戦闘前夜、彼らは語らう
「フォード中尉、あなた宛てです」
野戦郵便局から手紙を預かった部下の一人が他の兵士たちに手紙を渡していく。
既に夜。辺りは暗い。
戦地にはテントが貼られ、その内の一つの中で部下の数人と話していた。
大河を挟み、両国は現在にらみ合っている。
順調に進軍していた兵士たちであるが、ここで兵力は拮抗し、熾烈な戦闘が続いてた。
レット含む兵士たちが待機しているのは、大河よりも手前の地点であった。
もうしばらくすれば、作戦が開始される。移動の命令が下るまで、待っていた。
戦地というのは、異常だった。
銃を撃ち、弾がなくなれば死んだ者の銃を奪い、また撃った。
後退する者は撃ち殺すぞ、という上官の命令があったが、兵士たちが勇敢にも戦ったのは脅されていたからだけではない。
死の恐怖に勝っていたのは異常な高揚状態だ。実際兵士の幾人かは、よく分からぬ葉っぱを吸っていた。しかしそうでない者も、やはり高揚していくのだ。
おかしなことに、レットはこの戦地の中にあり、王都にいるときよりも、よほど心は平穏だった。
くだらないしがらみも多い上、うんざりするような人間もいることにはいたが、それでも国を守るという大義を得て、ただひたむきに英雄でいられる戦地において、死と隣あわせであればこそ、得られたものがあったのだ。
ランタンの薄ぼんやりした明かりの下でも、絵はがきに記された「軍事郵便」と「検閲済」の朱書きがはっきりと読み取れる。
王都にある城と国の花の絵が描かれた葉書だ。
差出人を見て、思わず口元が緩む。
ロクサーナ・ファフニールとモニカ・ファフニールの連名だった。
頻度としては多くはないが、ロキシーとモニカから時折こうして手紙が届いていた。ロキシーらしい素直な言葉と、モニカらしいやわらかな言葉。まれに、無理矢理書かされたであろうルーカスからのごくごく短いメッセージもあり、それがまたいかにも彼らしく面白く思った。
家族がいないレットにとっては、彼女たちから届く手紙が唯一の世間とのつながりであったのだ。
「中尉のいい人ですか? そんな表情をしています」
驚いて言い返す。
「まさか。恩人の娘たちさ。まだほんの子供の――」
「しかしいつも真っ先にその手紙を読んでいますね。本当にそれだけの関係ですか?」
「詮索はよしたまえよ。自分の心配をしたらどうだ、あまりにも筆無精だと新妻に愛想を尽かされるぞ」
レットが言うと、周囲の男たちが笑った。
その男は新婚だったが居住地で強制徴兵があり、望まずに戦地へと赴いたのだ。
兵の半分ほどは強制徴兵により集められた者たちだ。王がいつくかの領地に命じたらしい。
「勘弁してくださいよ。妻にそっぽ向かれちゃ、おれは敵にぶっ殺される前に悲しくて死んじまう」
と彼は言い、懐から写真を撮りだした。
「ほら、これが妻です。美人でしょう? だけどこう見えて気が強いんですよ。絶対に帰ってこいと約束させられちまって、だからここに書いたんです」
彼が指差す先の文字を見て目を細めた。
――必ず帰る。愛を込めて。
図らずも、レット自身にも身に覚えのある言葉だ。あの少女に、そう約束をした。
兵士は写真を大切そうに胸ポケットにしまう。彼の自慢らしく、幾度となく見せられた写真であるが、その度に初見のように答えていた。
「確かに美人だ」
「おっと、惚れたりしないでくださいよ。中尉が相手じゃ敵わねえから」
「中尉はご結婚されないんで?」
別の男が尋ねる。
ほんの一瞬、脳裏に一人を思い浮かべ、即座に打ち消した。ありえないことだ。まだ彼女は幼い。
「考えたこともないな」
「いいもんですよ。自分以外に無条件で愛を与えられる対象がいるってのは」
それを聞いていた先ほど写真を自慢していた部下がぽつりと言う。
「なんのために戦っているんだろうな」
「そりゃ、国のため。ひいては王のためだろう」
他の兵士が答える。
「お前は田舎育ちだから、王が神に思えるんだろう。おれは都会育ちだから、考え方が最新だ。本を読んだんだ。自由で平等な社会について書かれた本だ。ありゃあいい。市民に意志を持てと言っているんだ。王ではなく、自分に従えと」
「よせよ。そんな話は聞きたくねえ。まるで反乱軍のようなイカレた言葉だ」
「ふん。現世の神は王だ。それがどうした。おれは今日から無神論者に鞍替えする――」
それから胸ポケットの写真を触るような仕草をした。
「――皆どうして疑問を抱かずに死んでいけるんだ。おれたちが王のものだからか。王は絶対だからか? 中尉はどうです?」
確かに多くの兵士は王へ勝利をという合い言葉のもと戦っていた。皆の視線が向けられる。
だがレットは否定した。
「私は違う。王のためだけじゃない、自分と、自分ではない誰かのために戦うんだ。大切な人の平穏な暮らしを守るためさ。そう思えば、ここも悪くないだろう」
対面する彼は、レットを見てため息をついた。
「中尉、あんたを見てるとたまに不安になるよ。まるで死にたがっているように見えるんだ。きっと死ぬために戦争に来たんだな。
おれはそうじゃねえ。いち早く妻のところに帰りたい。いつだって恐ろしい。死ぬのが怖い」
時に作戦の前では、気弱になるものだ。つい最近も激しい戦闘があり、死体の山がまだ目に焼き付いている。
兵士は消耗品だ。簡単に失われ、日々補充されていく。代わりのきく消耗品が、実は個々の思考を持っているなどと、王都の人間は少しも知らないのだろう。
慰めるように言った。
「……誰だって怖い。だが、それを上回る思いがあるんだ。自分の死が、その人の生きる礎になるのならば、それもまたいいじゃないか」
だが彼の表情は変わらない。吐き出すように言った。
「あんたは高潔すぎる。潔癖だ。普通と違う。普通はもっと、死に際して悩んだり苦しんだりするんだ。大切なもんと別れたくねえからよ。
あんた、欠落してるよ、本当さ。執着がねえんだ。どうしてそんな簡単に、諦められる? ここにいるのに、いねえみてえに見えるんだ。遠くに立ってるみたいに。あるいは亡霊じみたぼんやりとした陰だ――」
「おいよせ、お前は飲み過ぎだ」
別の男がそういい、彼を抱えた。
ちくしょう、ちくしょう、と彼は繰り返し呟きながらテントから連れ出されていく。
(……私は良い上官ではないな)
今夜彼は何を思って戦うのだろうか。
黙ったレットに何を思ったのか、残った兵士のうち、年長の部下が穏やかに言う。
「おれはね、フォード中尉。あなたのような人が、好きですよ。だれか一人くらい馬鹿みたいに純粋で清い人間がいてもいいんだ。汚いよりも、よっぽどましさ」
「私は純粋で清いのか?」
思いも寄らなかった。どちらかと言えば、逆のように感じていた。上へ行くために、周囲を蹴落とし、オリバー・ファフニールにすり寄って来たのだから。
はは、と部下は笑った。
「純粋な奴ほど、目的に一心不乱に向かえるもんだ。信念のためなら、どんなに大切なものも簡単に切り捨てられる。
それにあんたは優秀だ。自分がやすやすとできるから、周りもそれができると思っちまう。おれみてえに無駄に年取ってくると、その青さが好ましいもんさ。
だが気をつけねえと、正論と理想は確かに美しいが、人ってのはそれだけじゃ生きていけない。清浄すぎる空気の中じゃ、苦しくって息ができねえんだ。酸いも甘いも両面持って、皆と同じように泥にまみれて、初めて人を導けるのさ」
その部下はそれから頭をかいた。
「なんてな。すみません、偉そうなことを。一般兵のおれが言うことじゃねえな」
彼は謝るが、レットの中に怒りはない。
惰性で読んでいた本を途中で止めるように、人生すらパタリと閉じてしまいたい衝動に駆られることも、かつてはないではなかった。だが、今は違うとはっきり言える。
「別に、諦めているわけじゃないんだ」
「ええ、分かっていますとも。もちろん、分かっていますとも」
そう言って、部下は何度も頷いた。