閑話.朝倉、斎藤、清洲織田の動向。(公方様の雷鳴が轟く)
(天文22年 (1553年)7月19日)
朽木に放っていた斥候が敦賀の金ヶ崎城に戻って来ると朝倉-宗滴が白い歯を零した。
「遂に来たか」
「養父、講和が決裂しましたか」
「そうだ。孫九郎(景紀)、覚悟せよ」
「既に出来ております」
宗滴は朝倉当主の義景から全軍の指揮権を委譲されていた。
浅井家と六角家の衝突は予定されていた。
既に出陣の準備は整っていた。
朝倉は兵を6部隊に分け、各部隊が2,000人を引き連れて北近江に出陣する。
総勢1万2,000人になる。
敦賀と今庄に後詰として各3,000人が配置され、荷駄隊として2,000人が動員される。
総勢2万人の大軍であった。
「義景に使者を出し、朝倉全軍に下知を送れ。後詰めが到着次第、儂は敦賀2,000人を持って小谷城に先行する。孫九郎は今庄より侵入せよ」
「承知致しました」
「浅井に使者を送れ!」
越前の敦賀は若狭の武田家と面している。
西から武田軍が攻めてくる事を考えなくてはならない。
本隊は北国街道から進軍する。
敦賀に後詰めが到着するのが明日であり、宗滴の出陣も必然的に21日となる。
塩津街道から権現峠を越えてその日の内に小谷城に到着できるが、朝倉本隊が越前中から集結するのに3日を要し、今庄を経つのは23日になる。
小谷で集結してから南下して米原に到着するのは24日の予定とされた。
金ヶ崎城に集められた諸将に向かって宗滴はそう叫んだ。
敦賀の諸将が各領地に戻って兵を集めて敦賀に再集結する。
その動きは敦賀の商人から小浜を通って魯坊丸に伝わったのは言うまでもない。
◇◇◇
(天文22年 (1553年)7月19日)
北近江の北に位置する伊香郡の東野山城主である東野-是成は腰を抜かした。
朽木に留まらせていた美濃の行商人が齎した情報は驚天動地(世間をあっと驚かせる)では済まない。
天地がひっくり返る程の驚きであった。
「公方様が自ら出陣されると言うのか?」
「間違いございません。朽木では上を下への大騒ぎでございました」
「すぐに書状を書く。直ちに恭順致す」
「今更、寝返る者の領地は全て没収するとの通達ですがよろしいのですか?」
「なんだと!」
(東野)是成は美濃と内応しており、浅井家と六角家が衝突する前に恭順する事が前提であった。
だが、公方様が宣戦布告してしまったのだ。
既に戦が始まっている。
恭順する事すら出来なくなった。
そして同日に小谷城の浅井-久政から出陣の命令書が届いた。
今更、行けば殺される。
(東野)是成は既に何度か来た登城命令を無視して東野山城に留まっていた。
助けて貰えるように(斎藤)高政に手紙を送った。
◇◇◇
(天文22年 (1553年)7月20日)
朽木の興聖寺から美濃の稲葉山城まで30里 (118km)もある。
しかも揖斐川の上流を通り険しい山道であった。
朽木を経った使者は伊香郡まで馬を使い、そこから徒歩で昼夜を分かたずに走り続けて20日に日付が変わった頃にやっと稲葉山城に到着できた。
床に入っていた斎藤-利政が急ぎ着替えて出迎えた。
使者は幕府の取次役である肥田玄蕃の家臣であった。
そのボロボロの使者から利政は公方様の書状を受け取った。
2日前に北近江へ出陣を促す密命があり、高政に命じて稲葉-良通、安藤-守就、氏家-直元を伴って7,000人の兵を密かに垂井に集結させている途中であった。
書状を読んで利政の手が震えた。
「(明智)光安を呼べ!」
城で待機していた光安も急な呼び出しに慌てた。
ドタドタと足音を立てて、途中でこけたような大きな音を立ててやって来た。
余程急いだのか髷が少し歪んでいた。
「見よ」
利政が公方様の書状を光安に放り投げた。
光安は読んでいる間に手が震え、冷や汗をポタポタと流し出した。
「公方様が自ら御出陣なさるのですか?」
「どうやらそう言う事になったらしい」
「将軍自らとは、いつ以来でございましょうか?」
「そのような昔の話など知るか。逃げている時に何度か出ていたではないか」
「小競り合いではございません。此度は連合軍でございます」
光安は後詰で兵3,000人を率いて追い駆ける予定であったが、明日にでも稲葉山城に諸将を集め、のんびりとどこの兵を出すかを決めるつもりであった。
だが、そんな悠長な事を言っていられない。
「既に登城している者を全て集めよ」
「承知」
「儂自ら出陣する。高政には関ヶ原に先行させ、陣地を構築させるように伝えよ」
「北道も南道も双方でございますな」
「そうだ。更に2,000人を追加し、総勢1万2千人で公方様を援護する。六角への使者は誰が良いか?」
「春日-丹後殿、堀田-道空殿しかございません」
「直ちに呼べ」
関ヶ原から南に伊勢街道が走っており、鍋尻山に向かって牧田川が流れている。
そこから権現谷を通り、斥川を下って多賀(多賀神社)へと抜ける山道があった。
木曽川を下って桑名から八風街道を通るより近道ではあったが、かなり険しい山道である。
命じられた二人は堪ったものではない。
「使者はその二人で良い。だが、先行して誰かを遣わせよ」
「では、息子の秀満と惟任-康秀を先に向かわせます」
「それでよい。連絡を密にせよ」
その夜、稲葉山城で諸将が集められ、兵5,000人が22日に稲葉山城に結集し、23日に関ヶ原に入る事になる。
◇◇◇
(天文22年 (1553年)7月20日)
垂井に居た(斎藤)高政はその日の昼に父である利政と(東野)是成から手紙を受け取った。
良い知らせと悪い知らせの両方であった。
良い知らせとは浅井家との戦端を開く許可は貰えた事だ。
「高政様、直ちに今須城に兵1,000人を送りましょう」
(稲葉)良通が口を開いた。
今須城は関ヶ原を越えた先にある城であり、ここを失うと攻めるのが一気に難しくなる。
当然、浅井家も狙ってくる。
「高政様、この不破-光治にご命じ下さい」
「よう言うた。今須城の援軍は光治に任せる」
「ありがたき幸せ」
「俺は(稲葉)良通と共に兵3,000人で南の松尾山城を攻める。(安藤)守就、(氏家)直元、竹中-重元は同じく兵3,000人で北の玉城を攻めよ。ここを橋頭堡として、周辺の砦を全て落として、父上(利政)をお持ちする」
うおぉぉぉ、皆が沸いた。
いつ以来か、久しぶりの大戦であった。
高政は(稲葉)良通に言われた通りの口上を述べると諸将も高政に安心を覚える。
後は松尾山城を落としたと言う武勲が加われば完璧だ。
(稲葉)良通は高政に家督を継がせる布石を打ってゆく。
六角家への援軍に向かうならば、東山道を通って西に進軍し、あるいは本拠地である小谷城を襲うならば、北西に進む事もできる。
とにかく、この三城を確保しないと自由に動けない。
敵の援軍が来る前に松尾山城と玉城を襲うのが規定路線であった。
さて、悪い知らせは伊香郡の(東野)是成が動けない事だ。
裏切り者は領地没収など言われては寝返れない。
何とかして欲しいと言う懇願であった。
高政は(稲葉)良通と(安藤)守就に相談する。
「このままでは小谷城を襲うのは難しいか?」
「いいえ、六角家も動き出しております。浅井家が西に向かえば、小谷城はがら空きです」
「そうか」
「しかし、伊香郡の(東野)是成殿が動けぬと言うのならば、後詰が小谷城に入ります。少数で陥落させるのは難しいかと思われます」
「(東野)是成め、だらしない」
「そこで公方様にお頼みして、(東野)是成殿の寝返りをお許し頂くのです」
「なるほど。流石、(稲葉)良通だ」
「朝倉は大丈夫ですか?」
「(安藤)守就殿、公方様が動いた事で朝倉も動けなくなりました」
「朝倉は公方様と敵対する気は無いと」
「おそらく、これは好機です」
「六角家が相手ならば、朝倉も援軍が送れるが、公方様に弓引くのは憚られる訳でございますな」
「儂はそう読んでおります」
「ならば、我らは当初の予定通りに」
(稲葉)良通が頷いた。
斎藤家は予定通りに北を攻めて、浅井郡・伊香郡を奪いに行く。
六角家には精々足止めに頑張って貰う事を祈っていた。
◇◇◇
(天文22年 (1553年)7月20日)
織田信長の下に公方様の使者が到着したのは昼になってからであった。
六角家を経由して鈴鹿山脈を越えて尾張に入った為だ。
北を周って揖斐川を下った方が僅かに早かったかもしれない。
信長は直ちに武将を集めた。
持ち回りで清州に在中している家老が集まった。
公方様が出陣するとあって、その集まりに斯波-義統も参加した。
「長門、信広兄上の援軍はどうなっているか?」
「中根南城で待機し、第一陣が今朝出発しております」
「早いな」
第一陣が今日、第二陣が明日、第三陣が明後日と三日に分けて出陣してゆく。
大軍で移動しても街道は狭く、無駄に長蛇の列を作るだけだからだ。
その一陣も八風街道と千草(千種)街道の二つに別れて進軍する。
第一陣が観音寺城に到着するのは22日になる。
つまり、全軍が到着するのは24日であった。
また、末森城の信勝は美濃路を通って高政と合流する。
出発は明日(21日)であった。
こちらは牛屋(大垣)で渡河する舟の手配の為に待っていた。
22日に渡河して垂井に至る。
そこで後詰の(明智)光安と合流する事になっていた。
この時、後詰めが光安から当主の(斎藤)利政に代わっているなど知る由もなかった。
信長は信勝の事などこの際どうでもよかった。
「公方様が出陣されるならば、魯坊丸のみ任せる訳に行きません。儂自ら出陣するつもりでございます」
「ならば、麿も連れて行ってくれぬか。麿だけここに残るのは申し訳が立たぬ」
「ここは信長にお任せ下さい」
「頼む」
(斯波)義統に懇願されると信長も困った。
目をうるうるさせている(斯波)義統に信長も困り顔だ。
「邪魔はせぬ。連れて行ってくれ」
「判りました」
「流石、信長だ」
(斯波)義統に褒められるとちょっと嬉しい信長であった。
そこから決断が早い。
「森-可行、伊丹 康直、兵500人を預ける。明日の第二陣と共に赴き、武衛様を受け入れる準備をして参れ」
「畏まりました」
「お任せ下さい」
「儂も兵500人を率いて第三陣と行く。諸将は手勢のみで武衛様をお守りして同行せよ」
清洲にいる武将達が一斉に頭を下げた。
「(林)秀貞、兵500人を残しておく。留守を頼む」
「お任せ下さい。できれば、随行したい所でございます。非常に残念でございます」
「林爺ぃしか頼りにできる者がおらん」
「仕方ございませんな」
「かかる事態では農民を動員する事も許可する。全て任せる」
「承知致しました」
「帰蝶、長門、残る兵500人で荷駄隊を編成せよ」
「承知致しました。喧嘩の続きは帰ってからに致しましょう」
「そろそろ許してくれ」
「それとこれは別の話でございます。さて、長門守。どうしたものでしょう」
「まず、兵には10日分の食料を持って行かせましょう」
「備蓄用の倉を開ける事を許します」
「ありがとうございます」
荷駄隊では一ヶ月分 (30日分)の食糧を運ぶ事にする。
「しかし、問題は馬が足りません」
「牛で代用しましょう」
「なるほど、牛ならば魯坊丸様が山ほど増やしておりましたな」
「畿内からも買っておりました」
「それで計画を立てておきます」
「では、兵糧が足りない場合は改めて送る事にします。その判断は殿にお願い致します」
「承知した」
清洲でも2,000人の増兵が決まった。
信長、帰蝶、長門守と三人揃うと段取りも速やかだった。




