元婚約者と、わたしはホテルへ
それで結局、宿に来た。
小さく道の端に隠れるようにひっそりとある、普段だったら絶対に立ち寄らないような場所だ。
レットが宿の主人と会話した後、主人がロキシーを意味ありげに見た。
部屋は空いているらしいが案内もない。
「こんな場所に、誰が泊まるのかしら?」
「いろんな事情がある人が泊まるんですよ。世間から隠れたい恋人たちとか」
レットが蝋燭に火を灯すと、部屋がぼんやりと映し出される。ベッドと小さなソファーがあるだけの、質素なものだ。
「どうしてベッドが一つしかないの? 二人部屋でしょう?」
「そういう宿なんです。ベッドはお使いください。私はソファーで」
と、レットが服を脱ぎだした。慌てて目をそらす。
「ちょっと! レディーの前で、ひとことくらい断ったらどうなの!」
「しかし風邪を引いてしまいますよ。あなたも脱いでは?」
ロキシーに乾いたタオルを差し出しながらこう付け足す。
「私は少女を恋愛対象としては見ないので、たとえここで素っ裸になられようとも指一本として触れません。ご安心を」
「モニカのことは好きなくせに」
むっとしてそう言うと眉を顰められた。
「私が? 冗談は止めてください。あいにく私の好みはもっと大人の女性ですよ」
意外だった。
「だけどモニカにすごく優しいじゃない」
「心外ですね、私はあなたにも優しいじゃないですか。大佐の大切な娘さんですから」
言われてみれば、優しい、のだろうか。確かに服を買ってもらったし、今もこうして一緒にいてくれる。
「……ありがとう」
「え? ああ、いえ。気にしないでください」
居心地が悪そうに頭をかくレットの姿に、果たして彼はこんな平凡な反応をする人間だっただろうかと思う。
「なんだか今日のあなたはいつもと違うみたい」
「まるで普段の私を知っているかのような口ぶりですね」
実を言うと知っている。女王ロクサーナだった頃、ずっと彼を見ていたから。爽やかで、嫌味のない、誰からも愛される彼を。誰にも愛されなかったロクサーナは、だから彼に惹かれたのだ。
だが恋のレンズを外して彼を見ると、まるで違った人間に見えるから不思議だ。かつてあれほど美しかった彼の笑みはいかにもな作り笑いだし、性格はあまり爽やかではなかった。
「三十秒に一回はするその笑み、胡散臭いから止めたらいいのに」
「モニカ様とは真逆のことを……彼女は『その仏頂面どうにかしたらいかが』と以前おっしゃいました。以来、こうやって作り笑いを。評判は上々、もうくせですね」
その言葉に、ロキシーはモニカを思い出した。
彼女の顔に貼り付いているあの笑みは、彼女なりの処世術なのかもしれない。
だけどモニカの指示を受けて彼の笑みがあると思うとやはり愉快ではない。ロキシーの心は重くなる。
「わたしはきっと、モニカにしてやられる運命なのよ。つまらない人生だわ」
「そう卑屈にならないで。まだあなたは十二歳、何も知らないじゃないですか。自分が誰であって、誰でないのか」
「あなたは自分が誰か知っているの?」
「さあ、興味もありません」
「あなたって、本当はすごく変な奴なのね」
「よく分かりましたね。その通りです」
ははは、と彼は笑った。乾かすためか濡れたシャツを床に広げている。片手にはタオルを握ったまま。
その姿を見て、ふとロキシーの中に暗いひらめきが浮かぶ。
(もしレットが、わたしのものになってくれたら――)
そうしたら、きっとモニカはもう二度と手出しをしてこないだろう。他の令嬢たちにも一目置かれ、あんな悔しい思いをしなくて済む。ルーカスのことも探してくれるかもしれない。
彼は父の部下だ。ロキシーを無下にはできないはずだ。
その感情が、純粋な愛情でないことは分かっていた。
だが、とにかく誰かにすがりたかった。ロキシーの味方はどこにもいない。ならば作るしかない。武器は自分だ。
そこまで思ったところで、勢いよく彼に飛びつきその体を抱きしめた。反射的にロキシーを抱き留めた彼は、床の上に尻餅をつく。息をのむ音が聞こえた。
その耳元で囁くように言った。
「わたし、あなたが好きよ」
彼の手からポロリとタオルが滑り落ちる。雨が窓を打ち付ける激しい音が聞こえる。心臓の鼓動が、自分のものか彼のものかも分からない。
しばしの沈黙の後、ゆっくりとした返事があった。
「私は、あなたに嫌われているとばかり思っていました……」
流石軍人だ、鋭い。
ロキシーは首を横に振る。
「わたしもそう思ってたんだけど、もしかしたら違ったのかも。好きと嫌いってすごく似ていて、自分でも、時々分からなくなっちゃうから」
だが彼の手がロキシーを抱きしめ返すことは遂になく、代わりに体を引き離された。
そう上手くはいかないか、と彼の顔を見上げると、思ったよりも真剣な表情がそこにある。
「……私を利用しようとしましたね?」
何もかも、見抜かれている。
「ち、違うわ。あなたが好きだと思ったの。愛してるって感じたの」
「本当の恋も知らないくせに。愛を語るなんて十年早いですよ」
あまりにもあっさりと下心が見抜かれてしまい、面白くない。
「じゃああなたは知ってるの? 本当の恋ってなに? 愛ってなに?」
「ロクサーナ様。不安でどうにかなってしまってるんですよ。疲れていると余計なことまで考えてしまいます」
温かい飲み物でも貰ってきますよ、と彼が部屋を出て行ったので、ロキシーは一人残される。
自分でも大胆な行動をして、心臓がまだどきどきしていた。
魔が差した。きっとそう。母がもしこの場にいたら怒られそうだ。だが彼女はいない。ロキシーは誰にも叱られない。静寂が包む。
ようやく体の冷たさを思い出し、濡れた服を脱ぎ、下着姿で布団にくるまる。
外では相変わらず雨が降り続いていたが、こうしていると体が温まり、ほっとする。そして自分だけ安全な場所にいることに、罪悪感を覚えた。
(ルーカス、どうか無事でいてね――)
床に広げられたレットのシャツはロキシーの付けた泥で汚れていた。