3.臆病風
堀田春元が単身徒歩で動いたと報せが来たのは、それから数日しての事である。
どうやら春元の周囲にはその行動を逐一に密告する、鼻薬を嗅がされた者がいるらしかった。
先日見かけた春元が供回りを連れずにいたのは、そのような意味合いもあったのやもしれぬと嘉門は思う。
ついに時は訪れた。
嘉門は差料を掴んで、ふわりと立った。
山背には、もう会った。今生に未練はない。
嘉門が春元に追いついたのは、百石以上の家中屋敷が並ぶ路上でである。
辺りには夕闇が押し迫り、手配りか偶然か、二人の他に影はない。
足を早めて距離を詰めながら、さて、と嘉門は迷った。いきなり斬りつけるような振る舞いは、彼の中の少年が許さない。
しかしとなれば、なんと声をかけたものか。
懊悩するうちに、
「おい」
と向こうから呼ばわられた。
春元が肩ごしに振り向いている。左の手は腰間の一刀を引きつけて、いつでも抜き打てる姿勢と見えた。つける者があるとは先刻承知の様子だった。
だがその雷光の如く鋭い瞳は、嘉門を認めてふっとほころぶ。まるで年来の友人を見つけたかのようだった。
「過日、顔を合わせたな」
「……覚えておいでか」
「ああ」
低く答える嘉門へ完全に向き直り、春元は悪戯坊主めいて破顔した。
「同類がいる、と思った」
ふふん、と嘉門も太く笑う。
半間ほどの距離で、二人は完全に足を止めた。
「残念だ」
「何がだ」
「お前とは、一度酒を交わしてみたかった」
「詮無い事だ。話をねじ込まれれば、俺のようなものは受けるよりにない」
ふふん、と春元が同じ笑みを返す。
至極奇妙な空気だった。
狙う者と狙われる者。
互いの関係はそうであると、双方ともが承知している。その上で、不可思議な気安さと信頼があった。それは友誼と称してまるで差し支えのない感情だった。
「ここでいいか?」
嘉門の問いに「いや」と春元が首を振る。
「今少し広い方がやりやすかろう」
言って、背を見せて先に歩いた。
隙だらけだったが、無論斬りかかるつもりは嘉門にない。そうして残照が夜に入れ替わるまで、しばらくを歩いた。
何を言い交わすでもなかった。だが足音だけで百万言の会話をしたように思う。
やがて、広小路に出た。
火災時の延焼を防ぐべく、従来の街路を拡幅した火除けの地である。誂え向きの空間だった。
足を止めた春元が、惜しむようにゆっくりと振り返る。
「ここでよいな」
「うむ」
「では、やるか」
「やろう」
履物を脱ぎ捨てると、示し合わせたように両名は白刃を抜いた。
閃いた初太刀はどちらのものか。
忽ちに一合、二合と刃は鳴り散らす。胴を薙ぎ、受けられては篭手を弾き、擦り上げるような逆袈裟を避けては斬り下ろしを捌かれる。受け損なった切っ先が互いの体を掠めて血が飛沫く。
が、いずれも浅い。
どちらも有効打を与えられぬまま双方共に飛び退り、ひとつ、息をつき構え直した。
春元は平青眼。
体躯が大きく膨らんだかのような威圧感があった。
まさに堅牢堅固。隙なく積み重ねられた城壁のように揺るぎのない印象である。
対する嘉門も、また青眼。
八相への変化を意識して、これも右に寄っている。
火を吹くような先の数合が幻のように、両者はじりじりと膠着した。
嘉門の背を、びっしょりと冷たい汗が濡らしていた。
今しがたの剣舞は、実力伯仲と見えて異なる。紙一重であるが、しかし薄皮一枚分確実に、嘉門は春元に上回られている。
春元には精気が横溢するようだった。全身の隅々にまで油が行き渡っている。斬れぬものなど何もない。恐らくはそうした心地であろう。
しかし真逆に、嘉門の体は重い。
手は竦み足は縮み、動作のひとつひとつが精彩を欠いている。
その理由を、嘉門は知っていた。
刃を抜いたその瞬間、過ぎったのだ。
間近で見た山背の顔が。続いて声が、そして香りが。
そうして、臆した。
生まれて初めて、生きたいと願う己に気づいたのだ。
「──」
ぎりぎりと、嘉門は歯噛みする。
堕落である。
刀を抜いてなお迷いを抱くなど、剣人として途方もない堕落である。それは嘉門のこれまでを否定し、粉砕しかねぬ悪徳である。
自らを奮い立たせるように、嘉門の剣が八相に上がった。
同時に、つい、と春元が間を詰める。
間境を越えたその体へ、咆哮めいた気合と共に袈裟懸けが落ちた。誰しもが受け太刀を考えずにはいられない、烈火の如き一刀。春元もまた、稲妻のように空を裂く剣閃を見たであろう。
だが転瞬、それは翻って虚空を行き過ぎる。呼吸を外された春元の間隙を、体ごと打ち当たる嘉門の一突きが刺し貫く。
──はずであった。
あっ、と嘉門が声を上げた。
春元は騙しの太刀に騙しに惑いもせず、そのままの足運びで踏み込んでいる。心中の怯懦が漏れ出でて剣の真贋を知らしめたのだと悟った。
狼狽しつつも繰り出した二太刀目には、無論勢いがない。刃に刃を添えるように流されて、嘉門は敢え無く死に体を晒す。
騙しは見切られ殺しは外された。生殺与奪は敵手に握られ、応ずべき三の太刀は嘉門にない。
春元の一刀が、すれ違いざまに胴を払った。
刃は存分に臓腑を薙ぎ、かっと灼熱の痛みが嘉門を焼いた。何かを叫んだ気がしたが、何を言ったかは自分にもわからない。
途方もない喪失感と恐れ。そして、奇妙な満足があった。それは眠りに落ちる直前の茫漠とした暗闇にどこか似て、嘉門は不可思議な安堵を覚える。
ゆらゆらと立ち尽くす体は、やがて繰り手を失った人形のように力を失い、仰向けにどうと倒れた。
どこか寂しげな春元の横顔が一瞬だけ視界に入り、すぐに流れて見えなくなる。
そのひと刹那に、思った。
──いつかお前も俺と等しく。
憐れむように。
慈しむように。
──その高みより、堕せれば良いが。
図らず仰いだ夜の底に、薄く昇った月がある。
絶息した嘉門の口元には、信じがたくやわらかな笑みが浮いていた。