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【書籍化】魯鈍の人(ロドンノヒト) ~信長の弟、信秀の十男と言われて~  作者: 牛一(ドン)
第3章 『引き籠りニート希望の戦国宰相、ごろごろ目指して爆走中!?』

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閑話.秀吉の立身出世物語(7)「藤吉郎の誤算」

室町時代、九州の戦乱は畿内より長く続いた。

室町時代の初期は南北朝より始まり、征西大将軍として九州へ派遣された懐良親王(かねよししんのう)菊池-武光(きくち-たけみつ)を味方に付けて、豊後国・肥前国などに進出して大友-氏泰(おおとも-うじやす)を降伏させ、一色-範氏(いっしき-のりうじ)を長門国に追放して、大宰府を陥落させると征西府を立ち上げて一大勢力を作り上げた。

一時は菊池氏・原田氏・伊東氏・秋月氏・島津氏・三原氏・草野氏・松浦氏・星野氏・平戸氏・千葉氏・大村氏・山鹿氏などの九州の有力諸氏7万騎を従えて、京に上がる東征を試みたが失敗に終わった。

そして、北朝方3代将軍足利-義満(あしかが-よしみつ)今川-貞世(いまがわ-さだよ)を九州に派遣した。


足利-義満(あしかが-よしみつ)が本気で九州征伐を考えた理由の1つが明国との交易があった。

明国の皇帝は懐良親王(かねよししんのう)を倭国の王と認めており、九州を征伐しないと明国との交易ができなかったのだ。


今川-貞世(いまがわ-さだよ)は周防・長門の大内-弘世(おおうち-ひろよ)義弘(よしひろ)父子の協力で九州に食い込み、九州の大名の離反によって情勢を好転させて勢力を拡大していった。

そして、懐良親王(かねよししんのう)の後を継いだ良成親王(よしなりしんのう)を降伏させ、南北朝合一を機に九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。

今川-貞世(いまがわ-さだよ)は15年の歳月を費やした。


だが、今川-貞世(いまがわ-さだよ)は九州探題を罷免され、後任の九州探題に渋川-満頼(しぶかわ-みつより)が任命された。

渋川-満頼(しぶかわ-みつより)は少弐氏や菊池氏、阿蘇氏らの反幕府勢力の平定に努力し、肥前国で九州における一勢力を築いた。

こうして渋川(しぶかわ)家は数代に渡って九州探題を歴任したが、戦いが止む事はなかった。

そして、ゆっくりと渋川(しぶかわ)家の力は衰退して行く。

渋川-義長(しぶかわ-よしなが)の代で大内-義隆(おおうち-よしたか)を頼って何とか九州探題としての権威を残していたが、庇護者であった大内-義隆(おおうち-よしたか)を裏切って、宿敵の少弐-資元(しょうに-すけもと)と通じた為に、逆に大内に攻められて自害に追い込まれた。

義長(よしなが)を討った大内-義隆(おおうち-よしたか)は、代わって甥の渋川-貞基(しぶかわ-さだもと)を擁立し、天文10年 (1541年)に12代将軍足利-義晴(あしかが よしはる)の偏諱を受け義基(よしもと)を名乗らせ、併せて左兵衛督に任官させた。

しかし、肝心の大内-義隆(おおうち-よしたか)が寵愛していた養嗣子の晴持(はるもち)を尼子との戦いで失った事で領土的野心や政治的関心を失った。

義基(よしもと)は大きな後ろ盾を失ったに等しかった。

何もできぬ儘に陶-晴賢(すえ-はるかた)の謀反で立場を失い、毛利家の台頭で北九州の基盤を失う無能ぶりを晒した。

結局、義基(よしもと)義隆(よしたか)に持ち上げられた傀儡(くぐつ)(人形)であって、それ以上ではなかった。


大友家は鎌倉時代に豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任された後、元寇の戦いで基盤を固めた。

その後、懐良親王(かねよししんのう)に追い詰められる事もあったが、今川-貞世(いまがわ-さだよ)に与して勢力を拡大した。

応仁の乱以降は大友氏、大内氏、少弐氏の三者で争い続けた。

そして、大内氏が没落すると、豊前・豊後・筑前・筑後・肥後半国を支配下に収めていた。

大友家は幸運であった。

天文23年 (1554年)、『天下静謐』と『惣無事令』が発せられると、他国への介入を禁じられた。

幕府の使者が織田家の帆船に乗ってやってくると大砲の威力を見せ付けた。

畿内における公方様の鎮圧は苛烈を極め、『惣無事令』に反した家が公方様の手で次々と打ち取られて行く。

大友家の幕下の大名達がそれを聞いて震え上がってくれたのだ。

その中で毛色が違ったのが、大友家であった。

京で『永禄の変』が起こるまでの6年間を内政に力を注ぎ、南肥後の相馬氏などの調略を進め、日向の伊東氏が助けを求めると臣従させて援助を行った。

博多の支配権を握った宗麟(そうりん)は潤沢な資金を元に支配権を確立したのだ。

唯、支配力が強くなるほど、反発心もより一層大きくなっている事に気が付いていなかった。


大友家の次に飛躍したのが龍造寺(りゅうぞうじ)家かもしれない。

龍造寺(りゅうぞうじ)家は肥前守護で御家人の少弐家の被官に過ぎなかったが、天文4年(1535年)に少弐家を裏切って、大内-義隆(おおうち-よしたか)に通じて少弐-資元(しょうに-すけもと)を自害させて大内氏庇護の下で独立した。

だが、少弐氏重臣達の調略により、龍造寺一族の多くを殺害されて壊滅の危機に瀕した事もあった。

天文15年(1546年)、蒲池氏の支援を受けた龍造寺(りゅうぞうじ)-家兼(いえかね)は馬場頼周を討って龍造寺家を再興し、曾孫の隆信(たかのぶ)に家督を譲ったのだ。

さらに元主君筋の少弐-冬尚(しょうに-ふゆひさ)を攻めて、肥前勢福寺城(せいふくじじょう)に追放した。

筑後国は大友家の幕下にあった蒲池家(かまちけ)など『筑後15城』と呼ばれる国人衆が混在しており、幕下であったが臣従している訳ではなかった。

混在していた為に大友家の家臣に領地を譲る余裕もなく、大友軍を中に入れる事もなかった。

これが後に幕府の『天下静謐』を発した後に筑後に侵攻できない理由となった。

この時点で宗麟(そうりん)は幕下に収めただけで満足していたのだ。

それが他領を他所に筑後の小領主が群雄割拠して争って遊んでいられる原因となった。

だが、政権が公方義昭(よしあき)に代わり、他領への侵攻を許す公方となった瞬間、狂犬の隆信(たかのぶ)と大友家に挟まれた筑後の領主達には大友家への臣従以外の選択はなかった。


さて、肥前水ヶ江城を拠点としていた龍造寺(りゅうぞうじ)-隆信(-たかのぶ)は、天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去して後ろ盾を失った。

すると、隆信(たかのぶ)に反抗的な土橋(つちはし)-栄益(ひでます)高木(たかぎ)-鑑房(あきふさ)馬場(ばば)-鑑周(あきちか)八戸(やえ)-宗暘(むねてる)神代(くましろ)-勝利(かつとし)小田(おだ)-政光(まさみつ)らが龍造寺(りゅうぞうじ)-鑑兼(あきかね)を龍造寺当主に擁立せんと謀った造反の動きを察して、一時的に蒲池家(かまちけ)に逃げた。

全ては宗麟(そうりん)の謀略と察した。

宗麟(そうりん)の目は豊前と筑前に向いており、陶-晴賢(すえ-はるかた)が起こした『大寧寺の変』によって豊前と筑前が半空白地帯となっていたからだ。

隆信(たかのぶ)少弐-冬尚(しょうに-ふゆひさ)がこれに乗じて介入する事を止めたかったのだ。

蒲池家(かまちけ)を通じて隆信(たかのぶ)は、宗麟(そうりん)の軍門に降ったとも言えた。

そうして蒲池家(かまちけ)の援助で隆信(たかのぶ)は水ヶ江城を奪還した。

宗麟(そうりん)に見放された|土橋つちはし》-栄益(ひでます)高木(たかぎ)-鑑房(あきふさ)馬場(ばば)-鑑周(あきちか)八戸(やえ)-宗暘(むねてる)神代(くましろ)-勝利(かつとし)小田(おだ)-政光(まさみつ)らは隆信(たかのぶ)の軍門に降ったのだ。

こうして力を取り戻した隆信(たかのぶ)少弐(しょうに)家を支持する肥前の領主を襲った。

幕府が『天下静謐』と『惣無事令』を発しても無視した。

隆信(たかのぶ)に襲われて、大友家に助けを求めると隆信(たかのぶ)はあっさりと手を引いた。

狂犬の飼い主が宗麟(そうりん)である事は薄々知れていた。

ともかく、飼い主が目を逸らすとどこでも襲い掛かる。

隆信(たかのぶ)は『肥前の熊』、或いは、『肥前の狂犬』と言われる。

手が付けられない暴れ者に流石の水軍松浦党も同盟を申し込んだ。

瞬く間に北肥前を治めてしまったのだ。


その中には少弐-冬尚(しょうに-ふゆひさ)もいた。

だが、冬尚(ふゆひさ)宗麟(そうりん)に助けを求め、幕下に降った事など忘れて領地拡大を勤しんでは大友家を裏切った。

裏切ると宗麟(そうりん)の『待て』が解除されて、再び隆信(たかのぶ)に攻められて滅びそうになる。

そして、冬尚(ふゆひさ)は幕府を介して宗麟(そうりん)に助けを求めるのを繰り返した。

まぁ、九州探題を名目に肥後や日向に介入している宗麟(そうりん)少弐(しょうに)家を見捨てて、九州探題を罷免される口実を作らせる訳にもいかなかったのだ。


他にも肥前を我が物にしたい隆信(たかのぶ)の力を分散させたい宗麟(そうりん)の微妙な駆け引きもあった。

尤も、筑前に手を出させないという当初の目的は十分に達成されていたので宗麟(そうりん)の方が一枚上手とも言えた。


もう1つの肥前の大名は有馬家である。

有馬家は島原半島一帯を支配して、日明貿易や南蛮貿易を独占する事で有力大名となった。

だが、天文19年 (1550年)に当主がキリスト教を弾圧し始めると南蛮貿易を進めたい者とキリスト教を排斥したい者で家中が割れた。

そして、天文22年(1552年)に家督を譲られた有馬氏12代当主義貞(よしさだ)は室町幕府の相伴衆ともなったが、内政で父との確執が生まれ、西郷家の離反などに悩まされた。

暫くすると急に成長した龍造寺(りゅうぞうじ)家の南下も始まった。

隆信(たかのぶ)は幕府の命令など聞かない。

狂犬だ。

隆信(たかのぶ)の南下が止まらなかった。

そして、公方が代わって義昭(よしあき)になると、隆信(たかのぶ)少弐(しょうに)家の取り潰しを許した。

次は有馬家の番と恐怖して義貞(よしさだ)は大友家に臣従を決意した。

大友家に臣従した家を隆信(たかのぶ)は襲わないのだ。


さて、筑前と豊前は大内家の支配地であったが、『大寧寺の変』で陶-晴賢(すえ-はるかた)が政権を奪うと宗麟(そうりん)の実弟の義長(よしなが)が大内家を継いだ。

しかし、筑前や豊前まで手が回らない。

秋月(あきづき)-文種(ふみたね)野仲(のなか)-重兼(しげかね)山田(やまだ)-隆朝(たかとも)などの有力国人が独立の動きを見せ、無秩序になった事を理由に豊前に侵入した。

こうして、筑前と豊前の実質的な支配権を獲得していった。

良く言えば、陶-晴賢(すえ-はるかた)の目が届かない筑前と豊前を(すえ)家に代わって宗麟(そうりん)が統治したのである。

悪く言えば、掠め取った。

また、その邪魔をさせない為に龍造寺(りゅうぞうじ)家と少弐(しょうに)家を争わせる小細工もした。

弘治2年(1555年)に起こった『厳島の戦い』では毛利家が勝利し、毛利家は一時的に周防、長門、石見を奪ったにも関わらず、それを手放して尼子に譲った。

実質の支配をしていた筑前と豊前が名実共に大友家のモノとなり、博多から上がる収益で大友家が盤石な支配力を得る財源となった。

弘治5年/永禄元年(1558年)に尼子家を制して、毛利家が周防、長門、石見を奪ったが、その先の筑前と豊前に手を出して来なかった事も幸いした。


もちろん、毛利-元就(もうり-もとなり)にも読みがある。

弘治3年(1556年)に関東征伐をした幕府の次の狙いは九州征伐であり、下手に大内の九州旧領を願い出ると毛利家が先兵として使われる可能性があった。

石見銀山を朝廷領にする信照(のぶてる)が博多を譲渡してくれるなどとは考えられない。

労力の割に得るモノが少ないと読んでいた。


一方、宗麟(そうりん)もその事を承知しており、九州を統一して、その力を背景に幕府と交渉するつもりだった。

その時点では公方義輝(よしてる)が亡くなるとは考えていなかった。

そして、公方義昭(よしあき)と織田家が対立すると、宗麟(そうりん)を頼って来た公方義昭(よしあき)に手を差し出したのだ。

公方義昭(よしあき)の後ろ盾となり、大きな交渉権を得られると考えた。

まさか、すぐに戦端が開かれるなどとは考えてもいなかったのだ。


肥後は懐良親王(かねよししんのう)菊池-武光(きくち-たけみつ)によって一大勢力を作ったが、今川-貞世(いまがわ-さだよ)によって解体させられた。

肥後の北は緩やかな山地からなっており、南は険しい山地が連なった山岳地帯となり、14郡99郷の土地に分かれていた。

菊池氏を始め、阿蘇、名和、相良などの諸氏が続いた。

今川-貞世(いまがわ-さだよ)によって菊池家が衰えると豊後の大友家が勢力を拡大し、北肥後を傘下に収めた。

幕府が『天下静謐』と『惣無事令』を発した以降は、他領が口出しできない事を良い事にして、九州探題の大友家は球磨郡と芦北郡を掌握していた相良家などの争いに介入して、南肥後にも支配地を広げた。

この大友家の支配は一見順調に進んでいるように見えたが多くの遺恨を残し、島津-貴久(しまづ-たかひさ)が反大友の士を密かに集める事を手伝った。

島津-貴久(しまづ-たかひさ)の養父で、宗家の勝久(かつひさ)が大友家を頼った事でいずれは、大友家が薩摩にも介入するのは見えていた。

貴久(たかひさ)はその日の為に準備していたのだ。

そして、織田家が勝って大友家が朝敵・賊軍となった。

朝廷・幕府方として反大友の士に決起を促すと、自らも出陣して南肥後に侵入して、南肥後を奪取すると北肥後へ兵を進めた。

そこから一進一退を繰り返す。

毛利家と和睦を結び戻って来た北九州の九州連合は龍造寺(りゅうぞうじ)-隆信(たかのぶ)を大将に据えた軍が北から南下し、西から肥後街道を通って戸次-鑑連(べっき-あきつら)(後の道雪(どうせつ))が進軍し、途上の叛徒を成敗して、共に中央へ目指したが、貴久(たかひさ)隆信(たかのぶ)鑑連(あきつら)の対決は実現しない儘で停戦を迎えた。


さて、日向の伊東家は工藤-祐隆(くどう-すけたか)の子孫であり、伊豆国田方郡伊東荘を本貫地としていた豪族に過ぎなかったが、その子孫が日向国へ下向して、地頭として勢力を誇った。

守護である島津家に対して、国衆(くにしゅう)として土地を治めていた。

足利氏の一門畠山-直顕(はたけやま-ただあき)が日向に下向して、国冨荘の土持氏、日下部氏らを掌握した事で懐良親王(かねよししんのう)に襲われそうになったが、少弐-頼尚(しょうに-よりひさ)の寝返りで難を逃れた。

しかし、畠山-直顕(はたけやま-ただあき)が日向守護に任じられた事で島津家と争う。

幕府の思惑を外れて領国支配を強めた畠山-直顕(はたけやま-ただあき)は南朝へ転進し、足利-直冬(あしかが-ただふゆ)を支援するが巧く行かず、懐良親王(かねよししんのう)の東征も失敗して、国人衆の離反によって日向から逃げ出した。

こうして、幕府方の島津家の力が強化されたかに見えたが、島津家の奥州家と総州家に分かれて内紛を起こし、伊東家はそれに巻き込まれた。


伊東氏6代当主伊東-祐堯(いとう-すけたか)は島津家と友好を結びながら、宮崎城の曽井氏を攻め滅ぼし、土持氏の同意を得て門川、穆佐、清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めた。

さらに、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。

こうして、北は門川町から南は紫波洲崎までを平定した。

文明3年 (1471年)に桜島が大規模な噴火を起こし、文明8年 (1476年)頃まで5年近くも続き、島津家が弱体化したのが原因かもしれない。

その後、島津家の内紛に参入し、宗家の奥州家と敵対し、豊後国の大友氏に助力を頼み、伊作家の島津-久逸(しまづ-ひさやす)を援助したが、祐堯(すけたか)が出陣中に死去し、その息子も続けて戦乱で亡くなった。

こうして、8代伊東-尹祐(いとう-ただすけ)は祖父・父の仇として島津家と対立する。

日向は島津家、伊東家、本郷家、新納(にいろ)家を中心にして小領主が混在する群雄割拠の時代を迎えた。

伊東家の不幸は続く、大永3年(1523年)に8代尹祐(ただすけ)が陣中で没し、天文2年(1533年)に9代祐充(すけみつ)(享年24)が病死し、天文5年(1536年)に10代祐吉(すけよし)(享年20)が病死し、わずか13年で父、嫡男、次男と3度も当主が入れ替わり、お家騒動の渦中で11代伊東-義祐(いとう-よしすけ)が擁立された。

義祐(よしすけ)は島津豊州家と日向南部の飫肥を巡って争った。

天文17年(1548年)には、嫡男の歓虎丸が9歳で早世した事を嘆いて、剃髪して『三位(さんみ)入道(にゅうどう)』と名乗り、天文20年(1551年)年に仏事に傾倒した義祐(よしすけ)は佐土原に大仏堂を建立し、義祐(よしすけ)の居城である佐土原城の周辺は、後に『九州の小京都』と呼ばれるほど成長する事になる。

義祐(よしすけ)は後ろ盾である大友家を頼って『惣無事令』など関係なく、小競り合いが続いた。

そして、九州連合を宗麟(そうりん)から命じられ、強制的に島津豊州家や本郷家、新納(にいろ)家と和議を結ばれて毛利家を攻める事になった。

義祐(よしすけ)は大友家の取り扱いに不満を覚えた。

帰国すると島津伊作(いざく)家の島津-義弘(しまづ-よしひろ)肝付-兼続(きもつき- かねつぐ)を始めとする大隅衆や日向南部の豊州家や本郷家を傘下に収めて、都於郡城(とのこおりじょう)佐土原城(さどわらじょう)を包囲している事に目眩を覚えた。

だが、天は義祐(よしすけ)を見捨てていなかったのだ。


1月20日、島津-義弘(しまづ-よしひろ)は兵8,000人を二つに割って、都於郡城(とのこおりじょう)佐土原城(さどわらじょう)を囲んでいた。

義弘(よしひろ)の薩摩軍は都城方面から侵入し、兼続(かねつぐ)の大隅軍は志布志から飫肥(おび)を通って北上して来た。

国内には反抗する者も多い。

守備兵を残すとこの程度の兵しか用意できなかったが、島津豊州家と本郷家を打ち破ると、伊東家の主力が不在という事もあって、次々と支城を降伏させて都於郡城(とのこおりじょう)までやって来た。

あと少しで陥落という所で2万3,000人の大友軍が高岡城に入ったのを聞いた。

1月25日、義弘(よしひろ)兼続(かねつぐ)と合流し、一之瀬川を挟んで大友軍と対峙した。

大友軍の大将は臼杵-鑑速(うすき-あきすみ)、副将に田原-親賢(たわら-ちかかた)であった。

数において大友軍が圧倒的であった。

一方、島津軍は陥落寸前の佐土原城(さどわらじょう)に3,000人を残し、わずか5,000人で対峙した。

大友軍は鉄砲で威嚇しながら渡河して来る。

義弘(よしひろ)は何度も突撃を敢行して押し返したが、数に任せた大友軍の前に撤退を余儀なくされた。


『大将首を取れ!』


大友軍の士気は高く、誰もが目の前に転がっている義弘(よしひろ)の首を狙って殺到する。

義弘(よしひろ)大光寺(だいこうじ)のある宝搭山(ほうとうざん)の西を逃げた。

ちょうど谷間となっており、そこに大軍の大友軍が殺到した。

そして、逃げる義弘(よしひろ)に目を向け過ぎて、左右の警戒を怠っていた。

いるハズのない兵が左右から現れて挟撃する。

気付いた時には大友軍は総崩れであり、逃げ出す兵を島津軍が追い駆けた。

佐土原城(さどわらじょう)を囲んでいた兵は偽兵であり、最初からここに引き込む事に勝機を見出していたのだ。

中央の大友軍が総崩れになると、全体で優勢に戦っていた大友軍が浮き足立ち、我先にと一之瀬川を渡河して逃げ出す兵が殺到し、川を真っ赤に染めた。

討たれた大友軍の兵は3,000余と言われる。

大将の臼杵-鑑速(うすき-あきすみ)は撤退し、副将の田原-親賢(たわら-ちかかた)が指揮を取って全軍崩壊を避けた。

義弘(よしひろ)は兵の一部を割いて討って出てきた佐土原城(さどわらじょう)の兵を逆襲して陥落させた。

義弘(よしひろ)(おとり)役から『()野伏(のぶ)せ』を見事に成功させ、序に城も落とすという大活躍であった。

特に嫡男の虎房丸が降伏し、伊東-義祐(いとう-よしすけ)の妻子を人質に取れたのは大きかった。

27日、島津軍の追撃を振り切って、再度、高岡城で再結集した大友軍が出陣し、島津軍と対峙する。

大友軍は兵を1万5,000人と随分と減らしたが、それでも島津軍より多く、互角以上に戦えるハズであった。

但し、士気の低さは如何ともし難かった。

こうして島津軍と大友軍が決着を付けようとした時、大友の武将を伴った織田家の使者がやって来て、停戦を命じられた。

義弘(よしひろ)の髪は逆立って、正に『怒髪天(どはつてん)を衝く』の言葉通りに怒りを露わにして天に向かって吠えた。


「あと、5,000、3,000の兵があれば」


あと5,000人の兵が居れば、別動隊を背後に回して大友軍を崩壊に導けただろう。

あと3,000人でも追撃をして高岡城で再結集など許さなかっただろう。

日向の半分、巧くすれば、全てを奪えた。

何故、勝っているのに停戦に応じなければならない。

悔しさの余り、義弘(よしひろ)は織田家の使者をずっと睨み付けていた。


 ◇◇◇


(永禄4年 (1561年)1月25日~4月30日)

おらは府内を出ると、大友の武将の先導で豊前、筑前で砲艦外交を続けた。

肝心の領主は不在であり、代理と留守家老の相手をする。

深酒は小一郎(こいちろう)に禁止され、信長(のぶなが)様を真似て水盃で挨拶を交わした。

腹がだぶだぶになっただ。

博多では商人達を脅す。

織田家の大砲の威力に南蛮人らも青い顔になっていた。

小一郎(こいちろう)曰く、火薬を詰めた織田家の砲弾は鉄の塊の南蛮砲とは威力が違うそうだ。

丹羽-長秀(にわ-ながひで)殿がすこぶる上機嫌で博多の商人らを脅して、名護屋浦の

開拓費に三万貫文を奪い取った。

人夫の手配なども任せた。

堺などでやっている物品税は、暫く導入しないらしい。

難しい事はよく判らなんだ。

大宰府まで足を運んで戻ってきた筑前・筑後・肥前の武将を相手に信照(のぶてる)様の命令を伝えた。

大友家の武将が取り仕切って、皆を強引に納得させただ。


これが終わると長秀(ながひで)殿と別れた。

作事奉行の長秀(ながひで)殿は先に名護屋浦に入って縄張りを始める。

おらは肥前の半島を迂回して点々と回って行く。

海岸では大砲を派手に撃っておく。

どこに行っても納得できないと言う顔だが、大友家の命令に渋々従った感じだった。

肥後では、大友派と反大友派が睨み合う中で会談だ。

おらが命じられているのは停戦のみであって戦後処理を勝手にする訳にはいかない。

奪った城の返還を命じておく。

また、無用な殺生を許さないと脅しておいた。

薩摩の島津-貴久(しまづ-たかひさ)は大歓迎をしてくれた。

おらは帝の約束も守れた。


「おらが決める事はできないだが、信照(のぶてる)様に貴久(たかひさ)殿が薩摩・大隅・日向守護になれるように進言しておくだ」

「よろしく、お願い致します」


いつも通りに幕府のやり方を説明し、起請文を頂くと一先ず終わった。

更に大隅、日向を回ってから豊後の府内に寄ってから名護屋浦に戻る頃には3月中旬になっていただ。


名護屋浦に戻ると第二陣の三好-長逸(みよし-ながやす)様、十河-存保(そごう-まさやす)様、岩成-友通(いわなり-ともみち)様、小寺-政職(こでら-まさもと)様、波多野-秀治(はたの-ひではる)様、荒木-村重(あらき-むらしげ)様、宇喜多-直家(うきた-なおいえ)様、明智-光秀(あけち-みつひで)様、細川-藤孝(ほそかわ-ふじたか)様、和田-惟政(わだ-これまさ)様がやって来ていただ。

皆、大名格、奉公衆と偉い方ばかりだ。

昨日まで一城主だったおらと違う。

なんと言うか、見るだけで威厳があって偉い方ばかりだ。

その方々の上座に座るには居心地が悪かった。


「藤吉郎様、お久しぶりでございます」

「これは小早川(こばやかわ)様、御壮健で何よりでございます」

「豊前はどうでございました。騒ぎが起こる度に呼び出されて大変でございますね」

「おらはそこに居るだけでございます。何かを決める訳ではございません」

「藤吉郎様はお心が広い」

小早川(こばやかわ)様、どうか藤吉郎とお呼び下さい。様と言われると、背中が痒くて仕方ありません」

「ははは、そんな事をすれば、父に叱られます。どうか某の事は隆景(たかかげ)とお呼び下さい」


小早川(こばやかわ)-隆景(たかかげ)様は元就(もとなり)様に命じられて、名護屋浦の護衛兵3,000人と人夫5,000人を連れてやって来ていた。

荒廃した湊町を復興するにも先立つモノがない。

あぶれた者を引き連れて出稼ぎにやって来たのだ。


「藤吉郎様、また船に乗せて頂けませんか?」

「いつでも言って下さい。船頭に申し付けておきます」

「ありがとうございます。織田家の船は何度乗っても驚きに溢れております」

「そう言って頂けると、船乗り達も喜ぶ事でしょう」


安芸を守っていた標準艦と違い、おら達が乗ってきたのは織田家の最新艦だ。

大砲一つでも全然違うらしい。

おらのよく知る捕鯨砲に比べるとどれも凄いの一言だ。

隆景(たかかげ)様が子供の様に目を輝かせていた。


「藤吉郎、良い所であった」

「さっきから探しておった」

「帰って来たならば、顔を出さぬか」

「気が利かん奴だ」


おらを呼んだのは佐久間-盛次(さくま-もりつぐ)殿と柴田-勝忠(しばた-かつただ)殿だ。

公式な場では、おらの名前の後ろに『様』を付けるが、普段はいつも通りの呼び捨てだ。

おらも特に注意しなかった。

二人に『様』と言われる度に鳥肌が立つので何となく気が楽なのだ。


「南九州から誰一人も人夫を出しておらんぞ」

「では、すぐに書状を出しておきます」

「もう何度も出した。催促しても一ヶ月以上も返事が来ぬ。お主が島津でへらへらとしていた所為だ」

「申し訳ございません。では、使者を立てて要求致します」

「手緩い。あの日向でも出しておるのに、守護を望んだ島津が出しておらんのだ」


おらは当然と思った。

九州連合には毛利家に対して多額の賠償金が請求されて、それを支払おうとすれば全ての大名が破綻してしまう。

大友家の勘定奉行も青い顔しただ。

だが、小一郎(こいちろう)らにとって想定済みの事であり、名護屋浦の湊造営に人を出せば、人夫に日当を払うと提案しただ。

しかも人夫の飯は織田方が用意する。

疲弊した土地で兵糧が足りない家にとって、丁度良い人減らしになる上に、賠償金の補填にもなる。

大友家は一人でも多くの人夫を出すように命じた。

賠償金を払えない。

収穫が少ない。

そんな領主ほど人を寄越すのは当然の流れなのだ。


対して島津方には賠償金の請求がない。

早々に寝返った者は凄い得をした事になっただ。

だが、肝心の報償は貰えていない。

人夫に銭を払うので人を出せと言っても、報償も無いので課役に応じたくないと言う心情は、おらにも理解できただ。

やはり褒美は欲しいだ。

だが、これは課役(・・)でなく、唯の出稼ぎ(・・・)だ。

毛利家は納得できたが、島津家の武将はそれに納得できないのだ。

貴久(たかひさ)殿から謝罪の文が届いていたが、これを皆に見せる訳には行かなかった。


「なぁ、藤吉郎。その使者を俺達に任せろ」

佐久間(さくま)殿と柴田(しばた)殿、おらの一存では…………」

「何を言う。お前は船奉行だろう。外交交渉は一任されていると聞いたぞ」


盛次(もりつぐ)殿がおらの肩に手を回して、おらの顔を覗き込んだ。

俺達の仲だと言わんばかりの馴れ馴れしさだ。

第二陣の手前、造営は長秀(ながひで)殿、おらが外交を一手に引き受けていると言い切った。

第二陣の方々に出しゃばらせない為の処置だった。


「藤吉郎様、良いではありませんか」


そう後ろで言ったのは、右筆助手の黒田-官兵衛(くろだ-かんべえ)殿だ。

おら達は右筆やその助手の命令を聞いて動いているだ。

内政で忙しい小一郎(こいちろう)らに代わって、外交は官兵衛(かんべえ)殿らの右筆助手の指示で動いていただ。

官兵衛(かんべえ)殿が了承したので、使者を盛次(もりつぐ)殿と勝忠(かつただ)殿に任せる事になっただ。


「本当に宜しいので?」

「仮に失敗すれば、その後で藤吉郎様が行って纏めるだけです。その方が藤吉郎様の偉大さが判るでしょう」

「そんなモノでございますか」

「そんなモノです」


小一郎(こいちろう)らも少し呆れたが、官兵衛(かんべえ)殿が同行する事で纏まった。

南肥後の相良家などは、官兵衛(かんべえ)殿の弁舌で領主達を説得したと言うだ。


官兵衛(かんべえ)殿は、信照(のぶてる)様が名護屋に来られた時に、南肥後の武将が誰もおらず、ご奉公の民も寄越しておらないと知れば、お怒りになり、褒美も無くなると脅しました」


流石、官兵衛(かんべえ)殿だ。

舌先三寸で陥落させた。

この調子で薩摩も巧く乗り切ってくれると思っていたのだが、思っている以上に盛次(もりつぐ)殿と勝忠(かつただ)殿が馬鹿であった。

島津家との交渉を巧く終え、宴会の席で豪語した。


『織田家に従わない者など、自ら鉄槌を下してくれるわ』


酒の勢いで言ってしまった。

貴久(たかひさ)殿もまさか織田家が負けるとも思わず、それに乗った。

そして、見事に負けた。

完敗である。

織田家に不満を持つ者を立ち上がらせる結果になった。


「どうして、そうなるのだ」


早船が先に帰って来て、織田家の敗北を知らせてくれた。

数日後、船団が戻ってきた。

盛次(もりつぐ)殿と勝忠(かつただ)殿が暗い顔をして船から降りて来た。

おらの顔を見ても何も言わずに消えて行った。

それとは対照的にカラリと爽やかな顔で官兵衛(かんべえ)殿が降りて来た。


官兵衛(かんべえ)殿」

「ははは、負けてしまいました。あそこまで愚将とは思っておりませんでした」

「どうするつもりだ」

「地形も把握できました。次は負けません。問題ございません」


軍艦『尾張』などは京に戻したので、大量の兵を乗せる事はできない。

薩摩に向かうのは、ほぼ同数の兵だ。

これで勝てば、おらの名声はより引き立つと官兵衛(かんべえ)殿が豪語する。

戦と聞いて犬千代は嬉しそうだが、おらは嬉しくないだ。


「大丈夫です。この官兵衛(かんべえ)にお任せ下さい」


おらはとんでもない悪党に騙されているような気分になっただ。


とりあえず、九州の設定を書きました。

秀吉の本編より説明の方が長くてすみません。

本当は裏設定であり、

わざわざ書く必要はないのですが、

お付き合いして頂いてありがとうございます。

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[気になる点] 筑後は蒲池家って三行がかぶっている
[気になる点] 同じ文書がある。
[一言] 腹黒官兵衛……
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