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【書籍化】魯鈍の人(ロドンノヒト) ~信長の弟、信秀の十男と言われて~  作者: 牛一(ドン)
第3章 『引き籠りニート希望の戦国宰相、ごろごろ目指して爆走中!?』

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74.天山麓の戦い(1)

(永禄5年 (1562年)2月中旬)

北九州は輝ノ介 (義輝)の命令で混乱した。

輝ノ介の『洗礼を受けた武将の首を差し出せ』と言う命令は龍造寺(りゅうぞうじ)家、有馬(ありま)家、大友(おおとも)家の三家で大きな問題ではあった。

龍造寺(りゅうぞうじ)家と大友(おおとも)家では当主が洗礼を受け、有馬(ありま)家では大村家に次男を養子に出し、その者が大村家の家督を継いで洗礼を受けていた。

この三家は上を下への大騒ぎである。

龍造寺(りゅうぞうじ)家は戦う事を選択し、大友(おおとも)家の宗麟(そうりん)は弁明の為に自ら船に乗って名護屋を目指した。

養子縁組で結ばれた両家は、幕府に従うという有馬(ありま)家と龍造寺(りゅうぞうじ)家に合流するという大村家に分かれて内戦が起こった。

大友家の属国である豊前、筑前、筑後の諸大名は幕府への恭順を示すが、キリシタンの隔離が始まると坊主共が教会を襲い出し、坊主に賛同する領主とキリシタンを守ろうとする領主と大友家の命令に従う領主に分かれて争い始めた。

各地に配置された大友家の代官は巧く兵を集める事ができず、折角集めた兵を領内の鎮圧に使う有様で『肥前龍造寺(りゅうぞうじ)討伐』の軍編成が遅れた。

さらに肥後では大友家の手綱が緩んだのを知って、鎮静化した叛乱が再燃し、日向の伊東家はキリシタンが少ない事で隔離に成功して軍を編成したが、安全に通れる道が確保できずに日向に留まって大友家の指示を待った。


さて、逃げ出した松浦-隆信(まつら-たかのぶ)の嫡男鎮信(しげのぶ)と三男の九郎は伊万里にある姥ヶ(うばが)城の黒川家を頼った。

主家の北松浦党が幕府の船に乗せて貰えるほど良好な関係を築いていると聞いたからだ。

その家臣の黒川家も幕府に付くと杉-隆景(すぎ-たかかげ)は予想し、黒川家は快く味方になってくれた。

鎮信(しげのぶ)伊万里(いまり)城にいる伊万里(いまり)の松浦党である伊万里-純(いまり-すみ)に救援を願ったが、伊万里-純(いまり-すみ)はそれを断り、逆に討伐隊を編成したのだ。

龍造寺(りゅうぞうじ)-隆信(たかのぶ)が西肥前を攻めた時に、伊万里(いまり)城には城番として伊東-祐俊(いとう-すけとし)を残していたからだ。

この城番伊東-祐俊(いとう-すけとし)の監視の目を掻い潜って、伊万里(いまり)のキリシタン支持者の領主達を説得するのが無理と予想されたからだ。

伊万里(いまり)はキリシタンが割と多かったのだ。

鎮信(しげのぶ)と三男の九郎は攻められる前に姥ヶ(うばが)城を逃げ出し、黒川家の主家である鬼子岳(きしだけ)城の波多-親(はた-ちかし)を頼った。

姥ヶ(うばが)城の黒川家は伊万里-純(いまり-すみ)が率いる伊万里軍と平戸の先鋒となった宇久-純定(うく-すみさだ)の平戸松浦軍から総攻撃を受けた。

梶谷(かじや)城の相神浦松浦家の残党や陣内(じんのうち)城の志佐家の排除などに兵を割かねば、すぐに陥落していただろう。


 ◇◇◇


(時間は少し戻って)

輝ノ介 (義輝)が命令を発した直後、唐津湾と伊万里湾に挟まれた東松浦半島の根元にある上場(うわば)台地をどうするかと言う議論になった。

明智-光秀(あけち-みつひで)の計略によって、名護屋の実権が秀吉・長秀から輝ノ介 (義輝)に移ると鬱憤(うっぷん)を貯めていた奉公衆がしゃしゃり出て来た。

信照(のぶてる)に警戒された細川-藤孝(ほそかわ-ふじたか)和田-惟政(わだ-これまさ)、主戦派で無能なので左遷(させん)された高倉-永相(たかくら-ながすけ)一色-藤長(いっしき-ふじなが)上野-秀政(うえの-ひでまさ)真木島-昭光(まきしま-あきみつ)らが声を上げた。


細川-藤孝(ほそかわ-ふじたか)は信照を嫌っていた大男であり、義輝から遠ざけられた事で『永禄の変』の難を逃れ、義昭救出で返り咲いた。

しかし、義昭と織田がイザコザを起こすと、義昭を嗜めて勘気を受けて出仕を取り止めた。

和田-惟政(わだ-これまさ)は義昭が織田と対立すると明智-光秀(あけち-みつひで)が京から逃げるのに便乗して逃げ出し、人材不足の京で信長に拾われた。

高倉-永相(たかくら-ながすけ)は、義輝が三好長慶に脅されて京を去ると、無責任にも義輝を見捨てた奉公衆であり、義昭が織田と対立するとまたも逃げ出した。

実家の高倉家が参議を務める公家の名家でなければ、姉の量子(かずこ)が前帝(後奈良(ごなら)天皇)の典侍でなければ、返り咲きも難しかった。

一色-藤長(いっしき-ふじなが)は名前の通り一色家の一族で見栄と傲慢が歩いている。但し、時勢を見る世渡りは上手だった。

上野-秀政(うえの-ひでまさ)上野-清信(うえの-きよのぶ)の養子であり、清信(きよのぶ)は織田家と徹底抗戦を唱えた急先鋒だったが、秀政(ひでまさ)は養父と対立して出仕を止められていた。

一色-藤長(いっしき-ふじなが)の取り成しで奉公衆に戻れた。

真木島-昭光(まきしま-あきみつ)も義昭派だったが、信長が摂津から上洛してくると槇島城を開城して許しを得た。

等々、名家の出や機転が利くが一癖も二癖もある者ばかりが左遷されたのである。


さて、半島の先端は幕府が接収して名護屋城を建築していたが、それだけでは防御として心許ない。

そこで奉公衆は当事者を呼ばずに、上場(うわば)台地を拠点とする湯野木山(ゆのぎやま)城、高江城、岩崎城の三城を接収する事を決めた。


こう言った交渉は細川-藤孝(ほそかわ-ふじたか)が得意とする所だ。

しかし、藤孝(ふじたか)が赴くという所を、高倉-永相(たかくら-ながすけ)一色-藤長(いっしき-ふじなが)上野-秀政(うえの-ひでまさ)は強引に割り込んで、意気揚々と出発したが三城の城主は渋い顔をした。

荒地を接収したのと訳が違い、今度は『城を明け渡せ』と言ってきたのだ。

にこにこと「はい、そうですか」とはいかない。

高倉-永相(たかくら-ながすけ)は気位が高く相手を怒らせ、一色-藤長(いっしき-ふじなが)は高飛車に命令して反感を持たれ、上野-秀政(うえの-ひでまさ)は経験不足だった。

城主に断られて恥を搔いた事を恨んだ三人は三城主を謀反人に仕立て上げた。


『三城に謀反の気配あり』


輝ノ介や秀吉、長秀は首を捻った。

領民は少なく、集まる兵も知れている三城の領主に幕府と対抗する気概などあるハズもない。

良好な関係を保っていた幕府がいきなり豹変したのだから戸惑うのも当たり前であった。

三城主も弁解の使者でも送ってくればよかったのだが、頭に血が上った領主達は使者の申し出を蹴って塩を撒いて、そのまま城に留まってしまった。

この機会を逃す輝ノ介ではない。


「三城の城主をここに連れて参れ」


決して『討伐』とは言わない。

奉公衆らが立ち上がり、さらに謀反の嫌疑が掛かっている九州の諸大名の名代も同行を願い出ると、土ばかり弄って活躍の機会がなかった三好三人衆や荒木-村重(あらき-むらしげ)長宗我部(ちょうそかべ)-元親(もとちか)らも名乗り出た。

輝ノ介は『好きにせよ』と同行を許した。

三城は名護屋御殿から南に一里 (4km)ほどしか離れていない。

皆、手勢のみで出陣したが、それでも5,000人近い兵数が手柄を求めて襲い掛かられては一溜りもない。

守りの砦があっさりと陥落する。


「此度は申し訳ございません」


まだ、城も陥落していない内に騒ぎを聞き付けた鬼子岳(きしだけ)城の波多-親(はた-ちかし)が名護屋の御殿に登城して頭を下げた。

日高城の日高家、高江城の有浦家は波多家の重臣であった。

支城が襲われて援軍に向わねば武門の恥であり、波多親は頼りなしと領主達から見限られてしまう。

だが、幕府に逆らうなどと馬鹿な事はできない。

三城を救う為に急いで登城して頭を下げたのだ。


「すべての城を差し出します。どうかお怒りをお鎮め下さい」

「幕府に従うと言うのだな」

龍造寺(りゅうぞうじ)討伐の先鋒を引き受ける覚悟でございます」

「よくぞ申した。城攻めは中止だ」


輝ノ介はすぐに早馬を走らせた。

唐津から東松浦半島一帯を支配していた波多親を半ば強引な形で龍造寺(りゅうぞうじ)-隆信(たかのぶ)から引き抜いた。

龍造寺(りゅうぞうじ)家に降って属国となっていた上松浦党の波多親も一・二日の猶予があれば、領内のキリシタンに対処して幕府に改めて臣従を誓っただろう。

それでは遅いと輝ノ介は考え、三城が抵抗したのを利用した。

断固とした姿勢を見せる事で波多親と上松浦党の者らを脅したのである。

思惑通りに波多親は幕府方に降った。


もちろん、波多親もこの思惑を悟った。

幕府に命じられたと言って素直に従えば、波多親は家臣から“頼り無し”と烙印を押されるかもしれない。

家臣一同を集めて評定を開き、行き詰まった所で『幕府の命に従う』と言わねばならない。

だが、家臣の領主達が“キリシタンの一時隔離か、改宗か”と言う命令に素直に従うだろうか?

また、洗礼を受けた武将も同じく、改宗か、隠居を迫る必要がある。

領主をまだ降りたくない馬鹿者が出ている。

領内が揉める事は必定だった。

そこに三城が攻められると言う話が名代から知らせてきたので波多親は腹を括った。

秀吉から織田水軍に誘われているくらいだ。

上松浦党を切るつもりはないと読んで、幕府に臣従する為に名護屋の御殿に赴く事を決めた。

輝ノ介も臣従を認めてくれた。

用事を済ませて鬼子岳(きしだけ)城に戻ると、重臣を集めて幕府の命を伝える。

家臣らも幕府の本気を知れば、肝を冷やす。

抵抗すれば、幕府軍と上松浦党が襲い掛かってくると、波多親はその場で何度も「容赦しない」と言った。

こうして、幕府は東松浦半島を完全に掌握したのだ。


「我が領主、神代-勝利(くましろ-かつとし)と山内二十六ヶ山は幕府に改めて臣従致します。どうか、我ら山内二十六衆に先鋒をお申し付け下さい」


波多親が鬼子岳(きしだけ)城に戻って領内を掌握し始めた頃、龍造寺(りゅうぞうじ)討伐を聞いて、喜び勇んで嫡男の長良(ながよし)を送って来たのが、勝利(かつとし)であった。

勝利(かつとし)は三瀬城主の野田宗利(三瀬宗利とも)に請われてその剣術師範となり、やがて弟子は500名に達する剣術の豪の者であった。

少弐(しょうに)-冬尚(ふゆひさ)に認められて背振山地の山内二十六ヶ山(山内を治める26の豪族)を束ねる総領に抜擢された。

少弐(しょうに)-冬尚(ふゆひさ)龍造寺(りゅうぞうじ)一族に謀殺された後も肥前の唯一抵抗を続ける勢力であった。

背振山地に誘い込んでゲリラ戦で龍造寺(りゅうぞうじ)軍を苦しめていた。

毛利攻めの時も山内二十六衆が居る為に全軍を率いて行けなかったのだ。

幕府の命で停戦となっていたが、小さなイザコザはずっと続いていた。

龍造寺(りゅうぞうじ)-隆信(たかのぶ)を討てると聞いて、喜んで嫡男の長良(ながよし)を送って来たのだ。

上々の滑り出しだと思っていると、今度は博多から救援を求める使者がやって来た。


「筑前から火の手が上がるとは宗麟(そうりん)は何をやっておる」

「恐れながら申し上げます」

鑑種(あきたね)か、申せ」


大友家家老吉弘-鑑理(よしひろ-あきまさ)の補佐として入っていた高橋-鑑種(たかはし-あきたね)が輝ノ介に意見を言う。

意に沿わなければ、その場で斬られても文句が言えない相手だ。


「我が殿に送った書状は府内に届いた頃でございます。筑前で火の手が上がったなど、まだ知る由もございません。もし宜しければ、主君になり代わって鎮圧の許可を頂きとうございます」

「豊後500で鎮圧できるか?」

「九州勢の兵も出せれば、問題ございません」


宗麟(そうりん)の豊後から500人の兵を連れて来ていたが、その中から100人ほどがキリシタンだったので宿舎に一緒に隔離された。

しかし、豊前・筑前・筑後・肥後・日向からも土方を監視する為に1,500人ほどの兵が送られており、キリシタンを除いても1,200人ほどが残っていた。

さらに、薩摩と大隅から島津-義弘(しまづ-よしひろ)が率いた兵300人と土方1,500人が残っていた。

薩摩・大隅にキリシタンはいないので土方をそのまま兵に使える。

合わせれば、3,400人になる。


「大友家の下などに付きたかなかトッ」


義弘(よしひろ)がすかさずに断った。

兵数がほぼ同じで下に付くなどあり得ない上に、肩を並べて仲良く戦うなど「絶対に嫌だ」と拒絶した。


「少しは仲良くしようという気はないのか?」

「まったくございません。この義弘(よしひろ)、秀吉様が総大将として赴かれるならば、喜んで付いて行きましょうが、高橋-鑑種(たかはし-あきたね)の配下などはまっぴら御免でございます」

「好きな事を言う奴だな」

「お気に召しませんか?」

「余は気にしておらん」


足りない兵は三城の戦いを途中で切り上げさせられて手柄を取りそこなった三好三人衆や荒木-村重(あらき-むらしげ)長宗我部(ちょうそかべ)-元親(もとちか)らが名乗り出た。

大友勢に加え、畿内・中国・四国勢に付いて行くように命じられ、総勢1万5,000人の連合軍が結成された。

大友勢の総大将は高橋-鑑種(たかはし-あきたね)が任命された。

連合軍は筑前、筑後を回って肥前の東から侵攻する。

その目付に細川-藤孝(ほそかわ-ふじたか)和田-惟政(わだ-これまさ)が随行する。

名護屋にはその他の奉公衆の手勢、秀吉・長秀の織田幕府勢、毛利勢が居残りと決まった。

尚、居残り半数と北松浦党や山内二十六衆を糾合すれば、ほぼ同数の兵で唐津から松浦川を遡って侵攻する事ができ、東西から挟撃する事も決められた。

筑前、筑後の鎮圧を待って名護屋を立つ。

翌日、軍が編成されて高橋-鑑種(たかはし-あきたね)らの連合軍が筑前に向けて出立した。


龍造寺(りゅうぞうじ)-隆信(たかのぶ)、三日で領内をまとめるとは天晴れだ」


連合軍が出立した翌日に龍造寺(りゅうぞうじ)-隆信(たかのぶ)が東肥前をまとめて兵を集め始め出したと報告が入った。

肥前が落ち着く前に機先(きせん)を制して、龍造寺(りゅうぞうじ)-隆信(たかのぶ)村中城(むらなかじょう)佐賀城(さがじょう))を攻めるつもりだったが、輝ノ介は相手を褒めて笑うしかない。

動揺する奉公衆に後ろで大人しく座っていたお市が立ち上がった。


「兵は数ではないのじゃ」

「よく言うた」

「唐津と佐賀を結ぶ街道は狭く、大軍が通り難いのじゃ」

「ならば、こちらからも討って出るか」

「討って出るのじゃ」


秀吉は顎に手を当てて「またあれをやるだか」と顔に皺を寄せて首を捻り、長秀は髪を乱して「仕方ないのぉ」と頭を搔いた。

二万人の捕虜がいる為に名護屋の兵を多くは裂けず、領内の調整に入った北松浦党は間に合わない。

山内二十六衆は背振山地の反対側である。

攻めてくる龍造寺(りゅうぞうじ)軍を相手に手勢のみで対処する事になるとは思っていなかった。

さらに、鬼子岳(きしだけ)城から使者が飛び込んだ。

松浦(まつら)-鎮信(しげのぶ)と九郎が鬼子岳(きしだけ)城に逃げ込んで来た。

どうやら伊万里(いまり)方面からも平戸・伊万里の松浦党が攻め上がってくるようであった。

今の名護屋に両面作戦を取るような余裕はない。

半ば承知の秀吉らは渋い顔をするだけだが、何も知らされていない奉公衆らは大いに慌てた。

挿絵(By みてみん)

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[気になる点] 山間で戦うと、また素早い動きをする娘が一人オーバーキルをするでござろうか
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