91.太平之ねむけをさます、上喜撰。
〔永禄5年(1562年)3月28日〕
帆も張らずにもくもくと黒い煙を吐き出して、桜島が噴火した時のような噴煙を上げて錦江湾(鹿児島湾)に黒い船影を晒して入ってきた。
その真っ黒な船に内城の武将らが慌てた。
ゴトリゴトリと両側に付けられた大きな水車が回って内城へ近づいて来た。
当主に代わって薩摩を預かっていた嫡男の島津-義久の元に家臣がひっきりなしに現れて、どう対応するかを伺った。
茶会の邪魔をしたくないと思ったのか?
義久は海岸を兵で固め、船奉行に命じて要件を聞く先触れを送らせた。
『あれは味方の船でございます』
坊津から早馬が到着して味方の船と知れるまで慌ただしさが続いたそうだ。
そもそも真っ黒い船は織田家の船と考えなかったのだろうか。
織田家の船は漆を主成分とした樹脂加工しているのでどの船も黒い。
漆は古くから防水と防腐として漁船でも使われてきた。
しかも木と木をくっつける接着剤としても使われていたのだ。
漆は万能だった。
この漆樹脂を使えば、南蛮船のように海水を撒いて木の膨張で漏水を止める必要がない。
完全防水だ。
近づいてくる黒船に海岸に集まった兵が息を呑む。
ぐるぐると回る外輪を見て、帆も張らずに移動する異常さに驚いた。
義久も口をパクパクするだけで言葉がでない。
『えれい船がでけたな』
『まったくだ』
『黒か煙は桜島んごたっ』
『噴火すっとな』
『知らん』
『そこもとの兵士さん。聞いちょらんか』
『聞いておりもはん』
暢気に見物人が大勢やって来て、町の衆は呆気らかんとして肝が据わっている。
何も知らない薩摩の武将らがその対応に苦労しているみたいだ。
味方と知れたと言うのに次々と味方が応援に駆け付け、黒船の質問攻めで義久を始め、その側近らが困っているようだ。
また、茶会に参加した者らと一緒に出迎えに出て来たが、出迎えるというよりは黒船見たさについてきた感じだ。
ちらちらと俺の顔を見て質問したそうにしており、それを見て晴嗣が楽しそうに笑みを浮かべる。
また、ありもしない事を吹き込んでからかうつもりなのだろうか?
そんな雰囲気の中で織田家と北条家の者は涼しい顔だ。
織田家の新造艦の試験は伊豆諸島にある八丈島周辺で行っている。
最高機密が北条家にダダ漏れだ。
下手をすると北条家の上層部は織田家の家臣より機密に接している。
だから、織田家の横暴に対して『この北条家を愚弄するか!?』などとほざく者は誰もいない。
優越感に浸り同じモノを造るなどと考えるより、大きなハンマーで頭を殴られて常にマウントを取られている
織田家の力の片鱗を見る度に血の気が引いている感じだ。
『決して無茶を言ってはならんぞ。信照様に尽くすのだ』
それは妻の早川への手紙からも手に取るように判る。
俺を怒らせれば、その兵器の業火で焼かれるのは北条家だと知っている。
北条家が下手に出るのはその為だ。
その北条家の奉公が北畠家と山名家を刺激して争うように功を取り合った。
他の家も釣られて織田家に従う。
俺としては迷惑この上ないが、兄上 (信長)の治世を思えば悪くない。
兄上 (信長)を疎かにすると俺が怒ると早川を通じて北条家がよく知っているからだ。
俺と同じくらいに兄上 (信長)を立ててくれている。
試行船『日本丸』を停泊させると飛ぶように小型艇に降りてきたのは加藤-延隆だ。
延隆はボトルに入っていないボトル船を見て帆船の虜になったおっさんだ。
すでに父上(信秀)が亡くなった年を越えている。
それにしては元気な親父だ。
熊のような体格でぼさぼさ髪に無精髭を生やしている。
愛嬌があるが空気を読まない。
埠頭に飛び上がると俺の方に走ってくる。
「信照様。酷いではないですか。某を置いて戦場に向かうとは」
「文句ならば、敵に言え」
「夏までは戦にならんと言われたので動力を新しい物と換装し、試験航行に出たのですぞ」
「あの時点では、敵の兵力が揃っていないので来ないと予想したのだ」
「仕方ありません。然れど、遅ればせながら援軍に参りました」
「悪いな。すべて終わった」
「お、終わったと…………嘘でございましょう。魚雷も3本持ってきました」
「嘘ではない。すべて終わった」
「まさか!?」
「後は琉球成敗だけだ。帆船の出番はない」
ぬうぉぉぉぉぉ、延隆が『一生の不覚』と大声を出して天を仰いで大泣きをする。
一度完成した外輪船であったが出力が足りないと延隆が嘆いた。
そこで竹中-半兵衛が4気筒を16気筒に改良して、新しい動力として積み替えた。
動力を積み替えれば、再び試験をやり直すのは当然だ。
正月に八丈島に向けて出発し、食糧調達の為に小田原に寄った所で戦を知って急いでやってきた訳だ。
途中、尾張に寄ったのは消費した弾薬の補充だ。
そこで完成したばかりの魚雷をかっさらってやって来たと言う。
さて、身内の話が終わると、義久に紹介せねばなるまい。
集まってきた武将らが興味津々にこちらを見ている。
これはもう宴会の流れだ。
古今東西、武将が集まると宴会になるのは同じなのだ。
気の良い延隆は話し掛け易い。
延隆の『七つの海物語』が炸裂するのかと思うと気が重かった。
俺は延隆と感動的な出会いもしていないし、七つの海を共に駆け巡る約束もしていない。
延隆の中ではそうなっている。
始めは無尽蔵に銭を出してくれる良いスポンサーだったのだが、今となってはウザいだけだ。
だが、延隆なしに、今の織田水軍はない。
恩義だけはある。
そのまま宴会への流れだったが、伊作城の早馬と一緒に加藤-三郎左衛門がやって来た。
名護屋城で丹羽-長秀の補佐をしながら情報収拾を担当していたハズだったが…………珍しく情けない顔を晒し、会うとその場で平伏した。
「この三郎左衛門。一生の不覚でございます」
「何があった?」
「明智-光秀の脱走を許してしまいました」
「いつだ!?」
「脱走そのものは信照様が出航された23日でございます。光秀は鎮西の龍泉寺に入り、ここに来ていた天台宗五大山白毫寺の僧、南光坊を名乗り、翌24日の定期船に乗って京に向けて出発致しました」
龍泉寺(現、曹洞宗龍源寺)は名護屋御殿の建設で少し移動して貰った寺だ。
そこに丹波の寺から修行僧がやって来ていた。
それが天台宗の僧侶で南光坊と言う。
「南光坊が来た記録はございましたが、龍泉寺の僧も存在を知らず。一切の活動した形勢がございませんでした」
「白毫寺は丹波制圧の際に焼き尽くされた寺の1つであったな」
「焼き尽くした後に復興に力を貸しております。今は黒井城の斉藤-利三の支援を受けております」
繋がった。
利三は光秀の腹心中の腹心であり、その傘下の白毫寺から僧を送らせる。
龍泉寺の住職を買収して、僧が来た事にしておく。
丹波守護代の内藤-永貞の通行書と、名護屋奉公衆が発行した定期船使用書があれば、誰も疑わない。
通行証は光秀が他の者の名前で発行させていたらしい。
脱出の為に影武者ならぬ影僧侶を準備していた。
用意周到な奴だ。
「見張りはどうした?」
「光秀に垂らし込まれておりました。某が名護屋に滞在していながら、気づくのが遅れてしまいました。本当に申し訳ございません」
「気にするな。始めから判っていた事だ」
「ですが…………」
「説得できなかった奴らには申し訳ない事をしたと思っておる」
織田家には、俺が夷狄を積極的に払うべきだと言う攘夷派と朝廷と共に君臨すべきと言う尊王派に分かれている。
多分に漏れず、俺の愚連隊も二派に分かれている。
どちらも俺に忠義を持ってくれている。
俺は彼らに共に南海に行ってくれと頼んだ。
三郎左衛門も協力してくれている。
厄介な事にはねっ返りもおり、命令を無視して強行しそうな者らを排除した。
申し訳ないと思っている。
他の者はそれでも納得してくれていると思っていた。
今も攘夷派と尊王派に分かれた儘ではあり、表面的には俺の命令に従っているのは承知している。
だがしかし、まだ執権信長の台頭に不満を持つ者は少なからずいる。
『太閤様の功績をすべて我が物にしようと企んでおります』
『いずれは太閤様を亡き者にしようとするハズです』
『逆臣信長を信じてはなりません』
そういう連中は色々と調べて俺に報告してくれる。
兄上 (信長)が俺と方針がまったく同じ訳ではないし、自分で考える能力があるから任せられる。
傀儡のようでは任せられない。
仏教徒の存続を許し、恭順した宗派に援助する信長の行為は光秀にとって裏切りでしかない。
禅宗、天台宗、浄土宗、日蓮宗は従うようになった。
キリスト教も今回で終わりだ。
そうなると後は高野山の真言宗のみである。
そこで兄上 (信長)は戸籍を各寺が持つように推進するつもりだ。
幕府に従って村人の戸籍を寺が管理する。
幕府に従わなければ、真言宗はすべての門徒を失う事になる。
血を一滴も流さずに真言宗を取り込むつもりだ。
だが、これは永久に寺を存続させる事に繋がる。
神道派の光秀にとって許せない。
戸籍はすべて神社で管理するべきだと反対した。
光秀が名護屋に左遷された理由の1つだ。
「光秀は丹波・丹後・若狭の奉公衆代官の目付役をしております」
「普通に考えると、兄上 (信長)の許可なしで兵を動かせぬハズだが…………」
「兵を動かせと命令すれば、丹後・若狭の奉公衆代官は信長に報告するでしょう。しかし、丹波は上杉-謙信と共に平定した事で、光秀の子飼いの者が城主や奉公衆代官になっております」
「あの時は丹波を押さえるには都合が良かった。兄上 (信長)の判断が間違っていたとは思わぬ」
「某も同意しますが、今回に限っては拙うございます」
光秀の命令1つで最低5,000人の兵が動く。
その奉公衆代官の補佐に斉藤-利三がいる。
「光秀は今どこだと思うか?」
24日に名護屋湊を出航し、25日に厳島、26日に鞆ノ浦、27日に大輪田泊(福原)、今日 (28日)にも京に入ったと思われると言う。
風は強かったが天候は悪くなった。
俺もそう思う。
「明日は丹波に入り兵を集め…………」
「30日か?」
「若様。どういたしますか?」
「ここからは運次第だな」
「魯兄者。わらわが光秀の首を取って来るのじゃ」
俺は首を横に振った。
光秀に下手な温情を掛けた俺の責任だ。
自分の始末は自分でする。
「秀吉。水軍の権限をすべて移譲する。琉球の差配はすべて其方に託す」
「魯兄者!?」
「お市。勝手をした罰だ。しばらく名護屋で大人しくしておれ」
「そんなの嫌じゃ」
不満そうなお市を無視して輝ノ介を見ると不敵に酒を呑んでいた。
「輝ノ介。すべては其方の始めた事だ。名護屋の始末は付けて貰う」
「承知している」
「今回の罰として、名護屋の始末と美麗島(台湾)侵攻の参加不可だ」
「本気か!?」
「呂宋討伐まで取り上げるつもりはない。だが、討伐が来年になるか、再来年になるかは名護屋次第だ」
輝ノ介が渋い顔をした。
内政が苦手なので輝ノ介には一番の罰になる。
「慶次、暇であろう。奪取したキャラック艦3隻を貸し与える。準備が出来次第、アユタヤ総督として赴任して貰う」
「待て、それに準備とは何だ?」
「三好三人衆や尼子衆、長宗我部らに褒美の土地を与えねばならん。あいつらは銭では納得せんからな。だが、九州に置いておくと騒動を起こす。褒美のお返しとしてアユタヤ王への援軍として働いて貰う。今回の戦では暴れ足りんであろう。連れて行って好きなだけ暴れさせろ」
「無茶な事を言うな。位が逆になる」
「安心しろ。初めから知多小守護代であったとすれば良い。銭洗浄ならぬ位洗浄だ。総督に加えて、俺が貰った征南将軍と武家官位だが従四位下右近衛中将も付けてやる」
「要らん」
「決定だ。あいつらを暴れさせて来い。好きなだけ酒は送ってやる」
暇な慶次を使わないと任せる奴がいない。
言うだけ言うと、俺は試行船『日本丸』に乗り込んだ。
◇◇◇
〔永禄5年(1562年)3月29日夜中〕
出航してごろごろと過ごした。
早く寝過ぎたのか、眠りが浅かったのか?
夜中に太平洋上で目が覚めた。
ガタガタとあり得ないほど動力音が五月蠅い。
外に出ると外輪が全開で回っており、帆も目一杯に張って日本丸は爆走していた。
やや緩い横風だが悪くない。
時化よりマシだ。
気が付くと千代女と三郎左衛門が控えていた。
俺は黙って星空を見上げる。
そこに延隆が茶を持って現れた。
「御三方。茶でも飲みませんか?」
「あぁ、頂こう」
「頂きます」
「忝い」
ジョッキのような取っ手が付いた木茶碗であった。
ティーカップより少し深く、持ちやすくなって茶が零れない。
お茶は満タンではなく、半分くらいで注がれていた。
俺は香りを楽しみながら一口付けた。
「美味い」
「今年の上喜撰です」
「よく手に入ったな」
「信照様の援軍に向うと言うと、大喜の妖怪爺が押し付けてきました」
「大爺か」
大爺とは大喜五郎丸であり、大喜一族の当主で茶道楽の老人だ。
祖父の大喜嘉平と一緒に俺を可愛がってくれた。
桜焼きや緑茶の出資者でもある。
上喜撰とは、茶の中でも厳選された上等な茶を差す。
新鮮で泡立ちが良く、上品なまろやかな味わいが残る。
「もう一杯如何ですか?」
「遠慮しておこう。四杯も飲めば、眠れなくなりそうだ」
「がははは、確かに」
延隆が豪快に笑った。
何が確かにだ?
たった四杯、太平洋上で目を覚ますか?
まさかな。
延隆が知る訳もない。
「妖怪爺が堺に来た南蛮人に茶道を教えて、一杯を金貨一枚で売り付けると意気込んでおりました」
「俺は金貨3枚を飲んだのか?」
「抹茶の価格ですから、そこまでしませんが金貨一枚は飲んだ事になりますな」
「高い茶だな」
「がははは、まったくでございます。茶道楽も極まっておりますな」
初茶はどこでも高くなるが上喜撰となると、さらに高い。
今年は出来が良かったのか、値段が天井知らずに上がっていたようだ。
あのポルトガル商人らが買えるのだろうか?
彼らも値段を聞いただけで眠れなくなりそうな気がした。
◇◇◇
〔永禄5年(1562年)3月29日夕方〕
試行船『日本丸』は頑張った。
こんな走らせて大丈夫かと思うくらいに石炭を投下してボイラーを沸かし続けた。
そのお蔭で夕方には紀淡海峡を通過した。
堺まであと少しだ。
薩摩から堺まで500kmはある。
薩摩から紀伊に掛けて黒潮が流れており、風は横風の微風だった。
それでも2日の航程だ。
それを無視して、これほど早く到着できるとは思ってみなかった。
丸1日で走破した。
所要時間20時間。
つまり、平均14ノット (時速26km)と脅威の速度を叩き出した。
「がははは、新記録でございますな。試験では何度も記録しておりましたが、実際にこの長距離を走破したのは初めてです」
「八丈島でもその程度は走らせているだろう」
「確かに八丈島と大島の間を何度も走らせましたが、今回はその倍でございますぞ。12ノット (時速21km)が良い方ですな」
「それは凄いな」
「こいつが頑張りました。よく保ちましたな」
「保った?」
「流石、半兵衛殿が考えた新型の動力と感服しました。前の動力では5刻 (10時間)も焚くと今にも爆発しそうにぶるぶると動力が震えておりましたからな。がははは」
おい、笑い事じゃないぞ。
航行の途中で大爆発とか?
唯で済まない。
救助の連絡船は遥か後方に置き去りにしており、ここで海に放り出されたらどうなっていたか?
この能天気め。
「次の蒸気船はこれより速いと聞きます。楽しみですな」
「あの速度で走れる船はない」
「しかし、現に叩き出しておりましたぞ」
「あぁ、出たな」
「今から胸が弾けそうです」
外輪船は試験では確かに14ノット (時速26km)を記録している。
試験というのは100間 (181m)を何秒で通れるかというモノだ。
長距離ではない。
風と黒潮の助けがあったがそれでも凄い。
そして、延隆が言う蒸気船は外輪船の事ではない。
さくら達が試乗した小型の機関船 (スクリュー船)は26ノット (時速47km)を叩き出していた。
それは小型艇が出した速度だ。
戦艦や貨物船では、大砲や食糧や荷物を載せるので、そんな速度は出ない。
延隆も判っているが期待してしまうのだろう。
それはともかく、同条件で造られた小型外輪船ではそんな速度を出せなかった。
また、試験時に流れてきた流木で外輪が破損した事もある。
次期、試行船は機関船 (スクリュー船)に軍配が上がっていた。
ただ、問題が1つある。
蒸気タービンは爆発魔なのだ。
機関船 (スクリュー船)の動力を気筒に積み替えろと言っているが、半兵衛が言う事を聞かない。
気筒動力にすれば、速度が落ちても安全度が上がる。
だが、蒸気タービンも安全が上がれば問題ないと言い張るのだ。
今回の気筒動力の改良は悪くなかった。
今回、20時間のフル稼働でも耐えた。
次の船体ができる迄に安全性が確保できないならば、16気筒の動力を積む事になる。
『もうじき堺湊だ。出力を落とせ』
延隆が声を上げた。
半兵衛と延隆が速度にこだわる。
必要か?
そもそも動力は向かい風か、無風の時しか使わない。
基本は帆船だ。
風で進む帆船は費用が掛からない。
狭い日の本、そんなに急いでどうする。
干しホタテや蝦夷昆布は魅力的だが贅沢品でしかない。
地元で生産されたものを地元で消費するのが基本だろう。
日々の牛乳や魚まで遠くから仕入れる必要はない。
堺に到着すると錨を降ろして外湾に停泊し、小型艇を降ろした。
「信照様、お急ぎ下さい」
「どうした顔が青いぞ」
「あははは、バレましたか」
「そわそわし過ぎだ」
???
延隆が俺達を急いで乗せた。
先を急ぐ俺はありがたいが…………。
堺の湊は大型船が泊まれる埠頭が少ないので湊の外に泊めるのは判るが、わざわざ外湾に泊める意味はない。
否、俺が戻ってきた事を隠すならば、外湾の方がいいか。
堺に入らない方が、情報が伝わらない。
商人に命じてこっそりと船から降りる必要もない。
念の為に俺と三郎左衛門は黒い頭巾を被っている。
しかし、延隆がそこまで気の利く性格とは思えない。
赤頭巾の千代女も首を横に振った。
どうやら千代女が命じた訳でもないらしい。
「何があった?」
「あははは、出力が落ちません。石炭の投下は止めております。接続の止め金を外しました。しかし、動力は最高出力を保った儘で動き続けております」
「まさか!?」
「動力には常に水を掛けさせておりますが先程から異常振動が起こり、皆を船尾に退避するように命じてきました」
「以前は収まったのだな」
「はい、このまま鎮静するのを…………」
延隆が沈静化するのを待つと言い掛けた時に、ズド~~~ンと後ろから大きな音がした。
小型艇は半ばまで進んでいたので俺達には影響はない。
だが、大砲が当たったように上部甲板を割って火の手が飛び出していた。
大爆発大炎上だ。
船尾から次々と水夫が海に飛び込んで行く。
俺は映画のワンシーンのように炎上する外輪船を背に堺湊近くの海岸に降り立った。
振り返って頭を下げた。
「よくぞ。ここまで連れて来てくれた。日本丸よ。感謝する」
再び、大きな爆発があった。
無理をさせ過ぎた。
ガタガタになっていた動力は俺達が船を降りるのを待ってくれたような気がした。
試行船『日本丸』は日の本で最初の外輪船であり、そして、最後の外輪船となる。
二つに割れてゆっくりと沈んで行く。
俺はその最後の勇姿を眺めてから、そこを後にした。
狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」
嘉永6年 (1853年)6月にペリー艦隊の黒船が横須賀・浦賀沖に来航したが、当時の江戸幕府の混乱ぶりを風刺した狂歌である。
(明治の捏造ではないかと言われたが、江戸時代の資料が見つかり、実際にあっの凶歌と判った)
“太平之ねむけをさます上喜撰 たった四はいて夜るもねられす”
地産地消:地元で生産されたものを地元で消費する。




