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【書籍化】魯鈍の人(ロドンノヒト) ~信長の弟、信秀の十男と言われて~  作者: 牛一(ドン)
第3章 『引き籠りニート希望の戦国宰相、ごろごろ目指して爆走中!?』
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94.本能寺の変?(3)〔時は今 天が下しる五月哉〕

〔永禄5年(1562年)3月28日~30日〕

光秀(みつひで)は新右衛門さん (蜷川-親世(にながわ-ちかよ))と別れると京の西に当たる嵯峨嵐山に入り、清滝川(きよたきがわ)の上流の渡猿橋(とえんきょう)を素通りすると愛宕山(あたごやま)を目指した。

渡猿橋(とえんきょう)は推古帝 (600年頃)の御世からあると言われている橋であり、三十余丈の渡り橋は何度も掛け直されているであろう。

渡猿橋(とえんきょう)を渡ると表参道の赤い鳥居の先に愛宕神社(あたごじんじゃ)の表参道が続き、助け水、大杉大神、水尾別れと続くが、光秀(みつひで)は橋を渡らずに進んだ。


秋の紅葉が美しく、若葉が青々と伸びていた。

そして、先にあった金鈴橋(きんれいきょう)を渡った。

橋とは名ばかりの縄橋であり、足場板も敷いておらず来る者を拒んでいるらしい。

こちらは参道ではなく、修験者の道であった。

堂承川(どうしょうがわ)に沿って空也(くうや)の滝へ続く、俗世を離れた壮大で美しい景色が広がるが、それを楽しむ余裕はなかっただろう。


山道を登って行くと巨岩・奇岩がごろごろと見えてくる。

八大竜王(はちだいりゅうおう)扁額(へんがく)がかかった鳥居をくぐる頃には辺りはとっぷりと日が暮れていた。

新月に近く闇夜が覆い尽くし、深淵の闇が光秀(みつひで)を包んでいた。

薄暗い山林の中では猶更だ。

提灯の灯を付け、足元を照らす光を頼りに登って行くと、巨大な岩塊(がんかい)が顔を出した。

とても大きな岩だ。

修験者達の神域である事を告げていた。

光秀(みつひで)の横に黒い影が憑りついた。


天狗(あまきつね)か」

「はい」

「首尾はどうだ」

「滞りなく」

「殺ったのか?」

「いいえ、我らで足止めをしております」

「そうか助かった」


天狗(あまきつね)は殺したとは言わなかった。

幕府の伊賀者を始末すれば、愛宕山(あたごやま)の修験者に謀反人の(とが)が掛けられる。

光秀(みつひで)の許可で幕府を敵にするほど愚かではなかった。

誤って殺ってしまえば、天狗(あまきつね)も後に引き返せなくなる。

光秀(みつひで)はそれを期待して問い直したのだろうか?


ここは幕府も認めている聖域だ。

彼らは『立ち入り禁止』と追い返すに留めた。

あくまでも光秀(みつひで)に加担するのは、丹波をまとめる総括の奉公衆だからだ。

天狗(あまきつね)らは上杉-謙信(うえすぎ-けんしん)の武と光秀(みつひで)の知略に痛め付けられて、二度と逆らわないと盟約を交わした。

光秀(みつひで)に逆らう事がどれほど恐ろしいかを身を持って体験させられた。

同じ過ちは犯したくない。

また、光秀(みつひで)はその盟約を守って、愛宕山(あたごやま)周辺を神域として修験者に残してくれた恩もあった。

愛宕山(あたごやま)天狗(あまきつね)はその盟約に従っているのみであった。

光秀(みつひで)はそれで十分だと諦めたようだった。


追っ手は京都所司代(きょうとしょしだい)村井-貞勝(むらい-さだかつ)の手の者であった。

山崎の関所の番人は騙せても京都所司代(きょうとしょしだい)配下の伊賀者を騙せるとは光秀(みつひで)も最初から思っていなかった。

幕府の重要人物の顔を覚えていないようでは京守護の裏番は勤められない。

その為に新右衛門さんを使って村井-貞勝(むらい-さだかつ)へ言伝を頼んだ。

光秀(みつひで)が俺の命で京に戻って来た事という嘘を知らせる為だ。

だが、ここから先を見張られるのは都合が悪かった。

丹波勢の準備が整っているという事実を知られるのはできるだけ遅い方が良かったのだ。

天狗(あまきつね)は伊賀者を追い返してくれた。

予定通りであったのだろう。

光秀(みつひで)はさらに登り、月輪寺(がつりんじ)に到着する頃には日付が変わっていた。


 ◇◇◇


月輪寺(がつりんじ)では、斎藤-利三(さいとう-としみつ)が数人の兵を連れて待っていた。

光秀(みつひで)がわずかに頭を下げた。


「ご苦労であった」

「これくらいの苦労は苦労の内に入りません」


光秀(みつひで)月輪寺(がつりんじ)の御堂を借りて休息する事にした。

光秀(みつひで)は仮眠を取った。

横になるとすぐに寝息を立てた。

辺りが少し明るくなっと、のそりと起き上がると小便に行った。

後ろから利三(としみつ)が付いて来た。

二人で並んで朝日が出る方の岩に登った。

いちもつを並べて、光秀(みつひで)が話し掛けた。


「すまんな。貧乏くじを引かせた」

「何をおっしゃいます。初めからでございませんか」

「初めからか?」

「初めからでございます。自分でも不器用な方に惚れてしまったと呆れております」

「儂は不器用か」

「不器用でございますな。その気になれば、天下を望める逸材と思っておりましたのに、どうしてこうなってしまったのか」

「すまんな」

信照(のぶてる)様の意向に従っておれば、将軍の補佐として重宝されたでしょう」

「・・・・・・・・・・・・駄目だ。儂の本意ではない」

「そうですか。では、仕方ございません。よろしいではないですか。最後に天下人と知恵比べとは贅沢な趣向でございます」

「勝てると思うか」

光秀(みつひで)様が負ける所など、想像も付きません」


利三(としみつ)は京を去る前に妻を離縁して、息子も兄の養子に出した。

改めて幕府に仕え、黒井城を頂くと近くの豪族の娘と再婚し、息子を戻す事も復縁する事もなかった。

何某かの覚悟を持っていたとしか思えない。


何故、利三(としみつ)光秀(みつひで)に従ったのかは謎だ。

思い当たるのは1つだ。

利三(としみつ)も頑固者であり、自分より阿呆な主人に仕える気がなかったようだ。


『あふ夜は誰も恥かはすへき』


恋人に会うのに気兼ねがいるのものですかと、利三(としみつ)は体を震わせならが歌を詠んだ。


『ひとつ心にましはりの中』


俺とお前の心は1つだ。

心ゆくまでいちゃいちゃしようぜ。

光秀(みつひで)がそう返す。


その返事が利三(としみつ)は嬉しかった。

裁きの時に俺にそう語った。

だが、じょろじょろと二人は朝日に向かっての連れションをしながらだ。

なんとも様にならない光景に思えた。


 ◇◇◇


日が顔を出す頃に愛宕神社(あたごじんじゃ)を参拝し、必勝祈願を行った。

そして、おみくじを引くと、


『凶』


光秀(みつひで)は冷や汗を搔きながらもう一度引くと、


『凶』


神である信照(のぶてる)はすべてを察しているのではないかという予感が襲う。

そんなハズはない。

首を振って、もう一度引いた。


『大吉』


それを見て、ほっと息は吐く。

凶、凶、大吉。

どこまでも光秀(みつひで)の心の(もや)は晴れなかったという。


「誰かおるか?」

「我ら、控えております」

行重(ゆきしげ)重仲(しげなか)か」

「はい」

「村雲党から連絡はないか? 周辺で異常は?」

「何も報告は入っておりません」

「そうか」


光秀(みつひで)は目を見開くと一気に山を下り始めた。

黒門を通過して水尾別れまで下りる。

ここから北の神明峠(しんめいとうげ)を越える街道と高瀬山の麓を進む山道に分かれる。

もちろん、そのまま参道を下って渡猿橋(とえんきょう)に戻る道もある。


光秀(みつひで)は高瀬山の麓を進む山道を選んだ。

土用の冷泉から保津城へ向かう峠がある。

後に『明智越え』(標高363m)と呼ばれる峠道だ。


昼頃に保津城脇を通り過ぎると、夕方前に軍が集結する余部城(あまるべじょう)に入った。

光秀(みつひで)は幕府より亀山 (亀岡)の地を賜った。

余部城(あまるべじょう)の城主だった中沢元綱(兵庫頭)を、そのまま城代として任せた。

(※ 亀山城はまだ築城されておりません)

城の周辺には八千人の兵が集結中であった。

八木城の内藤-永貞(ないとう-ながさだ)の所にも5千人の兵を集めている最中であったが、松永-長頼(まつなが-ながより)が疑問を抱いて遅延工作をしていた。

光秀(みつひで)は俺の命令だと念を押すと、桂離宮橋を越えて京で合流するように申し付けるに止め、内藤の丹波軍を戦力外と決めた。

光秀(みつひで)はすでに集まっている武将を城に入れて軍議を行った。


「太閤様より不忠者の討伐をお受け賜った。敵は大物ゆえに取り逃がす事は相ならん」

「敵はどなたでございますか?」

「今はまだ言えん。だが、相応の大物ゆえに気を抜くな。各々方は指示に従って渡月橋(とげつきょう)で再度合流する。遅れるな」


武将らは大物と聞いて、管領や兄上 (信長)の側近衆を思い浮かべた。

最近、『これからは信長(のぶなが)様の天下だ』と声を荒げて、太閤派を自称する者と争うようになっていたからだ。


念の為に言っておくが、太閤派には右筆も中小姓もいない。

兄上 (信長)の側近衆を育成しているのは彼らであり、俺の命で俺の理想と摺り合わせながら『兄上 (信長)の天下』を作っている。

俺を擁護して声を荒げているのは、『太閤派』を自称する没落派だ。


 ◇◇◇


夜の内に丹波勢が出陣した。

山陰街道は亀山で篠山街道、摂丹街道が合流して京の三条大橋へと続く。

光秀(みつひで)は軍を二つに分けた。

本隊六千人は山陰街道を通り、残り二千人は『明智越え』で愛宕(あたご)を経由し、渡月橋(とげつきょう)付近で合流するとした。


丹波勢本体は30日の早朝に老ノ坂峠(おいのさかとうげ)まで軍は進み、ここで軍をさらに二つに分けた。

もう1つの道は唐櫃(からと)越えの山道であった。

つまり、『山陰街道』、『唐櫃(からと)越え』、『明智越え』の3つに分けたのだ。

大軍が動いているように見せない為の偽装だ。

また、どこかで邪魔が入っても、最低の兵が京に攻められるようにする為だった。

丹波勢の先頭が渡月橋(とげつきょう)に到着したのは昼過ぎであった。


京都所司代(きょうとしょしだい)村井-貞勝(むらい-さだかつ)は丹波勢が近づくのを知ったのも昼過ぎであった。

兄上 (信長)に知らせようとしたが、すでに『本能寺の茶会』は始まっていた。

余程の事がない限り、取り次ぎはできないと断られた。


「丹波の監視はどうなっておる」


貞勝(さだかつ)が怒鳴ったが、それでどうなる訳でもない。

丹波勢が動くのが早過ぎると勘ぐった。

集合に半日、準備に半日。

光秀(みつひで)が丹波に入ったのは、どんなに早く見積もっても29日の早朝であり、30日に早朝に丹波を出発したとしても驚異的な早さであった。

これは最速だ。

普通に考えると5月2日くらいに戻って来ると予想していた。

三日も早い。

対して、丹波の伊賀衆と村雲党のいずれからも連絡が来ていないのだ。

昨日から報連相(ほうれんそう)(報告・連絡・相談)が機能していない事に気が付いた。

可怪しい。

貞勝(さだかつ)の中で光秀(みつひで)に疑惑が掛かった。


この光秀(みつひで)が詠んだという『時は今 天が下しる五月哉』が詠まれていない。

今はまだ3月だった。

この句を詠むには2ヶ月ほど早かった。

今回は丹波入りの話です。

明智越えなんて呼ばれているのですね。

調べるまで知りませんでした。

これは1度行ってみないといけません。

行けば、新しい発見があるかもしれません。

次いで愛宕神社も参拝しますか。


これから暑くなるので大阪から日帰りで行くのは微妙にしんどい季節になりますね。

清滝川は紅葉が綺麗なので秋の方が風流かな?

それとも6月中旬がいいのかな?

それはまた暑そうだな。

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― 新着の感想 ―
[一言] 流石にくどすぎてつまんないです。 マイナー武将のことを無理やり出す意味ないと思いますが。
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