お迎えが来て、わたしは帰路の準備をする
女王ロクサーナは美しく残酷だった。
国民は自分の所有物に過ぎなかった。気に入らなければ家臣も粛正した。
女王ロクサーナは愛を知らなかった。
だから愛して欲しかった。だけど結局愛されなかった。
婚約者はいたが、半ば無理矢理結んだ婚約だった。彼からの愛はなかった。
女王ロクサーナには血の繋がらない妹がいた。
モニカ・ファフニール。男爵家の養女で、彼女こそが真実、王家の血を引く人間だった。ロクサーナは嘘をついた。ロクサーナはただの男爵令嬢だった。モニカの出自を知り、成り代わろうとしていた。
女王ロクサーナは十七歳で死んだ。革命を率いた一人は赤毛の騎士の異名を持つ冷酷な青年、ルーカス・ブラットレイ。
馬鹿なロクサーナ。愚かなロクサーナ。史上最悪の女王は首を切られて死んだ。
◇◆◇
それがロキシーが思い出したことだ。確かに暗い死の感触があった。だがそれ以外は曖昧で、うすく靄がかかってしまったように遠い。
あれは果たして本当にあったことなのだろうか。時間が戻るなんてあり得ないと思うし、実際、その夢と今とでは異なる点が多い。
夢の中で、ルーカスはロキシーを憎んでいた。それは彼が真の女王を擁立する革命軍の一人であるからだ。
その事実を、ロキシーは当然のように知っていた。だが実際のルーカスは敵対する立場どころか今や唯一の味方といっていい。
実母の記憶はないが、双子の出産で産後が悪く、そのまま帰らぬ人になったといつも聞かされていた。しかしモニカが実子でないとすると、母が産んだのはロキシーだけだ。
女王ロクサーナはまだ男爵家にいた頃、妹をひどく憎みことあるごとにいじめ抜いていた……ように思う。だが今のロキシーはその隙すらなく養女に出された。
(訳分かんない)
女王だった日々に思いを馳せると愉悦も快楽も恐怖も憎悪も震えるほどに蘇る。その感情が、確かにそれは現実にあったことだと告げていた。
ロキシーの中には奇妙なことに二つの記憶があった。
一つは突然思い出した、偽りの女王として君臨していた記憶。そしてもう一つはブラットレイ家の養女として、十二歳まですくすくと育った記憶。どちらが本当の自分かと言えば、やはり後者こそロキシーだった。
(考えても仕方ないわ。どうせ今のわたしが女王になんてなりっこないもの)
もう少ししたらルーカスが帰ってくる。そしたらまたくだらないおしゃべりをして忘れてしまおう。
ベアトリクスが死んでからの日々はめまぐるしかった。親族を名乗る見たこともない人々が入れ替わり立ち替わり片田舎のこの屋敷をわざわざ訪れ、正当な相続の権利だとか言いながらあっという間に領地や財産を奪っていってしまった。残ったのはがらんどうの屋敷だけだ。
領地は他人に売られたが、その人の温情でなんとか屋敷には継続して住むことができていた。ルーカスは次期農場当主から一転、元自分の家の農場で働く農夫となった。
それでも二人は不幸とは思っていなかった。
ほんのわずかな財産と、今やたった一人の家族であるお互いがいれば、それだけで日々は充足していた。
母はいつも言っていた。人の豊かさとは、持っている財産の重さではないと。その教えの通り、ロキシーはなにが人にとって一番大切かを知っていた。
ロキシーにとって大切なことは、自分と弟が生きているということだけだった。
黄金の野に夕陽が落ちる頃、歩調に合わせて揺れる赤毛を見つけ、ロキシーは弟に走り寄った。それが二人の幸福な日々だった。
そんな二人の暮らしが唐突に終わったのは、母が亡くなってから一月ほど経った頃だった。誰も尋ねてこないはずの屋敷に、突然声が響いた。
「ロクサーナ・ファフニール様! 居られますか!」
その男の声は二階までも響いてきた。
来客の予定などない。もしや強盗の類いか。
(だけど強盗がわたしの名を呼ぶかしら?)
念のため、いつも枕元に忍ばせている小型の拳銃を手に取ると階段の上から顔を出す。ぶしつけにも返事をする前に玄関が開けられる。
侵入者とはっきり目が合った。軍服を着たその黒髪の男はまま、端正な顔をしていると言える。
だが彼を見るなり、ロキシーが固まったのはその整った外見によるものだけではない。
まるで雷に打たれたかのような衝撃が走り、目が離せなくなった。
自分の中の知らない誰かが叫んでいる。
――彼だわ!
会いたかった。会いたくなかった。
愛している。憎んでる。
その胸に抱かれたい。殺してやりたい。
この男のことを確かに知っている。だけどこんな感情、知らない。
「レット・フォード……?」
信じられない思いで、その名を呟く。
あの夢の中でロキシーの元婚約者として現れ、そしてモニカの隣に佇んでいた、次期国王になる男。
名を呼ばれた彼は一瞬だけ面食らった表情をして、だがすぐに元のすまし顔に戻る。
「お小さい頃にお会いしたきりでしたが、覚えておいででしたか」
小さい頃会ったなど知らない。だから彼を覚えていない。
彼を知っているのは、ロキシーの中にいる女王ロクサーナだ。
(他の誰に憎まれても良かった。彼がわたしを見てくれるなら――)
身に覚えのない感情が、ロキシーに一筋の涙を流させた。震えるほどの激情が心の中に渦巻いていた。今すぐ触れて、愛する彼を確かめたい。
だが一方で冷静な今のロキシーは急速に思考を働かせる。
彼はロキシーの以前の姓を呼んだ。「ファフニール」。それはブラットレイ家に養子に出される前に暮らしていた、生まれた家の名だ。養子に来て以来、連絡など寄越さなかったくせに。
結局、主導権を握ったのは、女王ではなく今のロキシーの方だった。後ろ手に隠した拳銃を握りしめる。
「……何をしに来たの?」――今更。
「そう警戒しないでください」
苦笑しながらレットは一歩階段に向けて踏み出した。段の上から、ロキシーはそれを憮然と見下ろした。
「ベアトリクス様の死を知った男爵様の命で参ったのです」
「元・お父様が今になって何の用があるというの?」
「そんなに冷たい物言いでは、お父様が嘆かれますよ。あなたを心配しておられるのだから」
嘘だ、とロキシーは思った。
父はロキシーより、双子の妹のモニカを大切に思っていた。だからあの時だって、モニカを手元に残し、ロキシーを養子に出したのだ。
だがそれを恨んではいない。養父母もルーカスも、実の家族以上に大切に思ってくれたから、ギスギスとした以前の家族よりも、この家は温かかった。
「あなたを引き取られたいと。さあ、お家に帰りましょう、ロクサーナ様」
「馬鹿にしないで、わたしの家はここよ! 帰ってちょうだい、レット・フォード!」
かっと頭に血が昇り、そう叫び部屋に戻ろうとした時だ。背中の向こうからかけられた声に思わず足が止まった。
「暮らしの保証はされますよ! もちろん、ルーカス君にも、仕送りを」
ロキシーはレットを振り返る。
彼はまだにこやかに笑っている。いったい、どういうつもりでまだ十二歳の少女を金で買収しようとしているのだろうか。
だがそれは確かに効果的な一手だった。
迷ったのはほんの少しの間だけで、結局は彼の言葉に頷いたのだから。
「……準備、するわ」
お金がなくては生きられない。ロキシーはそれを知っていた。