彼に連れられ、わたしは逃げる
モニカが帰宅した気配がしてもロキシーは部屋から出なかった。
出たのは父が帰った音を聞いたからだ。話がある、と言われたことは、もちろん覚えていた。
オリバーはロキシーを見ると軽く頷く。
「書斎へ」
それだけ告げられる。
父の緑色の瞳の中に、意志が宿っているのが見えたが、それが何かは分からなかった。
かけなさい、と促されるまま向かいに座る。
「ロクサーナ実は――」
遂に出て行けと言われるのか、と覚悟をした。だが告げられたのは、全く予期していないことだった。
出て行けと言われるよりも、はるかに恐ろしい――。
「お前の住んでいた街が、戦地になった」
一瞬、父が何を言っているのか分からずに、聞こえた言葉を反芻する。
戦地になった。戦地に……。
そして理解した時、心臓が止まってしまったかと思うほど、体が冷たくなっていった。
そこからの話は、遠くから聞こえてくるようだった。
――隣国が攻め入ってきた。
――撤退させることはできたものの、街も農地も崩壊した。
――お前が暮らしていた街は跡形もなく。
――ルーカス君の行方も分からない。
「遺体の中に、彼らしきものは、まだ見付かっていない」
“まだ”って――。
じゃあ、いつかは見付かると言うこと? 死体として、ルーカスが?
戦地になったのはいつだ。手紙の返事が来なくなって二週間経つ。
――今この地方への郵便は時間がかかるよ。
郵便局員の気遣わしげな目を思い出す。
「嘘よ!」
やっとそれだけ叫ぶが、声が震えているのが自分でも分かった。
(だって、大人になったら迎えに来てくれるって、言っていたもの!)
「お父様は嘘つきだわ!」
叫んでから、部屋を飛び出そうとした。が、すぐに父に腕を掴まれる。
「何処へ!」
「離して! ルーカスのところに行かなきゃ!」
「行ってはいかん!」
父の手は強く、振りほどけない。
と、そのとき、ひどくのんびりした声が聞こえた。
「お父様、何があったんですの?」
騒ぎを聞きつけたモニカが部屋から顔を出し、興味が無さそうに尋ねてきたのだ。
それから父の部屋を飛び出したロキシーとその腕を掴む父とを見比べ、にこりと笑った。
「あら、出て行くのね?」
まるで、今日のおやつはクッキーね? とでも言うような、ごく当然の声色で。
「夜はまだ冷えるから気をつけてね? じゃ、ごきげんよう」
「モニカ、お前という奴はなんてことを!」
オリバーがモニカを叱ったため、抑えられる力がわずかに弱まった。ロキシーはその瞬間に、その腕を振り払うと一目散にかけだした。
「ロクサーナ!」
父の声が追ってくる。それでも足は止まらなかった。
――家に帰る。ルーカスの所へ!
それで彼がちゃんと生きてると確かめなきゃ。
家はいままでの通りで、農場だって通常営業のはずだ。戦地になったなんて、ルーカスが死んだなんてオリバーの勘違いだったと、笑い飛ばなくてはならない。それで、養父母のお墓参りをしよう。そのまま、もうここには戻らなくていい。お金なんていらない。ルーカスがいれば、初めからそれで良かったんだ。
ロキシーの足は駅へと向かう。だが着いたところで少し冷静になった。
最終の列車など、とうに出てしまっていたのだ。
「ロクサーナ!」
自分の名を呼ぶ父の声が聞こえ、慌てて建物の陰に身を隠した。そっと様子をうかがうと、使用人とともにロキシーの姿を探す父が見えた。
馬で先に駅へ来ていたのか。だけどみすみす見付かってやるつもりもない。
一晩どこかでやり過ごして、明日の朝一番の列車で家へと向かおう。
(……線路は繋がっているのかしら?)
信じたくはないが、もし本当に故郷が戦場になったのなら、その近くまで通じる列車も不通になっている可能性もある。
心のどこかでは気がついていたのかもしれない。オリバーがそんな嘘をつくはずがないということを。
(できるだけ近くまで行ってみよう)
そう決心をしたとき。
「ロクサーナ様」
背後から声をかけられて悲鳴を上げそうになる。だが寸前のところで堪え、現れた人物に声をかける。
「レット・フォード………………さん」
「大佐が私にも探すように命じまして」
敬称がかなり遅れてつけられても彼は気にしていない。いつものように口元にわざとらしい笑みを浮かべていた。
父の部下に見付かるなんて最悪だった。
これではあの屋敷に連れ戻されてしまう。
レットはロキシーの手を握ると微笑んだ。
「では、参りましょうか」
「わたしは帰らないわよ」
「そうですか」
拒否の態度を取っても、軽く流されるし、手も放してはくれない。だが父にも声をかけることなくむしろどんどん離れていく。
「……ねえ、どこに向かっているの?」
流石に不安に思い、なおも進んでいく彼の後ろ姿に尋ねると、当たり前のような口調で返事があった。
「家に帰るんでしょう? 列車は不通ですから、馬車で。時間はかかりますけどね」
「家ってもしかして……」
驚いていると、振り返った彼と目が合った。
「前に言っていたじゃありませんか。自分の家はここだと。さあ帰りましょう、あなたの家へ」
それからレットは辻馬車を拾い、行き先を告げる。御者は顔をしかめた。
「旦那、あそこへは行けねえよ。分かってるだろ、道が」
「いいから。これで――」とレットは少なくない量の札を御者に手渡す。「――行けるところまで行ってくれ」
御者は目をしばたかせ、レットとロキシー、そして札束を見比べて、結局最後には頷いた。
ガタゴトと揺れる馬車の中に二人で横並びに座る。狭い車内で、彼の体温を感じた。ふと懐かしさを覚え、慌てて振り払う。懐かしいのはロキシーの中の女王であって、今のロキシーではない。
気まずさを誤魔化すように、彼に声をかけた。
「お父様に知られたら、あなたも叱られるんじゃないの?」
レットはチラリとロキシーを見ると肯定した。
「ええ。……でも、もういいんです」
何がどういいのだろうか。不思議に思っていると視線に気がついたのか彼が言った。
「あなたも、くだらないと思いませんか?」
「何が?」
「人の意志を自分の思う通りになどできはしないのに、できると思っている人たちがですよ」
甘い顔立ちから発せられるのは、なんと退廃的な言葉だろう。なおも無言で見つめると、ふ、と彼の顔が緩んだ。
「まるで駆け落ちみたいですね?」
この男は冗談を言わないと気が済まないらしい。
自分でもつまらない冗談だと思ったのか、苦笑いを浮かべていた。




