希望を抱いて、彼は旅立つ
(予定が狂ったな)
発車前の列車の席で、レットはそんなことを思った。
本来であれば、とうに戦場にいるはずだったのに。
結局入院は四週間にも及んだ。なかなかに傷は重く、怪我をして動き回るから治りが遅くなったのだと看護師にひどく叱られた。
驚いたことに、ロキシーとモニカが揃って見舞いに来た。
おや、と疑問を抱く。以前の二人の間には奇妙な緊張感があったが、それがきれいさっぱり無くなっていた。
――娘たちのことを、私が不在の時に見守っていてくれ。
それは二人の父、オリバーがレットに命じたことではあった。
少なくない報酬はあった。なにより軍で名の知れた大佐に恩を売ることができる。二つ返事で引き受けた。だから非番の日は、それとなく二人を見ていた。
オリバーの心配通り、彼女らの仲は笑えないほどには険悪だった。モニカなど我が身も顧みず、ロキシーを馬車に轢き殺させようとすらしていたのだから。
だが、それも既に過去らしい。
病室に訪れた彼女らは時たま言い合いをするものの、仲がよさげに見えたからだ。
少女たちは瞬く間に変わっていく。時に置き去りにされているのではないかと思えるほどに。
命の危機に際して、互いの大切さに気が付いたのだろうか。いやきっと、それだけではないのだろう。
ロクサーナという少女は、恐るべき娘だ。奇妙な魅力があり――気が付いたときには囚われている。
あの異様な光を持つ瞳に、慈悲深い胸に、この身を任せて屈服してしまえたら、どれほど楽だろうか。
そんな彼女にモニカも当てられたのかもしれない。すがらずにはいられない。レットと同じように――。
だが、それに甘えるわけにはいかない。少なくとも、今はまだ。
「きっと大丈夫だと、言ったでしょう?」
見舞いの際にそう言うと、孤独だった少女は幸福そうに笑った。義弟とも再会し、今や彼女に憂いはない。
自分にとっては意外なことに、心の底から彼女の喜びを嬉しく思った。
同時に、自分の役割は既に終わったのだと悟った。ならば、心残りは何もない。
少し前から、考えていたことではあった。明確に決意を固めたのは、親友の死を知ったあの日だった。
戦場へ行く。
友が命を賭して戦っている最中、自分だけが立ち止まっている。それで、いいはずがない。
以来、オリバーに告げる隙を待っていた。
ようやくそれができたのは、病院でだ。聞いた彼は頷いた。
――承知した。私から口を利いてやろう。
レットは少尉として戦場へ行くことになった。貴族であれば、将校になるのはおかしな話ではないが、ほとんど肩書きだけ貴族のレットが少尉になれたのは、やはりオリバーのおかげだろう。
両親の友人だった彼は、天涯孤独の身となったレットを気にかけてくれていたから。いや、もしかするとそれだけではないのかもしれない。
(黙らせるため、とか)
オリバーは言っていた。レット負傷の原因である、このたびの誘拐騒ぎについて。
自分に恨みを持つ反乱勢力が、娘を誘拐した。
そうカタをつけたのだ。
もちろん疑問はある。
モニカが殺した男は、宿屋の主人で間違いない。こちらを凝視していたから良く覚えていた。男と少女、年の離れた恋人に興味を引かれたのだろうと、その時は思っていたが。
別の思惑があったのか。
軍の重鎮の娘だから誘拐したのではない。
反乱勢力に所属する男は、ロキシーを見て何かを思いついた。
おそらく宿から出た二人の後を仲間に付けさせたのだろう。
娘を誘拐しろとだけ命じたのか。先に屋敷を出たモニカは間違えられた。間違いに気づき、後からロキシーを連れ去った。
気になるのは、目的はなんだったのかということだ。オリバーは怨恨と金が目当てだったと言っていたが、そうは思えない。
反乱勢力にとって、ロキシーの身柄が価値のあるものであった。
いかなる価値が、あの少女にあるというのか。
(大佐は、何かを隠している)
だがそれが何か、という点について、レットが知るよしもない。
あれこれ考えていたところ、雑踏に混じり、ふと名を呼ばれたような気がして列車の窓の外に目を向けた。
(まさか)
今日旅立つことは、オリバーにしか告げていない。だから見送りがいるはずもなかった。
それでも。
やはり、声が聞こえたように思う。空耳などではない。確かにはっきりと聞こえた。彼女の、声が。
「レット!」
もはや聞き間違いではない。
わずかに空いていた窓を全開にし、体を乗り出して答えた。
「ロクサーナ様!」
兵士を積み込んだ列車を見送る人々の中で、きょろきょろと周囲を見ていた彼女もこちらに気が付いた。慌てた様子で近づいてくる。
「レット、間に合ってよかった。この列車だったのね!」
自惚れでなければ、ロキシーの浮かべる笑顔は少し寂しそうだ。
「お父様ったら、今朝言うのよ? あなたが戦争に行くって……」
「それで見送りに?」
「ええ、あなたは恩人だから」
彼女になにをしただろうか。恩を感じてもらうようなことは少なくともしていないはずだ。
彼女の周りの環境が良い方向へと転じたのは、彼女の強さのせいであるのだから。
「もらったものだって、まだ何一つ返せていないのに……」
そっと、その髪に触れる。
「いいえ。もう十分すぎるほどにいただきました」
もらったものは、してあげたことを遙かに上回る。
彼女に出会ってから、以前胸の内に渦巻いていた出口のない感情は消えている。
でも、とまだいう彼女に、それでは、と答える。
「私も他の方と同じように、ロキシーとお呼びしても?」
こくり、と彼女は頷いた。
国を恨むのも、人を憎むのも、見当違いだ。心の中では知っていた。それを彼女が痛みを持って自覚させた。
戦場に行くと決意したのも、出世のためばかりではない。彼女のような少女がいるなら、まだ守る価値のある国だと思えた。
男女として恋をするには、彼女は幼すぎた。だから抱く思いは、まだ恋ではなかった。
それでもこれは、人が人を想う愛の一つであることは間違いない。
「ロキシー様。あなたといると、私はほんの少しだけ、善い人間になれる気がします」
じっとレットを見つめていた彼女だったが、不意に口を開く。
「わたしが、あなたの、楔になる」
呆気に取られ彼女を見つめた。
見つめ返してくるその瞳に、一切の負はなく強い輝きを放っている。周囲の雑踏は遠ざかり、彼女だけがこの世界に存在している唯一のもののように思えた。
「生きる楔になるわ。だから、必ず戻るのよ」
レットの胸にこみ上げるものがあった。その感情のまま、彼女を引き寄せ、その額にキスをした。
「約束します。帰ったら、一番初めにあなたに会いに行くと」
驚いた表情を浮かべた彼女だが、やがて目を細めて微笑んだ。
発車のベルがなり、汽車がゆっくりと進み始める。
「レット! 待ってるから! 絶対よ、約束だからね!」
叫ぶ彼女に、敬礼をして答えた。
「ロクサーナ・ファフニール様! あなたのいるこの国を、守るために行って参ります!」
ホームの彼女の姿が小さくなっていく。列車は進む。戦場へと。
信じてみよう。
そう思った。
彼女のように、信じてみよう。
自分以外誰も信じないと言っていたロキシーだ。だがその実、誰よりも信じたい人なのだということには気づいていた。
人は善だと、人は愛すると、人はわかり合えると、そう思いたいのだ。
ならば、自分も、信じてみよう。
家族のことを――。
どうせもう、言葉を交わすことなどない。何を思って死んだかなんて、誰にも分からない。
なら、そう思ったっていいはずだ。
どうして今まで考えなかったのだろう。
憎しみや怒りだけではない。温かな思い出だって、確かにあった。疑いようがなく家族を愛していたし、愛されていた。
そうだ、両親は優しい人たちだった。
その彼らが、死の間際であっても妹を恐怖させるはずがない。ならばきっと、妹は苦しまずに逝ったんだろう。
どうか妹の死が、最大の優しさを持って彼女に訪れたことを。
どうか両親の選択が、その時の彼らにとって救いになったことを。
そして、自分が生きているということが、三人にとっての希望であることを。
ただ、愚直にも信じてみよう。
(――楔か)
以前彼女に言ったことを覚えていて、楔などと言い出したのだろう。特段の意味はないはずだ。それでもレットにとっては、確かに彼女の存在が胸に深く突き刺さった。
自分は死にそうに見えたのだろうか。
支えがなければ、容易くあちらへ引き込まれる、弱さを見抜かれていたのだろうか。
あの献身的な彼女は、だからそれを申し出た。
戦場で、必ず生きて帰れるという保証などどこにもない。交わした約束は実に儚い。だが、果たせなくとも、意味がないわけではない。果たせなくとも――。
諦めや絶望などでは決してなかった。
(――もし俺の死を、本気で悲しんでくれる人がいるのなら……)
その死もまた、幸福に満ちたものになるのだろうから。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
第一章はこれで終わりです。実は以前公開していた時からほんの少しだけ展開を変えています。
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それでは、引き続きお楽しみいただけますように。