一番素敵な、わたしの夜
どうやらソファーに横たわっているようだと気が付いて、目が覚めた。見渡すと休憩室のようで、他にもパーティから抜け出したらしい人々が数人、談笑している。
ロキシーの体には父の上着が毛布代わりにかけられていた。父を探すと、すぐ側のソファーで本を読んでいた。目が合うと、微笑む。
「近頃の若い娘はコルセットを締め上げすぎると医師がぼやいていたぞ」
どうやらそれで気を失ったらしい。コルセットは外され、服は簡素なものに着替えさせられていた。
「モニカはどこですか? わたし、あの子に心配かけちゃったわ」
「パーティに出席するように言っておいた。ルーカスも一緒にな。今頃踊ってるはずだ。社会勉強になるだろう」
「お父様は行かなくていいのですか?」
「お前が起きるまで待っていたんだよ」
では父は、ずっと側にいてくれたのか。モニカの前では父の愛情は平等だと言ったし、実際にそうだとは思っているが、彼がロキシーに向ける優しさはモニカに向けられているものとは別に思えた。
離れていたせいもあるかもしれない。どこか遠慮深く、しかし、温かい。
「ありがとうお父様。これからご出席されては? だってお父様がパーティに出るのを、皆さん楽しみしていたんですもの」
それは本当だ。父は周囲から人気がある。堅物であまり笑わないが、反面、情に厚いので信頼されているのだ。
「では少し顔を出してくるよ。お前は――」
「わたしは、外から見ています。こんな格好じゃ、どうせ皆と踊れないもの」
質素な服。パーティには相応しくない。
「分かった。すぐ戻るよ」
立ち上がる父に上着を返しながら、行ってらっしゃい、と送り出した。
広間にはたくさんの人がいた。既にダンスの時間になったらしく、楽しげに踊っている。
きらびやかなその場所を、庭にあったベンチに座って窓の外から見ていた。ひんやりとした空気が、ロキシーの頬を冷やした。
今日の主役、クリフが見える。
曲が変わる度に、嫌な顔一つせずに女性たちと踊っている。疲れるだろうに、とロキシーは思ってしまう。だが彼は全くそうとは思わないのだろう。正装に身を包み、その場に相応しい笑顔を携えている。
(本当に、王子様って感じだわ)
モニカの姿を探す。
すぐに見付かった。他のどの女性より、彼女は美しかったから。
彼女もまた、笑顔を男性たちに振りまいている。だがロキシーは知っている。あれは作り笑いだ。本当のモニカは、もっと口を大きく開けて、げらげらと笑うのだから。そっちの方が好きだな、とぼんやり考えた。
やがて順番が回り、クリフとモニカが踊る。二人は二言三言、会話をしたようだ。同時に微笑み合う。
(二人は、実の兄妹なのよね)
不思議な思いで二人を見た。
モニカはその事実を知っているが、クリフは知らない。いつか生き別れた妹の存在を知る日が来るのだろうか。
父もいた。
踊っては居らず、誰かと話をしている。軍で瞬く間に出世していく父と、皆お近づきになりたいのだ。
(王様は来ているのかしら)
――いた。
あれこそが国王だ。我が国の至宝、アーロン王。
モニカの、実の父。
上座に置かれた椅子に座り、じっと人々を見つめている。グレーの髪に、穏やかそうな表情をしている。いつも眉間に皺が寄っているオリバーとはまるで正反対だが、実際、外見から得られる情報と内面は違っている。
誰も口にはしないが、王の評判はあまりよくはなかった。強引に王位に就いたこともあるが、多くの国民は長引く戦争や不景気、果ては不作さえも王のせいにしていた。
(あんまりモニカには似ていないわね)
もしかしたらモニカは母親に似ているのかもしれない。
王が立ち上がらない様子を見ると、もう病を患っているのだろうか。あと数年で、彼は帰らぬ人となる。
(病気を教えてあげるべき? だけど信じてくれるかしら)
過去の世界において、その死の淵に会ったのは、実の娘モニカではなくロキシーだった。もっとも娘と信じて逝けたのだから、彼にとっては救いだったかもしれないが。
(王様も大変だわ)
ふう、とため息をついてから、また広間を見た。
知っている場所だ。かけられた絵も、飾り窓も、高い天井も、覚えている。
天井のシャンデリアが記憶の中より小さいのは、女王ロクサーナがもっと豪華なものを作れと命じたからだ。
(あそこで毎日パーティをしていたのね……)
寂しさを埋めるように、大勢の人を招いて騒いだ。だが楽しいのはひとときの間だけで、結局騒ぎの後にはまた静寂があった。
――ロキシー。心の穴を代替品で埋めても、それは一時しのぎに過ぎないのよ。根本を解決しなくては。
(なんてね。お母様ならそう言いそう)
だけど当時の自分は、そうせずにはいられなかった。なんと哀れな女だったんだろう。それで得られたものなど、せいぜい虚しさだけだというのに。
(だけど……)
分かったことがある。女王ロクサーナが犯したとされた罪のうちのいくつかは、濡れ衣だ。
真実その罪を犯した人物は、きっと断頭台で首を切られる間際、こちらを見て笑っていた人物だ。ぞっとするような、冷たい笑みだった。だがそれが誰か、という点において、ロキシーは思い出せずにいた。
それでも、確かにあの時、女王が自分の罪を被って死ぬと、勝利を確信した人がいたのだ。
モニカの話によると、あの場にいたのは彼女自身とレット・フォード、ロイ・スタンリー、フィン・オースティン、それから他にも――。
「ロキシー?」
物思いにふけっていると、後ろから声をかけられた。振り返ると弟がいる。
驚いて立ち上がった。
「ルーカス! パーティはどうしたの?」
「抜け出したんだ。ロキシーがいないとつまらないしさ。気分はどう?」
大丈夫よ、と返事をするとルーカスはほっとしたような表情になる。
会場に流れる曲が切り替わると、ルーカスはロキシーに向き直った。
手がそっとロキシーの髪に触れる。そこには彼から貰った髪飾りが付いていた。
「せっかくだから一曲踊ろう。この日のために覚えたんだ」
「覚えたって、一人で?」
「いや。ちょっと癪だけど、モニカに教えてもらった」
文句を言い合いながら踊りのレッスンをする二人を想像して、ロキシーは吹き出した。
ルーカスが右手を差しだしお辞儀をする。格式張った仕草におかしくなって、笑いながらその手を握り返した。
あはは、と二人は笑い合う。
音楽に合わせて踊る。ロキシーの足は軽い。心も弾む。ルーカスも嬉しそうだ。今までの、どんな踊りより楽しかった。
広間から漏れる明るい光も、豪華な庭も、ここが故郷から遠く離れた場所であることを物語っていた。
それでもいつだって、二人でいればあの農場で過ごした幸せだった日々に戻れる。
正装をしているルーカスを見つめる。このところぐっと大人っぽくなった。ルーカスは母には似ていない。父に似ていた。
灰色の瞳は柔らかく、いつだってロキシーを映している。
ルーカスの瞳を見ていたら、履き慣れないヒールで庭の石を踏んだ。バランスを崩し、転びそうになる。それを受け止められた。
「平気?」
ルーカスの手を感じた。
昔、弟が転んでおんぶしてあげたことがあった。
その時肩にかかっていた手と、今ロキシーの腰を支える手は本当に同じものなのだろうか。いつの間に、こんなに頼りがいのある手になったのだろう。
ルーカスの瞳が近かった。息さえ感じる。
「平気」
そう答えて、体を離した。曲はまだ続いていたが、どちらも動かなかった。
笑っていたあいつが、ルーカスだけでなければ、それでいいと、それだけ思った。