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手摺の向こう側を、彼は茫洋とした視線で眺め続ける。濡れた体に傘を差し掛けると、不思議そうに上を見た。
「帰ろうか。風邪を引くといけない」
のんびりとした口調で話しかける。施設の職員はせっかちだ。わざとゆっくり話しているのが伝わってしまうから余計にこちらの気が急かされる。急かされれば逸郎でなくともパニックになる。
同じ速さで生きていれば何も焦ることはない。齢六十五も齢六十八も、大して違いはない。世間から見れば七十四まで一括りに高齢者だ。七十五を過ぎれば後は何年生きても後期高齢者だ。
彼は無表情のまま視線を戻す。埋められて何十年も経ち、すっかり元の姿など分かりもしない防空壕のあった辺りを真剣に眺める。もう一度「帰ろう」と袖を引いた。
「……えーくん」
果たして彼は迎えに行ったのか。それとも迎えを待っているのだろうか。
「ここにおるよ、いっくん」
英介のことを認識しなくても、英介のことを忘れない。今度は逸郎の腕を引く。不思議そうに振り向く視線がやがてはっきりとその意味を捉え、認識する。「ああ」と溜息が漏れた。そして柔らかな笑みを浮かべ、逸郎の、逸郎たる表情になる。
こうして英介のことを認識するのに酷く時間がかかる。誰のことを認識するのにも時間がかかる。その時間がだんだん長くなって、いつか英介のことを認識することも無くなるのだろう。
それでも逸郎は、英介のことを忘れない。
「できないことばっかり増えていやになるねえ」
彼には様々なことを忘れていく自覚があった。だから施設で再会した頃の彼は病気の所為以上に暗い表情をしていた。
「何当たり前のこと言っとるんだ、儂だってこの坂走って上がれんようになったわ」
英介が豪快に笑うと、逸郎は柔らかに目を細めて笑い返した。傘を外側の手で持ち、互いの袖が触れる内側の手を取って繋ぐ。どちらかが滑って転べば、一緒にすってんころりん、寝たきりが二人も増えて施設の職員は大変になるかもしれない。そう思うと余計に可笑しくて手を離す気になれない。
坂道の下りは更に慎重になる。支え合うには歳を取りすぎたのに二人手に手を取って固く結び、小雨の降るなか同じ場所へ帰る。もうずっとこうやって同じ場所へ帰るのだ。
「それに――」
もう離れなくて済むのだと思うと、ぎゅっと胸が締め付けられて苦しいぐらいに幸せだった。どうしてあんなにも長い間、離れ離れで生きてこられたのだろうか。
「こうして一緒にいられる。ずっとできんかったことがやっとできるようになった」
そういうと隣で逸郎が「ああ」とはにかんだような気配がした。
ビニル傘に当たる雨の音がいつの間にか止んでいた。傘を上げると雲の間から陽射しが漏れていた。きっと今日も暑くなるのだろう。蝉の声はまだ聴こえなかった。
もう、離れない。
離さない、二度と。




