弟に、わたしはさよならを言う
「だめだ、そんなの嫌だ」
ルーカスは強情だった。
農場から家に帰り、居座っていたレットから事情を聞くなり首を横に振った。
「オレが稼いで養うから! ロキシーだって行きたくないでしょう?」
この弟にしては珍しく不安げで、すがるような瞳だった。強固だったロキシーの意志は思いがけず揺れる。
「考えてごらん、ルーカス君」
声を発したのはレットだった。大人が子供を諭すような口調で、それがどんなにルーカスのような賢い子供を苛立たせるかを、きっと知らないのだろう。ルーカスは睨み付けるが、彼はひるまず続けた。
「こんなあばら屋の貧乏暮らしで君の姉さんが幸せになれると思うかい? ロクサーナ様の実のお父様は戦争で手柄を上げ、男爵の爵位を得ているんだ。ここより遙かに裕福なんだよ」
ルーカスは黙っている。
レットがまた言った。
「大人になったらいくらでも会える。ほんの数年の辛抱じゃないか? 姉さんの幸せのためだ。君にだって、送金してあげられる」
「金なんていらない」
「ルーカスも一緒に行ってはだめなの?」
ふとそんな疑問を口にした。だがレットは首を横に振る。
「男爵様は、娘一人を連れてこいという話ですから」
ルーカスは不要なのだ。
弟が唇を噛むのが見えた。母が死んでも泣かなかった彼の目は赤い。
弟が何を言うか、ロキシーは予想できる気がした。いつも彼はそれがどんなに自分の感情と異なっていたとしても、何が最善か判断し、子供ながらにしてそれを実行する人であったから。
「……分かった」
と、ルーカスは言った。あらゆる思いを封じ込め、ロキシーの幸せを願ったのだ。
「二人で、お別れをさせてください」
いいだろう、とレットは立ち上がり部屋を出た。
階段を降りていく音がしても、しばらくどちらも口を利かなかった。
ロキシーの胸の中を、思い出が駆け巡る。養子に来てから、ずっとルーカスと一緒だった。野原を駆け回り、体中泥だらけにして母に叱られた。よく喧嘩もしたけど、それ以上に笑い合う日の方が多かった。これからも永久に一緒にいるものだと思っていた。何よりも大切な弟で、愛する家族だから。
「ロキシー」ルーカスの温かな手が、ロキシーの手に触れる。
「ごめん。オレが、ふがいないせいで」
「ルーカスの、せいじゃないわ」
ロキシーは自分よりも少し小さなその手を握り返す。胸が張り裂けそうだった。
「離れていても、ルーカスは大好きで大切なわたしの弟よ。手紙を書くわ。毎日百通」
それは多いよ、とやっとルーカスは笑った。
「大きくなったら、男爵よりも偉くなってロキシーを迎えに行くから。待ってて」
それって素敵ね、とロキシーも笑った。
血の繋がらない姉弟は、まるで似ていない顔を並べて、泣きながら笑い合った。それが別れの言葉の代わりだった。
――さようなら、お義父様。さようなら、お義母様。さようなら、暮らした家も、街も、農場も。黄金の麦の穂。輝く太陽。夜を照らす優しい月も。気の良い農夫。貧しくも平穏な暮らし。さようなら、たった一人の、大切な弟。
行く末に待ち受けるのがどんな激流か、ロキシーはまだ知らない。