霧のむこう
あとがき 変更しました。2012/10/5
なろうコン のキーワード設定。
その間、後書きは削除します。
なろうコン落選。
そんなわけで後書き復活。2013/01/13
霧。
海の上にあるもの。
地の上にあるもの。
彼女にまとわりつき、彼女の知るすべてのものを覆うもの。
地に芽吹いた草木は霧の高い部分を目指し、大地に這う生き物の一部はその木を登る。
勿論、手を離せば落ちる。
霧に浮くことは出来ない。まあ、当たり前のこと。彼女にも普通の常識はある。
だから、城の学士でなくても推測ができる。リンスのようなただの王女にでも。
この霧が淡く輝けば朝。そして真っ暗になれば夜。
子供でもわかること。
わかっていないのは。
だから、子供以下ということになるのかもしれない。
そう考えて、彼女はにやりと笑った。
きれいな、そして表情豊かな顔で、やはり割りと(あくまで割りと)整った、けれど愛想のない顔を思い浮かべる。
彼女自身、自分が周囲の男共から憧憬の視線を受けていることは知っていた。多少の変わり者であるとされていることも。
でも、彼に比べれば、彼女は平凡な性格であるといえる。
カイエ。知らぬものとてない変わり者。
「おはよう」
そう言って、彼女は小屋の戸を開ける。
「おはようございます」
丁寧だがそっけない声。愛想のない表情が彼女に向けられる。
彼女に向けるにはふさわしくない表情。
誰だって。
この国に住む誰だって、彼女には笑顔を見せる。
王の娘ということだけで、笑顔を強制する十分な理由になる。美人と言うだけで男の顔に笑みを生む十分な理由になる。
けれど、もちろん、彼女が背を向けた相手からも好意的な視線が向けられるのは、そして国の女たちからも好意的な笑顔を向けられるのは、それらだけが理由でもないだろう。
まあ、愛されていると自覚できるのは悪い気はしない。安心できる。穏やかでいられる。なにより、受けた好意を返す余裕が出来る。
もっとも、目の前の小柄な少年にはそういう余裕は感じられない。彼女から好意を受けるなんて、名誉なことなのに。ほかの男なら喜んで愛想笑いを浮かべて、より歓心を得ようと努力するのに。
「ばあか」
くすりと笑いながら、彼女は呟く。城の者が、特にリンス付きの侍女セイリアなんかが聞いたら思い切りいやな顔をするのだろうが。
とはいえ、長い付き合いになりつつある今では、彼の仏頂面にも多少の変化があることがわかるようになった。無表情を装ったような顔に微かな緩みがある。
笑っている。
喜んでいる。
好意を感じている。そう。好意だ。
「今日もいい天気だよ。霧を飛ぶにも、絶好の飛行日和」
「霧じゃない。空ですよ」
ちょっとしかめっ面をしながら、でも口元の笑みは残したまま彼女の「誤り」を指摘する。だから、彼女も軽く訂正する。
「失礼、空を飛ぶにも絶好、でした」
空。
カイエの教えてくれた言葉。というより概念。
地面の上にあるのは霧ではなく、空なのだそうだ。
霧はその空を満たしているものに過ぎない。この世が始まって以来一度も晴れたことがないとされる霧。けれど、これはただた、地表の上をたゆたっているものに過ぎない。
その霧の層を超え、もしさらに上を行くことができたら。
きっと、霧のない空、がある。
というのがカイエの考え。正直、根拠はないのではないかと彼女は思っている。
でも、「空」という感覚は彼女の気に入った。 それ以上に、「飛ぶ」という動詞が彼女の気に入った。
この世界を薄暗くしている霧。この苛立つもの。それを切り裂き、地面からも開放され、「空」を走る。
わくわくする。
よくこんな馬鹿げたことを思いつくものだと思う。
仮に出来なくたって、「飛ぶ」という発想を思いついただけで、彼女はカイエを(ひそかに)尊敬する。
そんなことを考えただけでカイエを本当に変わり者だと思う。
そう。
今まではただの変わり者だった。
でも、この「試験飛行」が成功すれば、さすがに皆も彼をただの変人とは呼べなくなる。
そうしたら、リンスがこの小屋に「入り浸っている」ことを苦々しく思っていたセイリアたちもカイエのことを見直すだろう。
もちろん、そのカイエの「偉業」を先見の明をもって支持していた自分のことも。
宮廷占星術師のいかつい顔を思い出す。
痩せているのに何故か凶暴な印象を与える占星術師。ガーブスター。
曰く。
人は霧に包まれ、この大地の上で歩くように定められている。この大地から離れるなど決して不可能。「飛行」など成功するはずがない。
「そのカイエという少年が己の愚かさで笑いものになるのは止むを得ません。けれど、あなたまで共に笑いものになることは国のためになりませんぞ」
はいはい。
そこから先は、セイリアが好きなお話。
「年頃の娘」のわきまえるべき節度と「王女たる者の」わきまえるべき嗜み。
はいはい。わかってます、わかってます。
リンスは頷く。セイリアが目の前でお説教をしているみたいに。
うんうん、と。
でも、空だよ。
この大地から離れ、「空」を駆けるんだよ。
たしなみなんて。
「くそくらえだわ」
「よし」
「え?」
勿論、彼はリンスの悪態に頷いたわけではなかった。
最後のボルトを締め終えたらしい。カイエはもう一度、「よし」とひとりごちた。工具を台の上に丁寧に並べ、それからリンスを振り返る。
「観客はいますか?」
「もちろん」
噂は彼女があらかじめ広めておいた。野次馬に不足はない。どうせ、彼らは今まで何度も「カイエの失敗」見物に来ていた。
そしてカイエは繰り返し彼らの期待に答え、失敗し、笑いを提供してきた。
今日はその「集大成」というわけだ。
「準備できた?」
「たぶん。でもまあ、試験は失敗のためのものだから」
「駄目よ。成功させなくちゃ」
わたしのプライドもかかっているんだから。
「じゃあ、お披露目しようか」
カイエがあまり豊かとはいえない表情で、それでも精一杯悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
リンスも精一杯の笑みを浮かべ、たった今完成した機械を外に出すため、小屋の扉を開けた。霧を輝かせていた光が差し込み、小屋の中へと霧が舞い込んできた。
たとえるなら、その形はやはりキノコなのだろう。あるいは雨傘を取り付けた二輪車ということになるのかもしれない。
もちろん、実際には傘ではない。
まるい外枠の中には複数の「羽」が取り付けられていて、ペダルを踏むとその羽が回転する。大小複数の回転翼の起こす風が機体を上へと持ち上げる。
「本当にそんなに都合よくゆく?」
はじめ、リンスはそう言って笑い飛ばした。
けれどカイエは動じずに笑い返した。ほかの事では内気な彼が初めて見せた自信ありげな笑み。そして彼は実際、数日後に実演して見せた。小さな回転翼が回るとその前方に風が起きた。
暑く風のない日に、リンスは短い間だったが涼しい思いを味わい、満足して納得した。
いいだろう。回転翼で風は起きる。
その回転翼を大きくして下に向ければ強い風が下へと起きる。で、機体は上へと持ち上がる。
まあ、理屈ではそういうこと。
後は「そういう機械を作る技量」と「軽い材料」とその「回転翼を回す体力」。
小屋の外に出ると三十人を超す野次馬が列を作って待っていた。リンスがカイエと一緒に機体を押して出るとどよめきがおきた。
彼らも本当は野次を飛ばし、はやし立てたいのだろうが、リンスが一緒ではそうもできないのだろう。
まあ、その程度でも、こんなことでも役に立っていればいいや、と思い、彼女は満足することにした。
小屋の前はちょっとした空き地だった。
馬の散歩にちょうどいい程度の距離が開けている。
この広い場所をカイエが整えるためにどれだけの苦労をしたかリンスは知っている。
小石を広い、大きい石は掘り出した。地盤が下がらないように大石を掘り出した穴にはまた小石で埋め戻した。踏んでも沈まないように棒で突きこんだ。
鏡のような、というのは言いすぎだが、それにしても平らな面が広がっている。
「この辺でいいよ」
カイエに言われ、リンスは押すのをやめる。
カイエは微調整を始めた。作業が一通り終わると、よし、と自分に声をかけ、カイエはサドルに腰掛けた。
彼が頷き、リンスは機体から離れる。
さすがに野次馬も口を開くのをやめて押し黙った。
「いきますよ」
「うん」
リンスが頷くと、カイエはペダルの上で足を伸ばし、立ち漕ぎの姿勢をとった。
そして、ハンドルを振るように、実際には自分の体を左右に振りながらペダルを踏み込む。
強く。
強く。
一回、二回、三回。
カイエがペダルを踏み込むと、はじめは小さな回転翼が回りだし、やがて大きな両側に据え付けられた大型の、両手を広げたほどの回転翼も追随を始めた。
そしてきのこの頭が、カイエの頭上で傘のように開いた回転翼が回り始めた。
風が起きる。
足元でふわりと埃が立ち昇り、砂が舞い上がって渦を巻く。
埃が目に入り、リンスは腕で顔をぬぐう。土手の上に並んだ野次馬がカイエが起こす風に息を呑んでいる。
一方、カイエは高速で回転する「きのこのかさ」の下で汗だくになりながら、黙々とペダルを漕いでいる。頭上で高鳴る風切り音にカイエが笑みを深く刻む。けれど目は笑っていない。汗が目に入ったのだろう腕で顔をぬぐった。
整った顔。
決して不細工ではない。むしろ美形といっていいのだろう。こんな変人でなければもっと女の子に騒がれていたかもしれない。
もちろん、この飛行に成功すれば本気で騒がれることになる。
女の子たちに囲まれてにやけているカイエ。
その場面を想像すると、リンスの心の奥底に何か、あまり慣れない感情が湧き上がってくる。その感情に名前をつけることは彼女のプライドに傷をつけそうだっので、彼女は深く考えないことにした。
風が来た。
カイエが起こしたものではない、強い風が来た。
きのこがゆれ、カイエの乗る機体がリンスのほうへと滑った。
慌てて身をかわしながら、リンスは野次馬たちのどよめきを感じていた。
滑った?
確かに気体は軽量化してある。
けれどこの程度の風で動くほどではないし、カイエというひとりの若者が乗っている。重りになっている。風で動くはずもない。
それが滑る?
リンスはしゃがみ、機体の下部を見た。
淡く立ち込める埃の中で、リンスは見た。
カイエの荒い吐息が聞こえる。ペダルを漕ぐのと同じリズムで繰り返される彼の呼吸音を聞いた。
車輪が浮いていた。
「……カイエ」
「わかってる」
しゃがれたリンスの声に、カイエの力強い声がこたえた。
ハンドルを握る腕に力が更に入る。背を曲げ、前傾姿勢でハンドルの上にのしかかるように前傾姿勢をとった。足の回転が更に速くなり、彼の頭上でなる風切り音が甲高いものにかわってゆく。
そして。
ふわり、ときのこが浮き上がった。
水の底から何かが浮き上がるみたいに、機体が浮き上がった。
さっきまで地面に接していた車輪が今はリンスの膝の高さにある。
もう野次馬たちの間からは何の声も聞こえない。
「飛んだ」
だから、あるいはリンスの小さなその声が野次馬に届いたのかもしれない。
「飛んだよ」
誰かが震える声を上げ、リンスの囁きを繰り返した。
「すげえ。飛んだよ」
カイエが頭上にあるレバーを跳ね上げた。
キン。
きのこが傾いた。
回転翼の送り出す風が真下から微かに後方へと傾き、きのこが霧の中を前へと漂いだす。
きのこ?違う。
それはもうきのこではなかった。飛行機、だ。
野次馬が声を上げた。
笑い声じゃない。怒声でも、ヤジでもない。男は拳を突き上げ、女は頭の上に両手を上げ拍手していた。彼らは歓声を上げていた。
距離にすれば数十歩。
それだけのことだった。
カイエが汗だくになり、息を切らし、肩を上下させながら移動した距離は、歩けばまったく汗をかかないような距離でしかなかった。
けれど。そういう問題じゃない。
歩いていける距離。早足で抜かれてしまう速度。頑張ればジャンプして届く高さ。
でも、そういう問題じゃない。
それはリンスだけでなく、あの場にいたすべての者が感じたはずだ。興奮に顔を赤らめながら、土手の上から降りて飛行機を囲み、おずおずとあるいは無遠慮に触りながらいつまでも冷めない興奮を口にしていた。
カイエはというと、ぐしゃぐしゃだった。
皆に頭をぐしゃぐしゃにされ、背中をたたかれ、胸を拳で衝かれ、でも満面の笑顔だった。
それはそうだ。今日は彼がヒーローだ。
「次はいつ飛ぶんだ?」
誰かが訊き、カイエが機械の調整と改良をしてから、数日後にまた挑戦してみたいと答えた。これで野次馬はまた次のショーが決まった。
もっとも、彼らは翌日も来た。
リンスよりも早く。
そして人数は3倍に膨れ上がっていた。噂はこのごくごく小さな国中に広まっていた。
「さすがリンス様が目にかけていただけのことはある」
という賛辞が耳に入り、リンスの鼻も高くなった。
馬の蹄の音が近づいたとき、その鼻はさらに高くなったかもしれない。ついに王が、父がカイエの偉業を認めたのだと思った。
リンスは飛んでいた。
翼なんかなくたって、彼女の心は舞い上がっていた。
「賢き国王陛下のお言葉を伝える」
その彼女の気分を、馬上の声は叩き落した。
「一、飛行機なる機械の作成を禁ず」
え。
一瞬、リンスには意味がわからなかった。
カイエが受けられるはずの賛辞だけが、頭にあった。
「二、既に作成したる飛行機の解体を命じる。」
「なんで」
カイエの声が茫洋としている。
それで、ようやくリンスも「王の言葉」とやらが褒め言葉でないことに気づいた。
「三、飛行機作成に供した小屋の解体と撤去、その土地に対する工作を命じる」
「解体?」
「四、以上の処置に本日より3日間の猶予を与える」
「待ってください」
カイエの声はしゃがれていた。その声に官吏の言葉は容赦なく被さってゆく。
「五、飛行機作成に用いた設計書、図面等の処分を命じる。ただし、これらは本日より4日後に監督官の監督の下行われるものとする」
「六、以上の命に異議あるときは宮廷審判所に申し立てることが出来る」
「申し立て?しますよ。します」
カイエが怒鳴るように言う。
だが、リンスは知っていた。
宮殿命令に対する抗議はまだ認められたことがない。だから、リンスの声にはカイエのような熱はなかった。ただ、低く押し殺したような声になった。
「誰が、この命令を?」
「国王陛下でございます」
「勿論、そうでしょう。それを陛下に進言したのは誰?」
今度の返事には少し間があった。
「……宮廷占星術師ガーブスター様です」
「……彼は飛行は不可能と言っていたわ。不可能なものを禁止するとはどういうこと?」
「……。私のような者にはわかりかねます」
「そうね。ごめん」
これは通らない。
負ける。
それがわかった。
リンスが宮廷に戻り、王の前で駄々をこねるか。
駄目だ。そんなものでは何も変わらない。手続きは正式なもので、もはや占星術師の思い付きではない。手続きを踏んだものである以上、それを翻すにはそれ以上の手続きが必要になる。そして、カイエの側からの手続きが、事実上無駄なことをリンスは知っていた。
カイエは。
彼はどう考えているのだろう。
リンスは恐る恐るカイエの顔を見た。
そして、彼女は凍りついた。
胸の奥で、彼女を温めていたものが一瞬で凍りついた。
彼が見ていた。
カイエが彼女を見ていた。
責めているわけではない。怒りは見えない。
勿論、蔑みなどでもない。
ただ、彼は捜していた。彼女の顔にあるものを探していた。
希望か。諦念か。
そしてカイエは既に見つけていた。隠すことさえ、誤魔化すことさえ出来ないまま、リンスはカイエに絶望を示してしまっていた。
何を言うべきだろう。
言い訳?
慰め?
それとも話題を変えて、冗談のひとつも言ってみる?
言えるはずがない。
彼は華々しい存在ではなかった。
真面目だったけど、華々しさとはほとんど無縁だった。
その彼がひとつだけ譲らなかったもの。ひとつだけ、彼が心から望んだこと。大勢の人から笑われ、宮廷からは不可能と決め付けられ、それでも彼だけが信じ、努力し、戦ってきた。
彼の。
唯一の望み。
リンスはそれをずっと見てきた。
そのはずなのに。
その夢を叶えたいと望んでいた。彼の夢を一緒に信じ、応援したいと思っていた。
それなのに。
ちくしょう。
自己嫌悪で胸が潰れそうだった。
今まで自分は何をしていたのだろう。
どうして、こんな動きを察知できなかったのか。
正式な手続きに入る前なら、駄々をこねる意味もあった。娘に甘い父親なら、彼女の言葉に耳を傾けてくれたかもしれない。しかし、もう遅い。すべてが手遅れだ。
彼女はカイエを手伝っているつもりだった。彼を応援しているつもりだった。
そうして、彼女は毎日父親に、国王と会話していた。昨夜も話した。
毎日ではなかったけれどガーブスターとも会話していた。
そして、彼女がカイエを応援していると自己満足に浸っている間に、自分こそ彼の唯一の理解者なのだと自惚れている間に、彼女の目の前でカイエのたったひとつの夢を潰す手続きが進行していた。彼女はそれに気づきもしなかった。その手続きを進める人々と毎日のように顔を合わせながら。
彼を手伝う?
彼の望みはなんだ。
彼が彼女に望み、彼女にしか出来ないことって何だ。
何だったのだ。
「……ごめん、カイエ」
その震える自分の声をリンスは憎んだ。
涙ぐみ、哀れみを請うような泣き声を彼女は心の底から憎んだ。
役立たずな自分を殴りたいほど憎んだ。
翌日から、彼女は王室で駄々をこねた。激怒し、怒鳴った。宮廷占星術師の不明を責め、父親の不甲斐なさを詰った。
何もなすところはなかった。ただ一人の一般の少年に入れ込んで、度を過ぎた怒りを爆発させたという不名誉を蒙っただけだった。
四日目の朝。
あっというまに過ぎた無為な時間を、リンスは思った。
逃げるわけにはいかなかった。
だから、彼女はその小屋の前に立った。
役人たちが機体をバラバラにする。きっと、彼には解体できないから。そして、泣き喚く彼の前で、書類を焼き、彼の小屋を取り壊す。
そのとき、どれほど辛くても彼のそばにいてやたかった。役立たずのままでも。彼の憎悪の対象でも。
すでに役人たちが集まってきている。
彼らの視線に串刺しになりながら、彼らの間を割り、リンスは小屋へと近づく。扉を開け、すばやくその中へと滑り込んだ。
「おはようございます」
カイエは笑っていた。
その手には工具が握られている。
「……何をしているの?」
「難しいのは垂直離陸のほうなんですよ。この方が力の伝え方が容易で、飛行は確実です」
「そうじゃなくて」
「大丈夫。自信はあります」
そうじゃなくて。
怒鳴りそうになる声を押さえつける。
カイエの笑顔を見る。彼の汚れた手と服を見る。
彼の背後にある飛行機を見る。
「自分で何をしているか、わかってるの」
「わかってますよ」
そう言いながら、彼はボルトを締めていた。
つい数日前はなかった板が機体の両脇に折りたたまれている。あるいはこれをのばすのであれば、鳥の翼のようになるのかもしれない。では、これは羽ばたくのだろうか。
羽ばたくはずがない。
これは解体処分にされなければならない機体だ。羽ばたくことなどあり得ない。
「すみません」
不意に影がさしたように、彼の表情から明るさが消える。不安と、失意と、少しの怯え。
「宮殿の命令に従えません。リンス様の力を借りているのに」
力なんて貸してない。
役立たずであることを曝しただけだ。
いろいろなことが胸にあった。
怒りがあり、正義感がある。恐怖がある。ガーブスターの言いなりになってしまう父親に対する反発心もある。でも、もっと柔らかく暖かい、熱い感情もある。
そのすべてに身を任せ、リンスは足を前へ踏み出す。足にからみつくものがある。王女としての義務。若い女性としての嗜み。それらを蹴り払い、彼女は更に前に出る。
「リンス様、そろそろよろしいですか?」
小屋の外から遠慮がちに、しかし容赦のない声が問いかけた。
これ以上前に出ると元に戻れなくなる。そう思いながら、更に足を踏み出す。
戸惑う彼の顔を目の前に見ながら、最後の一歩を踏み出し、彼の首に手を回す。そしてリンスはカイエの唇に自分の唇を押し付けた。
小屋の扉が開くのと、「キノコ」が飛び出すのは同時だった。
役人たちが、慌てて左右に散る。
その中に知っているいくつもの顔を見た。王女命令で取り付けさせた補助席でペダルを漕ぎながら、ごめん、とリンスは心の中で謝った。
これはきのことは違う。前回のものとは速度が明らかに異なっている。
きのこの傘のように上部にあった回転翼は、期待の一番後ろに取り付けられている。風は下へは吹かない。機体を持ち上げるべき風が、下へは吹き付けない。すべての風は後ろへと吹きつける。
ペダルを踏む。
ひたすら踏む。
加速する。どんどん加速する。
前からの風が強くなる。
目を開けていらなくなるくらい。
でも、ペダルを踏む。ひたすら踏む。
そして、ひたすら加速する。
そして。
カイエの手がレバーを跳ね上げる。
リンスの知らない機構が動き、折りたたまれていた板が伸びる。リンスの知らない翼が伸びる。
翼。そう。それは翼だった。
羽ばたかない。上下しない。
断面を見れば緩やかな弧を描いている。板ともいえない。ただ左右に水平に伸びただけの。そして回転翼もついていない、ただの曲がった板切れのような、けれど紛れもない翼だった。
そして傘は。
最大の回転翼は、リンスの後方で風切音を響かせている。その風は後ろへと吹き、機体を前方に、ひたすら前進させていた。
助走。
回転翼が馬が走るよりも早く機体を前進させる、これほどの速度になると風は壁のようだった。塊のような空気が前方からぶつかってくる。
よくやくリンスにもこの機体の意味がわかった。
風が両翼に当たり、その翼に切られて悲鳴を上げている。翼の上下を走る風が翼で上下に二分される。そしてこの翼の弧を描いた断面が、どういう理屈かわからないけれど機体を上へと持ち上げるのだ。
確かにこれは飛行機だった。
「いいですか?」
カイエが訊く。
いい?何が。
今、自分が捨てようとしているものを思った。変えようとしているものを思った。
「うん。行こう」
勝手に返事が口をついた。天秤にのった様々なものを理性が判断するよりも早く。
そのことが嬉しかった。
彼女は顎を引き、風が吹き付けてくる方向を見据えると、機体が浮き上がるのを感じながら、ペダルを踏む足に更に力をこめた。
拙作を読んでいただいてありがとうございます。
この話を投稿してから、三年ほど経ちます。何の変更もされずに放置されている完結した短編作品に時々アクセス数が増えてゆきます。
なぜだろう、と実は不思議に思っています。
(管理者による温情ですべての作品は定期的にアクセスが増えてゆく、なんてないですよね?ないと言って)
もしかして、他の方の作品と間違われたのでしょうか。
だとしたら、残念ですが、それでも来ていただけたことは嬉しいです。
ありがとうございました。
あるいは。
可能性は低いとわかっていますが。
この作品を読んでいただけたのでしょうか。
よろしければコメント、評価などいただけたら、更に嬉しいです。
もし、万が一後者であったとしたら。
この作品の長編版を作成中です。
今更期待されてもいないだろうし(ずっと何の評価もなされていませんでしたから)、改めて公開するほどの話でもない、と思うのですが(やはり短編版が一番の目玉の場面です)。
「すべての検索から除外する」の設定にしていますが、直接URLからゆくことができます。
まだ、書き始めたばかりです。
完成は遠く、完成しても、それほど壮大な話を予定してはいませんが、もし、興味を持っていただけて、読んでみていただけたら、嬉しいです。
長編版のアドレスは、
http://ncode.syosetu.com/n4491bi/
です。
この話に興味を持っていただけたのにせよ。
間違えてこのページに迷い込まれたのにせよ。
ここまで読んでいただけてありがとうございました。