第二十一話 ファム・ファタルの女
「ゆっくり……そう、ゆっくりですよ、ラディン殿下」
「あぁ」
壁に左手を突いて支えにしながら金髪の青年はゆっくりと床に足をつける。
生まれて初めて立つ小鹿を支えるように、傍には赤みがかった茶髪の女がいた。
一歩、また一歩とラディンが歩くたび、女──シルルは華やいだ声で笑う。
「殿下、よかった! もう歩けるようになったのですね」
「うん、大丈夫そうだ……ありがとう、シルル。君のおかげだよ」
「そんな……わたくしはただ神に祈っていただけですわ」
「シルル……」
だんだんと距離が近づいていくラディンとシルル。
つぶらな瞳に魅入られたようにラディンが顔を斜めにすると、シルルは彼の唇に人差し指を当てた。
「だーめ♪ 殿下、そういうことはお仕事が終わったあとに……ね?」
「あ、あぁ。そうだな。今日も炊き出しに行くのかい?」
「もちろん! 平民たちがお腹を空かせているんだもの。早くご飯を届けてあげなきゃ」
「分かった。用意してから行こう」
ラディンは口元に笑みを浮かべた。
正直、少し頭がぼんやりするが、シルルとの時間を大切にしたいラディンだった。そんな二人きりの室内に──
コンコン、とノックの音が響く。
「殿下、ご快方おめでとうございます」
「あぁ、ルアンか」
ラディンの近衛騎士、ルアン・ツァーリがやって来た。
目元に隈を作った彼はシルルに微笑み目礼する。
「お邪魔して申し訳ありません、殿下、早速で申し訳ないのですが──」
「書類なら後にしてくれ。今はシルルとの時間を優先だ」
「──は?」
思わず唖然としたルアンの横をラディンが通り過ぎる。
甘ったるい香水の匂いを嗅いで、ルアンは慌てて振り返った。
「お待ちください! 殿下が倒れてからの一ヶ月、側近全員でなんとか執務を回している状況です。認可待ちの書類が山ほどあります! せめて重要書類だけでも片付けて行ってください」
「うるさいぞ、ルアン。お前は私の近衛騎士だろう。それくらい何とかしろ」
ルアンは眩暈がした。
騎士は主の身を守る者であって、書類仕事を片付けるのは文官の役目だ。
逆に言えば、近衛騎士を動員するほどひっ迫しているというのに──
「ツァーリの名に恥じぬよう、しっかり務めを果たせ。姉の汚名を雪ぎたいならな」
「殿下はどこに」
「炊き出しだ。平民たちが困っているからな」
「そんな予算、どこにあるんですか……」
ラディンは帝都アヴァロンの一地区を任されているとはいえ、その予算は限られている。他の皇子たちと資質を競い合うべしという皇帝の方針上、後から予算を増やしてくれと言っても絶対に聞いてくれないはずだが。
(ただでさえ姉上が抜けたことで執務が滞っているのに)
「頑張ってね、ルアン♪ 帰ったらお話しましょ」
「はい、バース嬢。僕もあなたに話したいことが……」
その時、シルルから甘ったるい匂いが漂って来た。
頭がくらくらするほどの濃厚な匂い。これを嗅ぐといつも安心して、身を任せたくなる──
『いいこと、ルアン。植物が放つ甘い匂いは虫を寄せ付けるためにあるの。人間にとっては毒と同じよ。魔毒性の植物でリリスと名付けられた花があって、その花の蜜を煮詰めると──』
脳裏に姉の言葉を思い出したのは、ラディンからツァーリのことを聞いていたから。ツァーリの汚名。姉、罪、誇り、断片的な情報がルアンの記憶から一つの情報を引き出した。ルアンは慌てて振り向いた。
「バース嬢……」
既に、二人の影はない。
豪華な城の絨毯が虚しく廊下の端まで伸びている。
仄かに残った匂いを嗅いだルアンは、咄嗟に鼻を覆った。
「これは……いや、まさか……」
ありえない。バース嬢はそんなことをする人ではない。
姉のことで悩んでいたルアンの隣に座り、「あなたはとても頑張ってる」「剣を振ってるところみたいな」「いつも殿下を守ってくれてありがとう」と優しい言葉をかけてくれたし、姉のせいで女性とは縁遠かったルアンにとっては、初めて切ない想いを抱いた相手でもある。そう、彼女の言葉を聞くたびに姉への不信感を募らせ、皇子への忠誠心を思い出したのだ……。
──あの女性と、会うたび?
「あ、ルアン。ようやく見つけた」
「……兄上?」
廊下の向こうから兄の姿を見つけてルアンは怪訝そうに眉根を寄せる。
「どうしたんですか、こんな所に」
「お前を探してたんだよ。最近、毎日城のほうに泊ってんだろ? こうでもしなきゃ話せないと思ってな」
「騎士団の仕事は」
「あー、まぁこれも仕事の一環みたいなもんだ」
黒髪赤目の兄──テオドールは肩を竦めた。
軽い物言いだが、視線をあっちこっち彷徨わせるのは兄が言葉を選ぶ仕草だ。
おそらく、自分に会いに来たという用事は半分だけで。
「本命は何ですか? ハッキリ言ってください」
「うん……じゃあハッキリ言うが。お前、バース嬢のことはどう思ってる」
「……いい人ですよ。聡明だし、優しくて、明るいし……」
「……」
じ、とテオドールに見つめられ、ルアンは白状した。
「……確かに最近、悪目立ちしているところはあります。婚約者でもないのに殿下の傍に侍り、執務そっちのけで平民の炊き出しを行ったり、子爵令嬢の身で軽率に予算書類を見ようとしたり……ですが、」
そこで言葉を切り、ルアンは兄を見上げる。
「姉上のせいで卑屈になっていた殿下を立ち上がらせたのは彼女の功績です。そもそも、元はと言えば姉上が殿下に毒を盛ったから殿下が一時的におかしくなってるだけで」
「ルアン」
テオドールは窘めるように言った。
「お前は本当にラピスが毒を盛ったと思ってるのか?」
「……」
「お前はあいつが、殺したい相手にすぐバレるような毒を使うと思ってるのか?」
「それは……」
「あいつなら誰にもバレずに自然死させる方法をいくらでも考えつくだろ。お前はなぜラピスが犯人だと思う?」
──なぜだろう。
姉を断罪したあの時は自分の正しさを信じて疑わなかった。
幼い頃から姉は正論を武器に無茶ばかり言って家族を困らせてきたし、その無茶の尻ぬぐいのためにテオドールと奔走したのは一度や二度ではない。
(そう、姉上はいつも正しい。正しいから間違っている)
どうしようもなく世間からずれていて、世渡りが下手。
感情的で、まっすぐで、芯があって。
まるで家の言いなりに生きているルアンを揶揄するような生き方に腹が立った。
腹が立ったから、それで──どうしたかったんだろう。
「…………今はもう……分かりません」
頭も気持ちもぐちゃぐちゃして、何がなんだか分からない。
そんなルアンを見て、テオドールは仕方なさそうにため息をついた。
懐から紙を取り出し、ルアンに渡す。
「これは……」
「とある薬屋の住所。なんでも解決してくれるらしいぞ」
「え」
テオドールは言った。
「迷ってるなら会いに行けばいい。お前たちは血のつながった姉弟なんだから」
「……」
「尤も、手土産の一つは送らないとぶっ飛ばされるけどな」
「手土産とは……」
「お前もツァーリの人間だ。バース令嬢について何か気付いてるところがあるんだろ?」
「……」
「それを持って行け。どうせ俺のところに行くよう言われるから、ちゃんと話して来い。あとでまとめて世話してやる」
じゃあな、とテオドールは言うだけ言って去って行った。
また仕事が増える……とげんなりした顔だけれど、あれでも妹弟に頼りにされて喜ぶ世話焼きであることは知っている。男らしい兄の背中が見えなくなってから、ルアンは静かに息を吐き、踵を返した。
「……まずは確かめないと」