4.山背
なかなかに世にも人をも恨むまじ
時にあはぬを身の科にして
──今川氏真
妓楼の一室で、ひとりの女が化粧をしている。
名を、山背といった。
彼女は器に合わせて形を変える、水のような女だった。
貧しい家に生まれ売られるまでも、色町の禿として育つ間も、太夫として名を上げてからも。
周囲の期待に添ってあり方を変え、その都度で生き方を変えてきた。
誰もが望む場所で、望むように生きられるではない。
その事を彼女はよく知っている。
妥協と言うならそれまで、大人と呼ぶならそれまで。
だがそれは弱い者が逞しく身を守る知恵であるのだと、山背はそう考えている。
そんな山背であればこそ、先日の客は強く記憶に残った。
大きな男だった。予想に違わず、剣術使いであるのだと語った。
そして不思議な男だった。
値の張る女とはいえ、小藩の色町である。太夫の格も高が知れるし、洒落た遊び人などいもしない。客の殆どは女を売り物買い物と見做して床急ぎをする。
だが彼は違った。
山背と酒を酌み交わしつつ訥々と、己の半生を語っていった。
酔漢の自分語りなど、平素ならば聞き流して然るべきものである。だが彼の真摯さに釣り込まれ、いつしか付き合いではなく耳を傾けていた。
己の技量を誇り、同時に縋り、支えとするような彼の在り方を、鉄のようだと山背は思った。
決して曲がらず、曲がれず、ごつごつと他所に角を打ち当てずにはおれない、金物めいた生き様。それは不器用で、いつまでも大人になりきれぬ子供に似ていた。
風が吹けば流され形を変える雲のように生きてきた自分とは、まさしく対極であろう。
結局話が現在に追いつく前に、男は酔い潰れた。ごろりと転げたかと見るや、忽ちに鼾をかいて正体を失ってしまった。
客の粗相であるとして、山背は席を立ってもよかった。
だがこの男がなんとなく愛らしく思われて、ただ寄り添って眠った。
山背に身請け話が舞い込んできたのは、それから数日しての事だ。
馴染みならば少なからぬ彼女であるが、話を持ち込んできたのは常連客の誰でもなかった。堀田某なる、藩のお偉方である。
加えて口上までもが奇妙だった。
「別段妾として引き取るではない。国元に帰りたければ帰れ。七坂で商売がしたければ居着け。いずれにしろそれまでの面倒は見る」
借金の肩代わりをして暮らしを立てさせて、そこから先は知らぬというのだ。
破格と言えば破格の扱いではあるが、どうにも得体が知れない。問い質すと、亡友に託されたのだという答えだった。自らにもしもがあればという書状が、金子と共に届けられたものであるらしい。
友の名は明かしてもらえなかったが、どうしてかあの客の顔が浮かんだ。
どうやら、忘れられぬ顔になりそうだった。
──でも。
と、ため息めいて山背は思う。
ここを出て、自分は何ができるだろうか。色町の中しか知らぬ己が、外で生きる事ができるのだろうか。
これまでのように周囲に添えば、案外と上手くやれるのかもしれない。
しかし今更生き方を変えるには、もうここの水に馴染みすぎてしまった嫌いがある。
──この話、受けるべきか。受けざるべきか。
案じながら紅を差す女を、真昼の月が、ただ物憂く見下ろしている。