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海辺の町、という表現が適切なのかは分からない。漁師ばかりが暮らす田舎町は小さな漁港を中心に栄えてはいたが、隣町なんてものが存在しない。背面には丘とも山ともつかない盛り上がった地に草木が覆い茂り、そこは子どもたちの格好の遊び場でもあった。
あるのはそれだけだ。人が住んでいるのは本当に海辺のごく一部で、後は山林と、漁港の反対側に砂浜の広がるそんな小さな小さな島だ。
小さな島ながらもきちんと高校まで存在するのは、この島が一時期多くの人を、そして子どもたちを受け入れていた経緯があるからだった。ここが「村」ではなく「町」と称される所以でもある。
島にある唯一の小学校から唯一の中学校に入り、そして唯一の高校へ進学する。この島に生まれ育てばそれはもはや当たり前のルートだ。
その、唯一の高校から山の麓に位置する家へひたすら坂を昇って帰宅する。玄関へ鞄を放り捨てて遊びに出ようとした英介は、母親に首根っこを掴まれてもがいた。
「待たんか英介! 今日から先生来るって言ったでしょうが!」
「うるせえ! 俺は家庭教師なんかいらねっつっただろ!」
「そんなもんはあんたが決めることじゃないんだよ! よくもあんな点数取って、みっともないったらありゃしない」
「いーんだよ、どうせ大学とか行くわけじゃねーし!」
「大学なんかこっちだって考えちゃいないよ! とにかくあんな成績は本当に勘弁してちょうだい、こないだ下村くんとこのお母さんに大変そうですねなんて笑われて母さんどんだけ惨めだったと思ってんの、この坂上家の恥晒し! 親不孝者!」
「知るかそんなもん……」
捲し立てる母親に尚も食い下がろうとしたが、途中で英介は口を開いたまま止めた。止めたのだがそれはあまりにも遅すぎた。
母親の後ろから出てきた父親はこの世のものとは思えないほど恐ろしい形相をしていた。そして、漁師などという職業柄か、真っ黒に日焼けした太く逞しい腕が持ち上がり、英介の頭にゴンと拳を振り下ろした。
「うおああああああいってぇえええええええ」
堪らず英介は玄関で頭を抱えて座り込んだ。
「うるせえぞ、さっさと上がってろ」
地響きでもしそうなほど低い声で父親は静かにそう言った。
英介の父親は滅多なことで怒鳴ったりしないが、ゲンコツ一発がとにかく重く、痛い。そしてなにより、キィキィ煩い母親とは異なり、感情を顕にしないぶん怖い。
父親はこれからもう寝るところだったのだろう。日の出より前に漁へ出て行く父親は、従って異様に夜が早いのだ。日の出が早い夏場は一層早い。まだ夜という時間ですらない。
それ以上何か言うわけでもなく彼は家の中へ戻っていく。くどくど説教をされないからといってこれで無罪放免というわけでは勿論なかった。納得のいかない顔のまま、英介は渋々と靴を脱いだ。父親を味方につけた母親は鬼の首でも取ったかのように「部屋を片付けろ」だの何だの、グチグチと文句を続けている。
「なんで家庭教師なんか」
思わず小声が漏れた。こんな時ばかり耳聡い母親の声のトーンが一気に跳ね上がる。
「あんたがちっとも勉強しないからでしょう!」
「家庭教師なんかつけてそれで成績上がんなかったらそれこそ恥晒しだぜ、ったく」
こんな小さな町ではご近所みんな知り合いで、英介の交友関係など小学校の持ち上がりだから親同士まで筒抜けだ。子どもの成績だって筒抜けなのだ。だからこそ下村の母親から英介の母親へと同情も寄せられたのだろう。
そして、こんな田舎町で家庭教師を雇う家など殆どいない。坂上家が代々この島でそれなりの地位を得ていて、家にそれなりの金があるという証だった。確かに、漁業組合青年部長の息子が毎年留年すれすれで、どうにか教師の温情を以って学年を重ねているというのも格好がつかないだろう。
大人の交友関係もまた、子ども同士の交友関係と殆ど重なっている。親同士の付き合いではなく、近所および仕事仲間として親世代は繋がっている。
そんな大人たちのヒエラルキーに子どもは敏感だ。家庭教師を雇っているなどと学校の友人に知られでもしたら余計なやっかみや嘲笑の対象にされかねない。英介にはそれがとても面倒だった。
「勉強なんかしたってどーせ船乗るだけなのに数学とか国語とか何の意味があるんだよ」
英介の口からこぼれ出たぼやきは誰にも聞き咎められることはなかった。就寝する父親の身の回りの世話をするために母親も家の中へ戻っていった後だった。
英介の家には、もう子どもは英介しか残っていない。姉が二人と、兄が三人。英介は六人兄弟の末っ子だったが、上の五人は全て島を出て行った。漁師になどなる気はないらしい。そのことで父親は英介に対して愚痴を言うわけでもなく、また英介に跡取りとしての期待を口にするわけでもなかった。だが英介の方には、兄が使っていた部屋を初めての一人部屋として割り当てられた時から父親の後を継ぐつもりがあった。
そのことで兄たちが納得しなくても、島を出て行った裏切り者には何も言われたくはない。
くたびれた鞄を拾い、二階へと上がる。部屋がろくに片付かないうちから階下からは「お邪魔します」などと言う聞きなれない男性の声と、それに応えて談笑する母親の声が聞こえてきた。家庭教師は、随分早くに到着したらしい。彼もまた、初日で緊張しているのかもしれない。だがそれで英介の溜飲が下がるわけもない。
階段を上がってくる二人分の足音と、ミシミシと木の軋む音がした。窓の外はまだ明るく、虫の鳴く声が大合唱をしていた。
「じゃあよろしくお願いね」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
オホホ、とでも聞こえてきそうな声で母親は笑った。母親の方はともかく、英介の家庭教師が英介の母親に何をよろしくお願いするのか、よく意味が分からなかった。顔を上げて入口の扉へ目を遣ると、ちっとも片付いていない部屋に引き攣った笑みを浮かべる母親の横で、二十歳ぐらいの色白の青年が立っていた。男性にしてはやや長めの髪を耳に掛け、まるで映画スタァのような尖った二重を細めて彼は英介に手を差し出した。
「久しぶり、えーくん。僕のこと覚えてる?」
門真逸郎。
忘れるはずがない。
幼い頃一緒に遊んだ少し年上の友人で、彼もまた、島を出て行った裏切り者だ。
英介は出された手を握り返すことなく顔を背けた。