空を見上げる。
「モニカ?」
打ち所が悪かったのか。
やがてその目の焦点が徐々にロキシーに合っていくと、今度は怯えたように顔を引きつらせた。
「きゃあああああああ!」
耳をつんざくような悲鳴を発したモニカは立ち上がり、ロキシーの体を渾身の力で押した。
ロキシーは地面に転びながら驚いて妹を見た。
妹は今まで見たこともない程の憎悪を顔中に貼り付け、思い切りロキシーを睨み付ける。
「わたくしを殺す気でいるのね!? ロキシー、あなたは凶悪な女王なのだから!」
ロキシーは訳も分からずモニカを見る。
「モニカ、どうしちゃったの?」
「とぼけたって無駄よ! わたくし、何もかも思い出したの! わたくし、この世界を――……」
妹は、その日から突然妄想に取り憑かれてしまった。ロキシーがモニカに嫉妬して命を脅かそうとしている、と。
なぜならモニカは行方不明になっている王家の血を引く娘だから。ロキシーはそれが許せず、モニカを葬り去ろうとしている、というのだ。
「ロキシーはわたくしを憎んでいるのよ!」
そんなことあり得ない。
幼心にロキシーは思う。大切な妹を傷つけるなんて、絶対にあり得ない。
だがそれ以来、モニカは一切ロキシーと顔を合わせなくなった。
部屋に閉じこもり、食事もろくに取らない。扉越しに声をかけても殺さないでと恐怖に叫ばれ、物が壊される音が聞こえるだけだ。
「ロクサーナ。お前の身を守るためなんだ」
父はそう言って、遠方の知人であるブラットレイ家にロキシーを預けた。
心では分かっていた。父はモニカを守るために、ロキシーを追い払ったのだと。
ロキシーがモニカを殺そうとしている。父もそう信じたのだろう。
◇◆◇
「ロクサーナ様。差し出がましいようですが、その格好でご家族にお会いするのですか?」
王都で汽車を降りたとき、レットがそう言ったので小首をかしげる。
「そうよ? なにかおかしい?」
「おかしいというか……」
彼の視線は失礼にもロキシーの頭のてっぺんからつま先までじろりと動いた。突如として自分の恰好が場違いに思えた。服は質素だし、靴には泥がついている。
「よし、こういたしましょう」
パン、とレットは両手を叩く。
「私から、貴女に洋服を贈りましょう。華々しい男爵令嬢のデビューを飾ってやろうではありませんか」