92.本能寺の変?(1)〔明智光秀の謀略〕
〔永禄5年(1562年)3月26日~28日〕
26日に南光坊は大輪田泊(福原)に到着し、定期便の連絡船から降り立った。
「申し訳ございませんが、こちらにお願いします」
「承知しております」
南光坊らは1つの津屋(問屋)に連れて行かれる。
津屋とは、荷物を取り扱う家の事だ。
その中で働く者を問丸と言う。
平安時代は荘園領主の者が管理していたが、鎌倉時代になると独立して商家の中継ぎ業のような卸業を始めた。
織田政権に変わると問丸は役人に昇格させられて税関となり、税の徴収、商品の通関、密輸の取り締まり、荷の保管場所の管理が加わった。
船で運ばれてくる商品はすべて他国の物であり、通行税が掛かる。
但し、現金や現物ではなく、送り出した商家などに後で請求されるので数を確認するだけに終わる。
故に問丸に証明書を提示し、数の確認が終わらないと通過できない。
人の場合も同様であり、関所の代わりとなっていた。
関所を通るには通行手形がいる。
加えて南光坊は定期便に乗っていたので搭乗手形も提出せねばならない。
「こちらが名護屋府の手形でございます。こちらは白毫寺の通行手形でございます」
「うん、特に問題なし」
「ご苦労様でございます」
「行って良し」
通行税は特に要らないが、手間賃の5文を置くのが礼儀となっていた。
名護屋から京まで、厳島、鞆ノ浦、大輪田泊、山崎の関を通るので合計20文も掛かる。
役人らは俸禄を貰っているが余り高くないので、小遣い稼ぎのお目溢しとして許されていた。
だが、必ず5文を払う必要はない。
その5文を払わないと最後に回されて、手形に書かれている人相書きに従ってホクロの位置などをきっちりと調べられ、荷改めを受ける事になる。
面倒な者は5文を払った。
南光坊も払ったと記録されていた。
さて、津屋を出ると南光坊に体を寄せて若い女が迫った。
宿屋の呼び込みだ。
大抵、まだ若く客を取らない見習いが客引きをする。
あるいは、言葉が巧みな者が声を掛ける。
湊の宿屋はささやかな遊郭を兼ねており、ご希望の客には遊女を宛がう。
そんな遊女の館は大抵が裏織田家の資金で建てられ、織田家の情報網を支えている。
どこの湊も取り締まりが甘い。
偶に美人局もあるので要注意だ。
「お坊さん、遊んでいかんかね」
「結構だ」
「つれない事いわんと」
「失礼する」
「ケチ!?」
特に定期便を使える者は銭と身元が確かなので狙われる。
腐れ坊主も多いので南光坊も狙われた。
中々のいい男。
上客と思ったのにつれなくされて気分を害し、遊女のような女が南光坊にあっかんべと舌を出した。
どこの宿屋も別料金を払うと遊女を呼んでくれる。
もちろん希望すれば、遊女だけでなく、男の若衆も呼んでくれる。
湊に付随する楽しみの1つだ。
だが、南光坊は鬱陶しいという顔で女を払っていたらしい。
興味がないならば、最初から答えずに払えばいいのに必ず二言・三言は女の声に付き合った。
織田家の草である遊女未満はそんな南光坊を見て奇妙な坊さんと思ったようだ。
“変な坊さんが降りて来た”
その日の記録に書かれていたが、それが幕府の重要人物の一人である光秀とは思わなかったので詳しく残っておらず、後で確認するまで知る由もない。
光秀は自分が手配した間者を探していたのだ。
忍びがよくやる仲間同志の合言葉であり、『山』と言えば、『川』と答えるよう。
光秀も合言葉を用意していたのだろう。
そして、気に入った呼び込み人に従って、とある宿屋に泊まった。
「光秀様、お久しゅうございます」
「広長、苦労を掛けたな」
「お役に立ててなりよりでございます」
その宿屋にはお抱えの猿楽師がおり、名を梅若-広長と言う。
梅若家は元々梅津を名乗っていたが、初代梅津友時から数えて28世の孫景久が紫宸殿で猿楽を舞い、深く感賞した後土御門天皇から『若』の一字を賜り、梅若の姓を名乗るようになったと言う。
こんな場末の船宿で芸を披露する者ではない。
だが、この広長は梅若家で勘当されて、ここで新しい主を探しているという体裁で働いていた。
今にして思えば、大嘘だ。
丹波で光秀に命を助けられた梅若家は、光秀の密偵として広長を差し出した。
大輪田泊(福原)の宿屋には上客が多く、広長が仕入れた情報が光秀に流れていたと思われる。
光秀も独自の情報網を作っていた。
「では、手紙を預からせて頂きます」
「よろしく頼む」
光秀から手紙を預かった広長は番所に行くと、荒木-行重、重仲に渡した。
この二人は波多野家の家臣である荒木-氏綱に命じられて番所に勤めていた。
氏綱は摂津守護代になった荒木-村重の叔父に当たり、村重の頼みで貸し出た忍びであった。
主に村重の手紙を運んでいた。
その村重の手紙を隠れ蓑にして、光秀の手紙を運んでいたのだ。
丹波の荒木一族は村雲党と呼ばれる忍びの一団だ。
蜷川-親世の紹介で帰蝶姉上もその忍び衆を雇っている。
それとは別の一派を光秀は波多野家ごと取り込んだ。
行重と重仲の二人は闇夜の中を疾走し、京にいる幕臣津田-重久と丹波黒井城の斎藤-利三に手紙を届けた。
津田-重久には、京で会っておくべき人の手配を頼み。
斎藤-利三には、兵の手配をさせた。
もちろん、兵が1日や2日で段取りできる訳もない。
だから、丹波奉公衆代官の兵が桂川の改修の為に桂川の上流にいたのは偶然ではなかったのだ。
京における桂川の氾濫を減らすのは急務であり、幕府は桂川の改修を急いだ。
光秀は京の近くに兵を置いておきたいという思惑で進めさせた。
名護屋に居ながら、俺の包囲網に掛からず、手紙だけで準備させた光秀の手腕に驚かされる。
27日、南光坊として風呂に入って疲れを落とし、ぐっすりと眠った。
翌朝に出発し、茨木の宿で一泊して28日の昼過ぎに京に入った。
ここで織田家の包囲網に掛かって光秀が京に来た事が知れた。
◇◇◇
〔永禄5年(1562年)3月28日〕
幕府政所執事代蜷川-親世こと『新右衛門さん』は幕臣津田-重久に頼まれてとある坊主と会う事になった。
だが、南光坊という坊主など聞いた事もない。
常日頃から世話になっている重久の頼みでなければ、急な申し出を断っていたと言う。
そして、入ってきた南光坊を見て目を丸くした。
「光秀殿、その頭はどうなされた?」
「やむごとなき事情がございます」
「それは只事ではございませんな」
「はい。去る22日。信照様が刺客に遭い申した。もちろん、ご無事でございます。只、その雇い主が厄介であり、その処分を命じられて戻って来ました」
「そ、そ、それは一大事ではないですか?」
「謀反人は上層部の者です。事が露見すれば、何が起こるか判りません。どうかご内密にお願い致します」
新右衛門さんは慌てふためく。
決して無能ではないが、すぐに人を頼る方だ。
俺が京にいると、事ある毎に訪ねている。
困った方だ。
唯、底抜けに裏表のない性格をしており、嘘が付けない。
光秀が新右衛門さんを選んだのはそこだろう。
まず、新右衛門さんを騙す事から始めた。
相手を騙す時に一番厄介なのは、本人が騙されている事を気づいていない場合だ。
本人は事実と思っているから性質が悪い。
光秀は懐から名護屋府の御印が押された命令書を取り出した。
親世を睨むように見る。
そこには“太閤が謀反人の処分を光秀に一任する”と書かれていた。
これだけで信じるから新右衛門さんはお人好しだ。
光秀は兄上 (信長)への報告を親世にお願いすると、自らは丹波に戻り兵を揃えてくると言う。
「事は重大でございます。光秀自身が信長様に訴えるべきでございます」
「それはできません。信長様に会うと某が京に戻って来ている事を敵に知らせる事になります。太閤様もそれは避けるように申されました」
「そうでございますか」
「只、京を騒がせる事になりますので、京都所司代の村井-貞勝殿と御所守護の中根-忠貞様にはお知らせ下さい」
「判りました」
新右衛門さんはすぐに兄上 (信長)に連絡を入れて会う段取りをすると、村井-貞勝と義兄上(中根-忠貞)に会いに行った。
二人とも驚いていたが新右衛門さんを信用しており、その言葉を疑うような事はしない。
唯、丹波勢がすぐに京に来た事で驚く事になる。
兄上 (信長)は余人を交えずに会いたいという新右衛門さんの要望に応えて、本能寺で密かに会見した。
兄上 (信長)は光秀の帰参に胡散臭さを感じた。
俺からの手紙にそんな報告が載っていない。
だが、兄上 (信長)は他の事で頭が一杯であり、丹波で兵を集めるのに3~4日掛かる事を思えば、帰って来た所で光秀と密会を用意すればいいと先送りした。
兄上 (信長)の中に自分が狙われているなどと言う自覚がまったくなかったからだ。
まぁ、それも半分は当然である。
兄上 (信長)を討っても天下は取れない。
反す刀で西院小泉御所の新公方を討ち取っても九州に俺がおり、蝦夷に信勝兄ぃがいる。
兄上 (信長)を討っても天下を取るなど無理なのだ。
だがしかし、俺の派閥で攘夷派と尊王派に分かれているくらいは知っているのだから、もう少し身辺に気を付けて欲しかった。
まぁ、そんな不注意さが戦場でも先陣を切る兄上 (信長)の気質なのだろう。
南光坊は要件のみ伝え終えるとすぐに京を出立していた。
阿多古神社(愛宕神社)を目指し、その阿多古神社の麓にある月輪寺に到着した頃には日付も変わって29日になっていた。




