後編
行く先は決めていなかった。
場所なんて本当はどこでもよかった。
海へ行こうと言ったのはレットだった。いつか海が見たいと話したことを、ずっと覚えていたらしい。
故郷は森に囲まれていたし、王都も川はあったが海はなく、生まれてこのかた、見たことが無かった。
「本当に、大きな湖みたいね」
波打ち際ではしゃぐロキシーを、日差しが眩しいのか、目を細めレットは見ていた。他に人の姿はなく、世界で二人きりになった気分だった。
「あなたも来て」
もう子供じゃないから、と遠慮気味なレットの手を引っ張る。濡れた砂に足を取られ、ロキシーは転びそうになった。
「危ない!」
レットがロキシーを支えるが、結局二人して水の中に転倒した。おかしかったのか笑うレットを、ロキシーは見つめた。彼がここにいることが、奇跡のように思えた。
視線に気がついたのか、彼もこちらを見た。
しばらくそうして、見つめ合った。波が押し寄せ続ける。服に水が染みこんでも、気にならなかった。
沈黙を破ったのはロキシーだった。
「いつからわたしのことが好きだったの?」
レットは答える。
「さあ、多分、生まれる前からだと思う」
彼の手が、撫でるようにロキシーの髪に触れた。
「この世界は、本当に祝福なのかもしれないね。
かつての世界で、私が、ロキシーが、モニカが、ルーカスが――誰もが願ったように」
呪いの果てに、無限の世界が作り上げられたと思っていたが、彼はそれを、願いだと言う。
もしかすると、呪いと願いは、同じところにあるのかもしれない。
ふと、レットの顔に陰りが差した。
「過去の記憶が戻った時、吐き気の他には後悔があった。……昔の自分は思い出したくもない。愚かで間抜けな大馬鹿者だ」
何度も聞いたことだった。だけど繰り返し、彼は後悔を口にする。
「一つ、懺悔をさせてほしい。今更、随分虫がいい話だと、我ながら思うが」
ざざ、と波が打ち寄せる。引いては寄せる波は、まるで二人の関係のようだった。
「前の世界でもロキシーのことが好きだった。ロキシーを殺して、それをやっと自覚した」
瞬間、世界は遠ざかったように思えた。
自分の心臓の鼓動が聞こえる。
波の音は小さくなり、ロキシーの目の前から、レット以外の全てが消えたような錯覚に陥った。
「あなたは気高かった。私が持たないものを全て持っていた。だから、汚してしまいたかった。人は所詮、誰しも欲望を抱く卑しい存在だと、知らしめたかった」
「誰に?」
「思えば、両親にだったかもしれない」
ロキシーの胸は深く痛んだ。
悲劇の中で亡くなってしまった彼の家族は、もう二度と戻らない。それでもレットは、悲観してはいなかった。ロキシーを見て寂しげに微笑む。
「だけどあなたは、汚れなかった。死の際でさえ、氷のように美しかった。多分、誰もが、あの瞬間に後悔した。あなたを殺す正しさを、誰もが疑った」
レットは自覚しているんだろうか。あまりにも切なく美しいその笑みが、どれだけロキシーの胸をざわつかせるか。
「その世界で、あなたは救われたの?」
「いいや」
静かに、レットは首を横に振る。
「遂に、救いは訪れなかった。救われたのは、この世界で、あなたに出会ってからだ」
彼の目がまっすぐロキシーに向けられる。
「出会った頃のロキシーは、戸惑い震えて怯える、ほんの小さな子供に過ぎなかった。
だけど気にかけ、守りたいと思ったのは上官の娘だからだけではなかったんだよ。恋をするにはあなたは幼すぎたけど、私はとうに愛していて――ロキシーのために生きようと、そう思った」
二人ともびしょ濡れだったが、レットは気にせず、ゆっくりとひどく遠慮がちにロキシーを抱きしめた。
「あなただけだ、ロキシー。私には、あなたしかいない。愛してる――この命を懸けて、愛している」
彼の濡れた服を感じた。震える声も、感じていた。
「もしも、とずっと考えていた。私たちに、もしもがあり得たら。
ロキシーが少しでも、私を好きだと思ってくれて、ほんの少しでも、愛していると思ってくれているのなら。何かの間違いで、私と一緒に生きてくれないだろうかと。そんな世界が、いつか訪れないだろうかと」
声を発そうとして、喉につっかえ失敗し、ようやく出せたその声も、彼と同様、ひどく震えたものだった。
「ねえレット。当たり前じゃないの。そんなの、一緒に生きるに決まっているわ。
“もしも”じゃない。もしもなんて、ものじゃない。もっと確かで、はっきりしてる思いよ。わたし、あなたを愛している」
一つのわだかまりも計算もなく、人に愛を伝えるのは、これほど幸福に満ちたのものだったのかと、ロキシーはその喜びを噛みしめた。
この結末に辿り着くまでに、なんて時間がかかったんだろう。気がつけば、言葉がとまらなかった。
「そうよ、愛してるの、愛しているのよ。愛してる、愛して――」
嗚咽混じりの言葉の先を紡げなかったのは、レットがロキシーに口づけをしたからだ。
「これはきっと夢だ。目が覚めたら、断頭台にいるに違いない」
いつだかの大雨の宿屋を思い出す。同じように震える彼を抱きしめていた。
今は晴れていて、雨の気配もないし、ロキシーはもう子供ではなかった。
本当の彼をずっと探していたけれど、嘘偽りのない彼は、いつだってそこにいた。
「夢じゃないわ。これから先も、永遠に、わたしの隣で、生きて欲しい」
レットは、さながら王にひれ伏すように、砂の上に跪く。
「……どうしたの?」
「信じられない。あなたが私に笑いかけるなんて。これは現実か? それとも、死に際の夢の見せた幻か――」
かつて愛し、憎み、ロキシーの命を奪ったその男が、今目の前で震えている。
「だけどこれは現実よ」
その髪に触れ、顔を上げさせる。ロキシーの長い髪が、レットの顔に触れた。二人の黒髪が混じり合い、まるで一つの存在のように重なる。彼の瞳が、大きく揺れた。
一方的に愛するのではなく、ただひたすらに守られるのではなく、愛し愛され、守り守られる対等な関係を、彼と結べる日を、遙か昔から待ち望んでいたように思う。
もしかするとレットも、同じ気持ち――あるいはそれ以上の思いなのかもしれない。
ロキシーはもう泣くことしかできない幼い少女ではない。
彼の弱さを受け止めて、支えられるほどには大人になった。
彼の長い指が、ロキシーの髪に触れた。
なんの憂いもなく、彼が微笑んでいる。
ただそれだけのことなのに、どうしようもなく心が揺れるのは、温かさが溢れるのは――これこそが愛なんだろう。
ロキシーも彼の髪に両手の指を通した。
彼は目を細める。
「いつか、夫婦のふりをしたね」
思い出し、ロキシーは頷く。故郷に帰ったときだった。
「あれは本気だった。そのまま夫になろうと思っていた」
レットは優しく微笑む。
「本当は、本気であなたを宿屋から連れ去ってしまいたかった。あなたの故郷で一緒に暮らしたかった。あなたと暮らした時、ずっと部屋に閉じ込めておきたかった。だけど、できなかった」
「そのどれも、今はできるわ」
「ああ、ああ……そうだ、本当に」
噛みしめるように、レットは何度も頷いた。
「ただ側で見守るだけの男はうんざりだ。平行線はもうやめたい。好きなことをしよう。ロキシーと一緒に」
ロキシーは問う。
「これから何がしたいの?」
「山ほどある。だけどそうだな、まずは――」
レットはロキシーを引き寄せると、再び口づけをした。
「今まで我慢してきた分のキスをしたい」
ロキシーが微笑むと、さらにきつく抱きしめられる。そのまま、レットの気が済むまでキスをした。
まるで空白を埋めるかのような、思いの丈をぶつけるかのような、長い、長いキスだった。
レット・フォードはロキシーが思っていたような人間ではなかった。それよりも、遙かに素敵な人だった。
もうここに、女王はいない。大切なのは、ロキシーは、ただのロキシーであり、彼を愛しているということだった。
彼が笑うと嬉しかった。これが幸福なのだ、とロキシーは思ったし、彼も全く同じ思いでいることを知っていた。
その後は砂浜に、並んで腰掛けて、いつまでも話し続けた。
過去を懐かしむように。
思い出を振り返るように。
大好きな人たちを思うように。
これから先を考えるように。
未来を見続けるように。
愛を、確かめ合うように。
時に笑い、後悔し、悲しみ、喜びを分かち合いながら。
二人の間に流れるのは、長い時を経てようやく見つけた愛だけだ。決して手放すまいと、固く手を握り合う。
愛することも、愛されることも、恐ろしいことではないと、彼は以前教えてくれた。だから今度は、ロキシーが彼にそれを教える番だった。
太陽が水に反射し、世界自体を輝かせていた。まるでこの世界に、一つの憂いもないと錯覚するほど、美しい風景だった。
互いの温もりを確かめ合うように、二人はいつまでも、そうして隣で座っていた。
〈おしまい〉
最後までお読みいただき、ありがとうございますございます。気に入っていただけたら、ブクマや感想、広告下の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」マークから評価をいただけると今後の励みになります。
二人の少女の成長物語を書きたくて、作ったお話でした。
最初にも触れましたが、多少展開は変えているものの、この物語は再投稿版でした。また皆様にお読みいただけて、本当に幸せでした。少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。
そのうちまた別の話を書くと思うので、またお会いできたら嬉しいです。お読みいただき、本当にありがとうございました。