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 門真のじいさんはありゃもうだめだ、などと山元が言ったのは春先に坂上英介の妻が亡くなってすぐのことだった。妻に先立たれたばかりの英介を気遣ってか、コラッと隣で美幸が恰幅の良い腹を揺らして山元を怒鳴った。高校時代のマドンナも、六十を過ぎれば肝っ玉母ちゃんを経て妖怪太っ腹ババアだ。「妖怪太っ腹ババア」が言い過ぎなのか、「高校時代のマドンナ」などという称号自体がそもそも言い過ぎなのか分からないが、どちらにしろ山元の手に掛かれば美幸のことなどオーバーな表現になるのは仕方がない。何年経ってもラブラブとはまさにこのことだろう。

「門真のじいさん?」

 随分久しぶりに聞く名前だ。

「ほら、小学校一緒だった。学年は上だったけどお前随分懐いてた」

「ああ」

「高校の時もよ、急に大学行くとか言い出して、お前勉強見てもらっとったろ」

 忘れられるわけがなかった。

 大学に行きたい、と言った時の目を丸くした母親の顔。父親は何も言わなかった。夏には母親を始め誰もが英介の進学希望を馬鹿にしたが、二学期半ばのテストの結果を見て母親は再び目を丸くした。父親はやはり何も言わなかった。「跡継げなくてごめん」と英介が謝ると「お前みたいな甘ったれに漁師は勤まらん」と一蹴した。それが彼なりの肯定だった。

 父親が漁に出たきり戻って来なかったのは大学入試の前日だった。結局大学には行かず、「お前には勤まらん」と言われた漁で生計を立てて五十年弱。三人の子供は既に独立して島を出た。小学生になる孫が入学式の写真を寄越してきたのはつい先月のことだ。

 父親の船が戻ってこなかった翌日。試験会場まで案内すると言っていた逸郎には結局連絡しなかった。ばたばたと忙しくて物理的な理由で連絡できなかったのもあるが、その後も連絡を取らなかったのは精神的なものが大きい。

「だめって何がだめなんだ」

「頭がパァになっちまったらしい。蛍雪塾の門真社長っちゅうと昔この島におった逸郎くんだろう、うちの嫁が言うとった」

「ほう」

「塾の先生だ何だっていくら頭が良うてもパァになっちまったんじゃいけねえ」

 山元のところの嫁は島にある特別養護老人ホームでパートをしている。個人情報の取り扱いに煩いこのご時世で一体どういう管理体制になっているのだろうか。それがまた、のんびりとした田舎町らしいといえば田舎町らしかった。

「いっくん別に頭は良うなかったよ」

「それ、お前が言う?」

「頭が良うないから勉強できない子のことが分かるっちゅうてた」

「ほお」

 島は戦後の経済成長に取り残されて一時は人口減少に歯止めが掛からなかった。そもそも疎開で子供が増えすぎていた経緯もあった。それでも小さな漁港の町はリゾート地として変貌を遂げながら存続し、一応の商業施設と観光施設、それから福祉施設が揃う。

 大きくなれば島から出て行くのが当たり前の時代もあった。だから英介は子供たちが島から出て行ってももう裏切り者だとは思わなかったし、彼らのうちの誰一人として跡を継がないことに失望することもなかった。英介の父親がそうであったように、「お前たちのような甘ったれには漁師など勤まらない」とさえ思った。

「いっくん、島におるんか」

「おるよ。山の麓の特養におる」

「そりゃあまた」

 妻の四十九日で戻ってきた子供たちとの話し合いを思い出して英介は少し笑った。老人の孤独死が社会問題化する中、英介のことを引き取って一緒に暮らしたいと言った長男の申し出は有難いことなのだろう。しかし隠居するにはまだまだ早い。島を離れるぐらいなら家と船を売ってあそこの老人ホームにでも入る、と啖呵を切って長男を困らせてやったが、あそこに逸郎がいるのであればそれも悪くはない気がした。

 どんなに歳を取ったところで子供の世話にはなりたくないものだ。跡を継いでやろうなどと考えていた高校の頃の自分は随分恩着せがましい。今になってみれば父親の気持ちが痛いほどよく分かるのだった。


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