閑話.首里城炎上
(永禄5年 (1562年)3月28日)
25日昼、屋久島の南にある中之島の十村湊付近で寄航し、一時的に錨を降ろした。
同じ速度で付いて来ていた北条-氏康、宗哲、北畠-具教、織田-信実に集まって貰った。
帆船と違い関船は300石船と作りが同じで速度が出ない。
その上、小早を曳航しているので無茶な操舵もできない。
追い風という天候に恵まれても帆船の8割程度であった。
向かい風ならば、黒潮の流れに押し戻されるので湊で停泊する方がマシなくらいであった。
俺は作戦を中止し、織田水軍のみでイスパニア艦隊を追撃すると言った。
「お待ち下さい」
「我らも同行させて貰いたい」
「3隻は同行を許すが他は無理だ」
「ですが、それでは我らが駆け付けて来た意味がございません」
「おそらく、関船が到着する頃にはすべてが終わっておる。また、関船に合わせて、ここで足止めされる訳にいかん」
平戸へ戻ると言う事は向かい風を切り上がる事になる。
黒潮の流れが手伝ってわずかに進めるだろうが、関船では平戸に戻れるのに2日も掛かる。
つまり、イスパニア艦隊と平戸に残した平戸留守隊との衝突に間に合わなくなる。
「では、我々のみで琉球を目指すのはどうか?」
「信実叔父上、それは危険ではありませんか」
「危険でない戦などない。那覇湊に残っているイスパニアの船を落とすくらいは手伝わせてくれ」
「最悪、キャラック船10隻が残っているかもしれません。他のポルトガルの商船と倭寇のジャンク船も多く寄港している事でしょう」
大砲の性能は悪いが、どの船も大砲10門ほど、キャラック船ならば20門を備えている。
こちらは3隻で18門しかない。
4倍以上の艦数で四方から包囲されると勝ち目はない。
もちろん、ヒットアンドウェイで敵の射程に入らないで倒す事はできるが、その場合は後続の後詰が邪魔になる。
味方を守りながら敵を排除するには3隻では足りない。
「若様、こちらから5隻を割きますか? それならば互角以上に戦えると思います」
「そうするか」
「お待ち下さい。それは受けられません」
「駄目か?」
「援軍に来て本隊の数を割いては本末転倒でございます。信照様の船を割くくらいならば、玉砕して敵を沈めて見せましょう」
「よう言うた。氏康、それでこそ武家の棟梁だ」
具教も大きく頷き賛同した。
見栄っ張りが多すぎる。
イスパニア艦隊はこれ以上増える事はなく、こちらの帆船20隻が15隻に減っても大した事ではない。
こちらは足の速い船を揃えているので蝶のように舞い、蜂のように刺すだけだ。
俺はそう思って提案したが受け入れてくれなかった。
「若様。初めから数に入っていない坊津守備隊の帆船2隻をお貸ししてはどうでしょうか」
「それならば、文句もないであろう」
「数に入っておらぬならば、お借り致します」
千代女の機転で2隻を貸し付けた。
だが、まだ一手足りない。
俺は5隻のみで攻撃を掛けて、敵を沈黙させてから総攻撃の案を出したが首を横に振られた。
おそらく諸将が納得しないと言う。
俺もそう思った。
「敵が多すぎるならば、減らせば良いのです」
「官兵衛、策があるのか?」
「策というほどではありませんが、奇襲をせねば良いのではありませんか」
「あぁ、なるほど!?」
「信照様、何が『なるほど』でございますか?」
「奇襲ではなく、宣戦布告を行って攻めれば良い。然すれば、ポルトガルの商船と倭寇のジャンク船は戦禍を避けて、勝手に出航して行く」
「それでは琉球王に警戒されて上陸が難しくなりませんか?」
「官兵衛、説明してやれ」
「はい。宗哲様、そこは使者の話術です。これからイスパニアの船を攻めるとだけ言えばよろしい。那覇湊の戦闘を禁じた琉球王と正面から敵対する必要はありません。あちらも上陸してくるとは思っていないでしょう。ただ、イスパニアの船を攻めると言うだけです。それほど難しくありません」
「騙し討ちか?」
「騙してなどおりません。イスパニアに協力した時点で敵でございます。太閤様がそれにお怒りだと言えばよろしい」
「おぉ、信照様が言った『なるほど』とはそう言う意味でしたか」
「氏康様にはご理解頂けましたか」
「宗哲、具教、異存はないな」
「異存ござらん」
「それで構いません」
黒田-官兵衛の機転で算段がついた。
遅れて到着した山名-棟豊、島津-貴久、林-秀貞に使者を送って、作戦の変更を伝えた。
貴久には、名代を選出させて連絡船に乗せて先行させて宣戦布告の使者を送らせ、貸し与えた船長として棟豊と貴久が船を移った。
上陸船の総指揮は林-秀貞に代わり、突撃隊長の一番隊に肝付-兼続を置いた。
織田水軍の本隊はゆっくりと進路を西にとって琉球占領隊と別れた。
その日の夕方、悪石島の西の合流地点で琉球から戻った忍びを乗せた連絡船と西を巡回して来た連絡船と合流して敵の位置を予想した。
そして、イスパニア艦隊の出航の謎が解けた。
あの大時化の中で平戸の松浦党は幾人かの宣教師を乗せて脱出し、近くまで来ているであろうイスパニア艦隊と合流しようと試みた。
時化の海に飛び出すという無茶苦茶だ。
一行は漂流して密牙古(宮古島)の漁師に助けられ、回復してから那覇に入った。
その宣教師から北九州が平戸を残して平定された事を敵の提督達が知った。
キリシタンも餓死寸前であり、降伏すれば九州において味方がいなくなる。
それを知った。
平戸が陥落する前に到着せねばならない。
イスパニア艦隊が急いで出航したのだ。
そこから進路を変えて平戸を目指し、あの結末となったのだ。
◇◇◇
(永禄5年 (1562年)3月27日~3月28日)
琉球王国第二尚氏王統の第4代国王尚清王が嘉靖34年 (1555年)に亡くなると、第2王子だった尚元王が即位した。
第二尚氏王統の初代を尚円王という。
百姓から王になったと言う伝説を持つ。
尚円王は沖縄本島の北西部にある伊是名島の百姓の子として生まれ、島を出て琉球王国第一尚氏王統第6代の王となる越来王子の下に仕えるようになり、王子が王位に就くと側近として、その力を発揮した。
しかし、仕えた王が亡くなり、次期王となるハズの世継ぎは暴君だった。
彼は職を辞して隠居したが、暴君が他の家臣らから退位を求められ排除されると、多くの家臣らの求めに応じて尚円王になったと言う。
どう考えても出来過ぎた話だ。
腹黒い側近が無能な次期王の迂闊さを利用して悪評を広め、自らは隠居して無関係を装い、子飼いの家臣らに王を殺させて、次の王は貴方しかおりませんと担がせた。
そんなクーデターを自ら演出したと思える。
百姓の子としたのも赤龍王 (劉邦)を模したのだろうか?
1469年、86年前の事なので真相を知る者は残っていない。
尚元王はその曾孫となる。
中央集権体制で明や東南アジアにも広く交易を行って富を稼いだ一族である。
3月27日に島津-貴久の名代が那覇湊に到着し、明日の28日にイスパニアの船を攻撃すると宣言した。
尚元王はその一方的な申しように激怒したらしい。
「朕は那覇湊での戦いを許可せぬと申した筈だ」
「確かに。そうお聞き致しました」
「では、何故だ」
「果て!? 琉球王の命令を太閤殿下がお聞きになる必要はございますか? そのような命令をお聞きになられた太閤殿下は酷く御怒りになられました。使者を送って来て、頭を下げるべきではないかと言われたそうでございます」
「なぁ、何だと!?」
琉球の官僚らが慌て始めた。
以前の使者は薩摩の島津の者だったので許可しなかった。
琉球王は島津より格上なので当然だ。
しかし、それが太閤殿下に伝わった時点で太閤殿下への命令と変わった?
「お待ち下さい。我々は太閤殿下に命令した訳ではございません」
「某は伝令に過ぎません。どうか太閤殿下への申し開きはご自分でお願い致します」
「今からでは間に合わぬ」
「某の知る所ではございません。太閤殿下は琉球王より使者をお待ちでしたが、遂に現れず。イスパニア追討令を出されたのです」
「そのイスパニア艦隊は出航し、ここにはいない」
「先程承知しましたが、まず那覇湊のイスパニアの船を排除してから今後の事を決めさせて頂きます。ここで帰ってはお叱りを受けます」
琉球の官僚らは何とか押し留めようとしたが話は平行線に終わった。
この交渉に意味はない。
連絡船に乗せた水夫こそ、策の肝であった。
水夫は湊に降りて潜入している草 (忍び)と合流し、ポルトガルの商人や倭寇の者に明日にでも日の本が攻めて来る事を伝えるように命令を伝えた。
草 (忍び)は商人を装って商館や酒場などで噂を広める。
昼にはポルトガル商人らに伝わって、昼すぎから出航する船が増えた。
「これは契約違反ではないか?」
「契約に日の本と戦うとは書かれておりません。美麗島(台湾)に一時的に避難するだけでございます」
「われらも避難させて貰うよ」
「待て、それは困る」
「では、無理にでも止めますか?」
そんなやり取りがあったとか、なかったとか?
ポルトガル商船と倭寇のすべてを相手にしてイスパニアのキャラック船3隻では勝てる訳もなかった。
ポルトガル商船は美麗島(台湾)に、倭寇は隣の庇郎喇(宮古島)か、八重爺馬(石垣島を含む八重山諸島)に避難するらしい。
逃げ出さなかったのは琉球王の交易船のみであり、それも湾の内側に隠すように入れた。
尚元王は湊に兵を集め、決してこちらから日の本に手を出さぬように命じた。
外交として不正解だ。
本人は中立のつもりかもしれないが、中立とは敵になるかもしれない脅威でしかない。
傭兵を送るとか、武器を享受するような積極的な中立でないと信用されない。
恩を仇で返すのは評判を下げるからだ。
琉球の場合ならば、イスパニア艦隊の情報を積極的に集めて、日の本に流すくらいの事をするべきだった。
そうすれば、味方認定されていたかもしれない。
それを怠った琉球は自称中立に過ぎないのだ。
すでに使者は太閤が怒っていると伝えた。
つまり、イスパニアの船に水供給という協力した時点で敵認定されていると伝えたのだ。
これを覆さないと意味がない。
正解はイスパニアの船を拿捕して献上する事だった。
これをされると攻める口実がなくなる。
間違った判断は国を滅ぼす。
◇◇◇
(永禄5年 (1562年)3月下旬~6月中旬)
3月28日早朝、琉球本島中部から少し離れた伊江島付近から全軍が出撃した。
先陣は帆船の5隻である。
敵のイスパニアの船も那覇湊を出航し、湾の外で待ち受けていた。
互いに接近して、1500mまで近づくと日の本の5隻は旋回して砲撃を開始した。
右側面の大砲を撃つと、今度は回頭して左側面の大砲を向けて撃つ。
イスパニアの船の近くで水柱が立った。
5隻が順番に撃つので大砲の音が鳴りやまない。
対してイスパニアの船も対抗して一斉に大砲を撃ったが、まったく届かないので脅威にならなかった。
北条-氏康は回頭を繰り返しながら僅かに近づいてゆくと、命中精度が上がっていった。
水柱がイスパニアの船の近くで上がるようになった。
始めは北東で回頭していた船が気づけば、反時計回りで北の神山島を背にしていた。
その頃になって関船42隻が北東に姿を現した。
その後ろに300石船56隻、さらに、小早180隻が曳航されていた。
100隻を超える大船団に驚いた事だろう。
「逃げ道を塞ぐぞ」
先頭の氏康を乗せた帆船が西南に行き足を取ると、北畠-具教、山名-棟豊も続く。
宗哲と島津-貴久の帆船はそのままゆっくり南下した。
曳航の縄を切って小早180隻が一気に抜け出していた。
「南蛮船を頂くぞ。我に続け」
肝付-兼続が叫ぶ。
遅れを取ってなるモノかと、関船の蒲生-賢秀、朽木-元綱も前進が始まった。
近づく小早が大砲1発で2、3隻が転覆する。
だが、それで怯む九州男児ではなかった。
むしろ、勢いが増した。
まるで蜂の群れが熊を襲っているようであったと、後に官兵衛が俺に語ってくれた。
包囲陣が縮まってくる中でヘタレの船長が逃げに転じた。
逃がしてなるモノかと進行方向に砲弾を集中するが、敵の船長は右へ左へと蛇行して氏康の目の前を通り過ぎて行った。
氏康は見逃す事にした。
そして、気を取り直して残る2隻を取り逃がさないようにと頭を切り替えた。
だがしかし、棟豊は18歳と若過ぎた。
逃げ出したキャラック船を見て、棟豊は「逃がしてなるものか」と追い駆けた。
そこにぽっかりと半包囲に穴が空いた。
後退しながら近づく小早に大砲をくれてやっていた敵の船長がそれを見逃さずに進路を変えた。
もう一隻はすでに小早に取りつかれていたので転進する余裕もない。
気付いた宗哲が船を移動させて穴を塞ごうとしたが遅かった。
動く的に当てるのは難しい。
宗哲を追って貴久も続いた。
もう1隻の周辺には味方が溢れて砲撃する事ができず、首里城を攻めるのに帆船は余り役に立つ事はない。
やる事がないならば、逃げる敵を追った方が面白い。
そう考えたらしい。
その動きを見て信実叔父上はやれやれと思った。
「具教殿、追い駆けて捕えるなど至難の技です」
「だが、遅れを取る訳にはいかんぞ」
「追い駆けても無理です」
「…………むむむ」
「我らは那覇湊に入って威嚇を致しましょう」
「…………むむむ」
「判りました。小舟を降ろしますので、兵を連れて首里城を落として来ては如何ですか?」
「そうするとしよう」
すでに敵に取りつけないと見た小早が転進し、関船と300石船も那覇湊への乱入が始まっていた。
日の本の軍が攻めてくるなど思っていない敵兵はあっさりと上陸を許す。
それを聞いてから尚円王は反撃を命じたので遅きに失した。
氏康と信実叔父上の帆船は首里城へ砲身を向けると、できる限り遠くに向けて艦砲射撃を始めた。
無差別砲撃だ。
狙いを付けた所で当たる訳もなく、敵を混乱させるだけの砲撃であった。
だが、効果はてき面であり、首里城の高官が逃げ始めた。
敵の混乱は酷くなり、組織的な抵抗は無くなる。
一方的な首狩りの場に変わった。
女・子供を殺せば罰せられる。
間違っても首を取ってはならない。
また、金品の強奪など以ての他だ。
商家を襲えば、磔だ。
また、敵も武者でなければ、その首は褒美の対象にならない。
兵は敵の将の顔など知らぬ。
とにかく、狩ってしまえと首を取った。
降伏する者は捕えられた。
こちらの方が褒美を貰える。
戦目付けは大忙しだった。
ドガ~ン!
首里城の正門の前に火薬箱を置いて吹き飛ばす。
日の本の兵が我先にと飛び込んでいった。
尚元王とその一族を捕えた者が一番手柄だ。
佐久間-信盛も曾我-助乗も飛び出した儘で帰って来ない。
老将林-秀貞はやれやれと溜息を付きながら、占領した湊と町の掌握に苦労したと言う。
尚元王と一族が逃げ出しているのを捕まえたのは朽木-元綱の部隊であった。
朽木隊は関船で南蛮船に襲い掛かったが取り付く島もなく、那覇湊に入港すると着岸する場所もない。
空いた小早に乗り換えて湾の奥、漫湖から国場川を遡って首里城を目指した。
すると、与那原を目指して逃げてきた尚元王一行に鉢合わせしたという幸運に恵まれた。
運だけで首里城攻略の一番手柄を取ってしまった。
首里城が燃えていた。
こちらは首里城を燃やせなどと命令していなかったが、逃げる時に敵が火を放ったのか、首里城が真っ赤に炎を上げて炎上し、尚元王の御世が終わった事を告げた。
結局、キャラック船2隻は逃げられたらしい。
この後は手柄を取り損ねた者らの為に琉球平定が待っている。
まず琉球本島を押さえ、琉球弧の中部の奄美と南部の八重山諸島を掌握する。
ここまで諸将連合軍の仕事だ。
数多の島々があるので、皆、何某かの手柄を立てるだろう。
平定が終わると尚元王の退位と、嫡男で5歳の忠樽金を王にする。
属国尚康王の誕生だ。
宰相を島津家から出し、その補佐官に中小姓から昇格させて送る事になる。
サトウキビを生産させよう。
次にマンゴー、バナナ、パイン、カカオ等々と忙しい。
豊かになれば、民衆の不満も下がる。
それが終わると那覇湊を整備して、美麗島(台湾)への侵攻に取り掛かる。
そこで大将らに帰って貰って、兵を順次入れ替えて行く。
北条への褒美として宗哲に与那国島を与えて、美麗島(台湾)の目付にでもするか?
氏康は南海への交易の足掛かりを得て喜ぶだろう。
一方、信実叔父上はこれ以上の領地を与えても嫌がるし、北畠-具教にとって南夷の地など露ほどの価値を持たない。
帝に労いの言葉をお願いすれば、それで十分だ。
棟豊の父の管領山名-祐豊はそもそも南海の価値が判っていない。
送った将兵らはこき使ってやろう。
最後に美麗島(台湾)の一角を与えれば十分だろう。
俺の心配を他所に琉球平定は進んで行った。
連絡に時間が掛かった。
官兵衛が細かい報告書を持って戻って来たのはかなり後になってしまった。
■諸将連合軍〔琉球占領部隊〕
総勢2万5,200人
帆船3隻(大砲あり)プラス2隻
関船42隻(大砲なしの織田帆船の模造船、大砲の代わりに櫂推進もあり)
300石船56隻(織田家300石船か、その模造船、バラスト機能が高い)
小早180隻(40人乗りの櫂船、追い風のみ帆を張って推進できる)
※小早で琉球弧を渡る事はできるが風任せになるので、今回はその他の船に曳航させて連れて行く。
◎北条伊豆水軍 4,800名 (別途の輸送部隊に1,200人を動員)
総大将:北条-氏康(相模守護)
副将:北条-宗哲
帆船2隻: 1隻150人 計300人
関船30隻: 1隻150人計4,500人
その他:食糧輸送の為の1,000石船と300石船を堺と坊津を往復運航中。
◎北畠・織田伊勢水軍 3,400名
総大将:北畠-具教(参議・伊勢守護)
副将:織田-信実(伊勢守護代)
帆船1隻: 1隻150人 計150人
関船5隻: 1隻200人計1,000人 (新型の関船は帆船の性能が高い。漕ぎ手200人が兵に変わる)
300石船15隻:1隻150人計2,250人
◎山名隠岐水軍 3,000名
総大将:山名-棟豊(管領山名-祐豊の嫡男)
副将:奈佐-日本之介(元隠岐海賊の棟梁)
300石船10隻 (20隻):1隻300人計3,000人
〔船の少なさを兵で補った為に兵站で問題があり、堺の商人から追加で10隻を貸し出して貰った〕
◎畿内連合 (熊野・村上等水軍) 5,500名
総大将:林-秀貞(信長配下の織田家重鎮)
副将:佐久間-信盛(信長配下の織田家重鎮)
副将:曾我-助乗(奉公衆)
副将:蒲生-賢秀(近江小守護代の代表)
副将:朽木-元綱(若狭・丹波・丹後の代表、初陣なので叔父の藤綱も同行)
関船5隻:1隻200人 計1,000人 (新型の関船は帆船の性能が高い。漕ぎ手200人が兵に変わる)
300石船30隻:1隻150人 計4,500人
〔数に入っていないが、堺と熱田なのから1000石船を徴集して、食糧等の運搬を行っている〕
◎島津連合 (島津・肝付・相良等水軍) 8,500名
総大将:島津-貴久(薩摩守護)
副将:肝付-兼続
関船2隻:1隻200人 計400人 (新型の関船は帆船の性能が高い。漕ぎ手200人が兵に変わる)
300石船6隻:1隻150人 計900人
小早180隻:1隻40名 計7,200人




