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1.辻風

 妓楼の一室で、ひとりの男が腕組みをしている。

 名を、芹嘉門といった。

 彼の前には二人(ににん)分の膳が置き去られている。どちらも箸はついていない。

 半刻ほど前、部屋にはふたりの人間がいた。嘉門と、もうひとり老爺(ろうや)とである。

 老人の名は知らぬ。ここの忘八に引き合わされたばかりの相手であった。

 小枝のように痩せ、しかし皺深い顔をにこにこと愛想よく笑ませてはいた。だがその奥で細まる目が、じっと品定めの色を宿すのに気づかぬ嘉門ではない。

 だがどういう仕儀(しぎ)だと問う前に、老爺の手が鳴って忘八は下がった。

 彼は嘉門に差し向かいに座るように勧めると、置かれたままの盃に酒を注ぎ、


堀田(ほった)春元(はるもと)を、斬ってくだされ」


 虫も殺さぬ笑顔のまま、単刀直入に告げた。

 それから、老人は滔々(とうとう)と語った。

 曰く、かの人物は生家の権勢を笠に(まつりごと)(くちばし)を挟み、己が意のままに藩を壟断(ろうだん)せんとする奸物であるのだという。

 今これを除かねば藩にとって恐るべき災いとなる。

 だが春元は江戸詰めの折に某流を修め、剣術修行を理由に江戸残留を三度申し出、三度とも許された(じん)である。技量は並々ならぬ名手の域に到達していると見て間違いがない。

 これを誅するが叶うのは、芹嘉門の他になかろう。


 時に堀田の非を鳴らし、時に嘉門を褒め上げる長広舌は、非常な巧さを秘めていた。もし嘉門が十も二十も年若い小僧であったならば、自尊を煽られ義憤に駆られて、かっと血を熱くしていた事だろう。

 しかしながら、嘉門はこれを聞き流している。

 いずれ都合の良いように脚色された浄瑠璃であろうと思っていた。己の不利も悪徳も語らぬに決まっているのだから、熱心に耳を傾けるだけ無駄である。


 ここ七坂の色里には、いくつかの不文律が存在する。

「喧嘩は死に損」も、そのひとつである。

 無法無体の言いめくが、実際のところ、そうではない。これば万一の折、武家を守る為の処置だった。

 遊興に(ふけ)る場に立ち入り、その上刃傷沙汰に及んだとなれば、斬った側も斬られた側も家名に傷がつく。よって生者は追わず放免し、死者は身内にそっと訃報して屍を引き取らせる。後日藩に病死が届けられ、それで万事が丸く収まるという寸法である。

 無論、身分に関わりなく血の気の多い者、考えの足りぬ者は在る。不文律を引き合いに、我を通そうとする荒くれが必ずに出る。

 色町は暴力を歓迎するのものでは決してない。よってこうした輩への抑止力として、嘉門のような荒事師たちが雇い入れられていた。

 しかし、である。

 斯様な仕組みがあらば、これを己の欲得に用いんと欲するが出るのも当然至極。

 それゆえ荒事師たちの元には、本来の役割とは真逆のこうした仕事が持ち込まれる折があった。暗殺である。


 妓楼の主を忘八と称するのは、それが人が備えるべき八徳(はっとく)全てを忘れ果てねば到底勤まらぬ生業であるからだという。だがこうした性質の忘八たちとて、七坂の地で商う身に変わりはない。

 当然ながら彼らは、このような仕事を嫌った。

 藩から目こぼしを受けている店は多く、(いたずら)に政治に関与して、上の機嫌を損ねる愚を好まぬのだ。

 で、ありながら。

 この老爺は楼主を、唯々諾々と従わせている。そこには並々ならぬ裏があるのだろう。持ち込まれたのは途方もない厄介事であるのだと、世事に暗い嘉門にすら見当がついた。

 よって嘉門は、黙って酒を口に含んだ。

 老爺の舌が落ち着くのを待ち、そうして「明晩までに返答しよう」とだけ返した。

 些かの感情も表さずに頷いて老人は席を立ち、以来嘉門は腕を組み続けている。


 

 *



 ──いずれにせよ、死ぬな。


 この話を聞いた時点で、嘉門の行く末は定まったと言っていい。

 しくじれば堀田春元に斬られて死ぬ。

 無事成しおおせたとしても、口封じで消されるに相違なかった。

 嘉門はあの老爺の眼差しを思い出す。

 話を拒んだとて同じ事だ。色町の用心棒風情と見るから、顔も隠さずにああまで語ったのだ。彼にとって嘉門は、使い出良く見えた道具に過ぎない。役に立たぬとあらば投げ捨てて、次を探すばかりであろう。


 しかしながら、芹嘉門は恐るべき恐れ知らずだった。

 剣の冴えもさる事ながら、己の生死にまるで頓着せず、如何な鉄火場にも眉一つ動かさずに進み入る。そういう男だった。全身これ肝より成るとまで評されている。

 嘉門のこの性根は(おの)が身を顧みぬところから発している。いつ何時(なんどき)落命しても構わぬと、彼は捨て鉢めいてそう観じているのだ。

 当世(とうせい)、「命などいらぬ」と気勢を吐く者は少なからぬ。無論その大半は虚勢に過ぎない。

 いざ命のやり取りとなれば我が身可愛さに(たい)を竦ませ、或いは泣き叫び、或いは逃げ惑う輩ばかりである。

 だが嘉門は、真から命を惜しまぬ稀有な例だった。


 自分は遅れてきた人間であると、嘉門はそう考えている。

 父か祖父、或いはもう一つ前の代までは夢が見られた。己の器量ひとつ、槍ひとつで功名を打ちたて、一国一城の主となる。そういう夢である。だが(いくさ)の世は過ぎた。

 狡兎(こうと)死して走狗()らるという。

 武辺の時代の終わりに伴い、刀槍(とうそう)は捨てられ弓矢(きゅうし)は折られた。

 それでも、時折に出る。

 嘉門のように天稟(てんぴん)(たぎ)る血を生まれ持ち、その自負が故に行き先を失う男が。彼らは天性を噛み殺し、ただ飼い殺されるより他にない。

 もし生まれ時を(あやま)たねばと思うたび、嘉門はたまらぬ心地になる。己は何の為に生まれたのだと叫びたくなる。叫んで、走り出しそうになる。

 それは吹きさらしの荒野で、凶暴な辻風を浴び続けるのに似ていた。

 風はやがて嘉門から何もかもを剥ぎ取り、しかし身の内の火だけを煽り立てた。

 この残火が故に嘉門は今の世に折り合いがつけられず、その種火が故に野盗追い剥ぎの類にも身を落とさずにいる。なんとも因果な(くすぶ)りであった。

 斯様(かよう)な彼の観点からすればこの危地とても瑣末事に過ぎず、よって死を案じながらも、長考の理由はそこにない。


 ならば何故(なにゆえ)と問われれば、答えは女であった。

 嘉門には惚れた女がいる。

 相手はこの色里の太夫であり、名を山背(やませ)といった。無論、片恋である。


 この地へ居ついてしばしの頃、嘉門はこの女の道中を見た。

 姿勢の美しい女だった。

 花魁(おいらん)は女を売り、太夫は芸を売るという。まさしく彼女の道行(みちゆき)は一芸だった。身一つで闇天(あんてん)に座す月のように、しんと冷たく澄んでいた。

 自然(じねん)と咲く花のように、居場所を違えずに生きている。そうした印象があった。己の在り処を見出せぬ嘉門にとって、その有り様自体がひどく魅力だった。

 小藩の事であるから、太夫といえどもそこまで高値というでもない。稼ぎを投げ打てば、嘉門にとて彼女に手が届いたろう。

 そうしなかったのは、惚れた女を売り物買い物と扱うのに、少年じみた抵抗があったからだ。


 だが、と嘉門は苦く笑った。

 いずれ叶わぬ思慕であり、不日(ふじつ)の死が定まった身の上である。ならば早々に思いを遂げ、整理をつけてしまうがよいのだ。

 それに、春元成敗の暁に約束された金の事がある。

 あれだけの金子(きんす)があれば、山背を買うどころかの身請けすら叶うやもしれぬ。いずれ死ぬ身に変わりはないが、好いたを苦界から解き放って、というのは悪くない。

 腹が決まれば、もう気楽なものだった。

 ひとつ満足めいた息を吐き、親指で鯉口を斬る。


 ──斬れるかな?


 無音の気合と共に、部屋に(わだかま)る夜闇を抜き打つ。

 あの毒薬めいた老爺が、己のような無頼(ぶらい)を頼むのだ。堀田春元とは、よほどの豪傑に違いなかった。

 遅れてきた男との自認は、同時に世が世ならばという自負に通じる。技量に拘泥する嘉門にとって強者を倒すのは、自身と世間への証明でもあった。


 ──堀田春元、斬れるかな?


 思案はもう、そうしたものへと変貌を遂げている。

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