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澤田君……。
澤田君。あたしが良晴に振られたの、知ってたの?
でも、そんな筈ない。あたしが良晴の所に電話してから澤田君に逢うまで、小一時間と経ってないんだから。
車に乗ると、エンジンを吹かしながら澤田君が聞いてきた。
「送るけど、アパートにするかい、それとも家にするかい。もっとも、アパートは何処にあるのかよく判らないから、道順を教えてもらわないといけないけどね」
アパートには帰りたくないし、かと言って実家に帰る気もしないし、どうしよう……。
「えっと……。海、見たいな」
うん。海が、見たい。
どんよりと鉛色した雲が垂れ込めてて、北風が吹いてて、時たま雪が何処からか流されて来るような……。無論、海は凄く荒れ狂ってるの。そんな海が、あたし、見たい。
「海かぁ。判った」
澤田君はそう言うと、ゆっくりと車を駐車場から出して坂を下ると、大通りに出たところでスピードを上げた。
赤、青、黄色。流れる光。黄色い光が、前から来て右側を通り過ぎて行く。赤い光が、目の前を右へ左へ揺れ動いてる。青い光が、頭の上を過ぎ去って行く。そして、光を滲ませる雨。その光の染みを、鮮明にするワイパー。車の音と、ワイパーの規則正しい音。
何か、夢みたい。なんでだろう。視覚や聴覚、それに触覚だって、みんなちゃんとこれが現実だって判ってるのに、何か夢を見てるような感覚。心だけが、夢の世界に行っちゃったみたい。
こういう時の現実って、意外とリアリティーに欠けるのね。何か、テレビか映画でも見ている気分。
あ、ソニービル。
よくあの前で、良晴と待ち合わせしたっけ。それで、いつも良晴は遅れて来て……。
もう。なんであんな所にソニービルがあるのよ。また感傷に浸っちゃうじゃない。
「なに、むくれてるの?」
「ううん、なんでもない。ちょっとね……」
「銀座は避けて通った方が、よかったかな」
え、ここ銀座なの? そう言えば、急に光の量が増えたものね。それに、銀座でなかったら、ソニービルもないし。何かテレビを見てるみたいで、気付かなかった。
……東劇。良晴とのデートコース。
夕方、ソニービルの前で待合せして、映画を見るの。それから駅の方に戻ってきて、ソニービルの手前を左に折れて三〇メートルぐらい行った所のお店で夕食をとって、そして日比谷公園に行くの。
良晴はいつもあたしには優しくて、ううん、あたしだけじゃなくて、女の子には誰にでも優しくて、で、いつもヤキモキさせられていた。でも、あたしはいつも良晴、あなただけを見てたのよ。なのに、なのにひどいわよ。急にアメリカに行くだなんて、『さよなら』だなんて、突然すぎるわよ。せめて見送るぐらい、いいじゃない。なのに見送らなくていいだなんて、そんなのってあんまりよ。そうよ、せめて一言『待っててくれ』って言ってくれれば……。そうすれば、いつまでも待っててあげるのに。良晴の莫迦、なんで一人で行っちゃうのよ……。
あー、もう駄目。頭ん中、ごちゃごちゃ。何考えてんだか、筋道立てて考えること出来ない。感情だけに、流されちゃいそう。
「広瀬君、着いたぞ」
澤田君の声で、あたしは外を見た。
遠くにライトの光、その中に浮かぶ船の影。
えっ、もう着いたの? ちょっと澤田君、いくらなんでもタイミング良すぎるわよ。もしかして澤田君、あたしの考えてること、判るの? まさかね。でも、ありがとう。あなたのおかげであたし、感情に流されずに済んだみたい。
あたし、雨が入ってこない程度に、窓を少しだけ開けてみる。すると、冷気と共にチャプチャプとかすかに聞こえる水の音。でも、潮の香は全然しない。
一体、ここ何処?
「晴海だよ」
澤田君、あたしの物問げな視線に気付くと、答えてくれた。
「あの、晴海って……」
「そ、晴海埠頭」
晴海埠頭。あたし、知ってる。確か、色々なショーや展示会をやるところ。秋に、モーターショーをやってた。コンパニオンの写真を撮る良晴に、付いて行ったことがある。
でも、なんで晴海なの? 確かに晴海、埠頭って言うくらいだから、海があることに違いはないわよ。でもね、でもよ。今のあたしが見たい海って、もっと違うのよ。せめて山下公園ぐらいにして欲しかったな。良晴だったら、もっと……。
ふっ……。
そうよね。澤田君は、良晴じゃないんだもんね。それに、山下公園なんかに行ったら、きっと良晴と行った時のこと思い出しちゃう。
あたしがなんとはなしに澤田君を眺めると、澤田君、火の点いてない煙草を銜えたまま外をじっと見つめていた。
うふ。ありがとう、澤田君。あたしなんかのために、気を遣ってくれて。
「澤田君。煙草、吸ってもいいわよ」
「えっ……」
澤田君、驚いて振り向くと、あたしのことをじっと見つめた。でも、すぐに気を取り直すと、照れ臭そうに優しく言った。
「いいんだよ。車内で煙草を吸うと、煙りが篭るだろ。だから今は銜えてるだけ。これで十分」
澤田君、煙草を軽く持ち上げるとウインクをした。
なんで澤田君はそんなに優しいの? あの時だってそうだったし、そして今だって……。あたし、澤田君のこと振ったのよ。なのに、なんでそんなに優しいの? あたし、澤田君のこと頼っちゃうじゃない。あれから三年も経ってるんだから、少しは醒めてくれてたっていいじゃない。そうよ、澤田君にだって、もう恋人ぐらい居るんでしょう。だからお願い、もうこれ以上、優しくしないで。あたし、泣けてきちゃう。
「もう、気が済んだかい」
しばらくすると澤田君は、優しく慈しむように言った。
「ううん。もう少し、こうしてたい」
「そうか。なら、気が済むまでこうしてよう」
あたしは澤田君から顔をそむけると、また外を見つめた。でも、今度は見えるもの総てが歪んでた。
澤田君の莫迦。澤田君があんまり優しいから、涙が出てきちゃったじゃない。
「どうした。なに泣いてるんだ?」
澤田君、あたしのことを覗き込むと、心配そうに言った。
「ううん、なんでもない」
「そうか、ならいいんだけど。……あまり綺麗じゃないけど」
澤田君、ポケットからハンカチを出すと、あたしに渡してくれた。でも、その顔は何処となく寂しそう。
「うん、ありがとう。澤田君、優しいのね」
「えっ……。いや、そんなことないよ。でも、どうしたんだい、急にそんなこと言い出したりして」
「ううん、別になんでもないの。ただ、ちょっとそう思っただけ」
澤田君、本当に優しいのね。良晴も、澤田君ぐらい優しかったらよかったのに。そうしたら、そうしたらきっとあんな素っ気ない言い方、しなかったのに……。
「なんで、待っていてくれって、言ってくれなかったのよ」
あたし、ポツリと呟いた。何度目だろう、今日、この言葉を呟くのは。
「何が、待っていてくれなんだい」
え? 澤田君、聞こえていたの?
あたし、ちょっと視線を澤田君に走らせて、で、すぐに俯いて首を横に振った。
「ううん、なんでもない」
「そうか……。もし、何か悩み事があるんなら、いつでも聞くよ。力になってやれるかどうか判らないけど、一人で悩んでるより、誰かに話した方が気が楽になるだろ」
「うん」
あたし、頷いて、で、ちょっと胸が痛む。
これだけは、まだ澤田君には言えない。いくらなんでも、そんな無神経なこと、あたし言えない。
「ね、なんで澤田君、いつもそんなに優しいの?」
あたし、言ってしまってから、莫迦なこと聞いたなって、ちょっと後悔。だって、優しさに理由なんかある訳ないもん。優しさって、人の持ってる根本的なもののひとつでしょ。例えば独占欲や恐怖心と同じに。
でも、澤田君は優しく、そして少し気弱げに答えた。
「別に、優しくなんかないさ。ただ、少し臆病なだけだよ」
「臆病って……。ね、それどう言うこと」
「どう言ったらいいんだろう。つまりね、自分がそう思っているから他人もそう思っているとは限らない訳。するとね、やっぱりなんでも自分の思い通りになると思うよりは、自分の思い通りにはまずならないと思った方がいい訳。だから失敗を恐れて、何も出来なくなってしまうんだよ」
うーん。確かに臆病ってことの説明にはなってるけど、それがどうして優しさに繋がるの? 確かに澤田君ほど優しくはなかったけど、良晴だって優しかったわよ。でも、だからと言って、何も出来なかったってこと、なかったと思う。現にアメリカ行き、実現させちゃったんだから。
「ね、じゃあどうして臆病だと、そんなに親切になれるの」
「どうしてって、困ったな。どう言えば判ってもらえるんだろう」
澤田君、腕を組むと考え込んでしまった。
ねえ、そんなに考え込むようなことなの?
「そうだな。きっと、嫌われたくないからなんだろうな」
そう答えると、澤田君は窓の外に視線を向けた。そして、その遠い眼差しに、寂しさがよぎった。ううん。少なくとも、あたしにはそう見えた。
澤田君って、そんな嫌われるような人だったっけ? 確かにLOVEじゃないけど、あたし、澤田君のこと好きよ。物静かで優しくて、落ち着きがあって、思いやりがあって、そりゃ確かに少しおっちょこちょいかもしれないけど。それだって、嫌われるようなことじゃない筈よ。
「嫌われたくないって、澤田君を嫌う人なんて居るの?」
「そりゃ、居るだろうな。僕にはなんの取柄もないんだから」
「だって……。そんなことないわよ」
澤田君、力なく微笑すると、また窓の外に視線を向けた。
そんな……。澤田君がそんなこと言ったら、良晴なんか女の子の写真を撮ることしか取柄がないってことになるじゃない。良晴は、澤田君みたいに落ち着きがある訳でも、思いやりがある訳でもないけど、でも、でもやっぱりあたし、今も良晴のこと好きよ。愛しているわよ。だから澤田君にだって、絶対あなたのことを愛してくれる人が居るわよ。
「さてと、アパートまで送るよ。取り敢えず渋谷まで戻るから、そこから先は教えてくれよ」
「うん……」
澤田君は車のエンジンをかけると、ライトを点けて車をスタートさせた。
多分、来る時と同じ道だと思う。銀座を通って、有楽町駅のガードの下を通ったところまでは判ったけど、あとは何処をどう通っているのか判らない。これじゃ、どっかのホテルに連れ込まれても判らないわね。
あは、一体なに考えてんだろう。澤田君が、そんなことする筈ないのに。
目の前の赤が、強く光ったり弱く光ったりしてる。せわしなく往来する車。ギラギラ光るヘッドライト。まるで、道路が騒がしく点滅するネオンの看板になったみたい。
なんの宣伝してるんだろう。きっと、どっか遠くの星の宇宙人に、ここには人間が一所懸命生きてますよって、宣伝してるのかもね。
うふ。一体、何考えてんだろう。みんな好き勝手に走ってるのに、宣伝なんて出来る訳、ないわよね。でも、もしそうだったらいいな。みんな目的も夢も違うし、好き勝手に走り回ってるのに、自分はここに生きてる、自分はここに存在するんだって、自己主張してる。良晴だって、澤田君だって自己主張してる、筈よね。
あたし、チラッと澤田君を見る。澤田君は、真剣な顔で車を運転してる。そうよね、澤田君だって自己主張してるのに。あたしは、どうなんだろう。
なんだか滅入っちゃいそう。良晴なんか、自分の夢追ってアメリカに行っちゃうって言うのに。良晴の莫迦。なんで一人で行っちゃうのよ。せめて『待っていてくれ』って、なんで言ってくれなかったのよ。
「で、こっから先、どう行くんだい」
気が付くと、あたし達は渋谷の近くまで戻っていた。
「えっと……。高井戸だから、どう行ったらいいんだろ……」
「高井戸かぁ……」
澤田君、そう言うと、車を左に寄せて道路地図を開いた。
「素直に井の頭通りから環八に出て、そこを左に折れるか。井の頭通りから甲州街道を抜けて、環八に出るコースだな。……で、高井戸のどの辺?」
「えっ。悪いから、渋谷の駅まででいい」
少し慌てて、あたしは心にもないことを言う。だから、ちょっと罪悪感に駆られる。
だって、ホントは澤田君に、アパートの場所を知られたくないんだもん。理由は……、良晴との想い出の品が一杯ある部屋を見られたくないから。それに、このままだと澤田君のこと、頼っちゃいそうだし……。
「僕に気を使ってるんなら、そんな必要はないんだけど。ま、広瀬君がそう言うんなら、渋谷駅まで送るよ」
澤田君はあたしの気持ちを察してくれたのか、そう言うと再び車を発進させた。
ありがとう、澤田君。あたし、澤田君の優しさに甘えてばかりいるね。ホントは、これじゃいけないんだって、判っているんだけど。でも……。
それから五分ほど走ると、渋谷駅が見えてきた。
駅前の交差点で信号待ちをしてると、澤田君がポツリと言った。
「広瀬君。君が何を悩んでいるのか判らないけど、今君が何をしたいのか、本当はどうしたいのかをハッキリさせれば、自ずと答えは見えてくるんじゃないのかなぁ。そうすれば、あとはその答え通りに行動するだけ。それが一番いいんじゃないのかな。まずは、自分に嘘をつかないことだよ」
澤田君が言い終えると同時に、信号は青になった。
『あたしは何をしたいのか、本当はどうしたいのか』って、そんなこと判ってる。良晴とさよならしたくないだけ。でも、良晴が『さよなら』って言うから、あたしはそれを認めたくなくて……。
「ふぅ……」
そうよね。自分に嘘つくなんてこと、出来ないわよね。だからあたし、良晴のこと待つ。『待っていてくれ』って言ってくれなかったけど、良晴がアメリカから帰って来るの待ってる。今あたしがしたいのは、良晴を信じて待つこと。でも、その前に……。
車はハチ公の方を迂回すると、モヤイ像の側で止まった。
「はい。渋谷駅に着いたよ」
「今日はありがとう、澤田君」
「ん? 礼を言われるようなこと、何もしてないけどなぁ」
「でも、言ってくれたから」
そう、あたし、なんだか吹っ切れたみたい。
なにも、良晴があたしのこと嫌いになった訳じゃないんだもん。良晴は、いつ帰って来れるか判らないから、あたしと別れるって言い出したんだもん。だから、良晴が帰って来るのを待ってちゃいけないってこと、ないのよね。この先、ずっと良晴のこと待っていられるか判らないけど、それでも今は待っていたい。
そう思えるようになったのは、やっぱり澤田君のおかげだね。
「気をつけて帰れよ」
「うん。澤田君もね」
あたしはそう言うと、車を降りて傘を開いた。
ドアを閉めると、澤田君が小さく手を振ってきたから、あたしも小さく手を振る。
澤田君、ありがとう。今は話せないけど、いつかきっと、笑って話せる時が来たら……。その時まで、何も訊かないで……。
澤田君は前を向くと、車を発進させた。
あたしは、走り去る車を見送りながら、小さな声でもう一度澤田君にお礼を言った。
「ありがとう、澤田君」
あたし、諦めないからね。今は、良晴のこと信じて待つ。
あたしは踵を返すとアパートには帰らず、東横線に乗った。
夕方電話した時には居たんだから、良晴はまだ居るはず。だからあたし、自分の想いを伝えるために、良晴のアパートに向かった。
だって、澤田君が言ってたじゃない、ハッピーエンドにするべきだって。あたし、このままじゃハッピーエンドにならないもん。