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カチ、プ――――――――――――。
電話が切れた。良晴の「さよなら」って一言を残して、電話が切れた。
たったそれだけなのに、たったそれだけの話なのに、なんだか知らないけど、涙が次から次へと溢れちゃう。やだ、なんで泣いてんだろう。
あたし、知ってたのに。良晴が、あたしじゃなくて、彼の夢を選ぶって、知ってた筈なのに。なのに、涙、止まってくれない。涙さんの、意地悪。
あたし、涙で歪む黄色の公衆電話に、受話器を置いた。そしたら、ガチャリンッて冷たい音を立てて、十円玉が落ちてきた。厭な音。そんなに大きな音を立てなくたって、いいじゃない。
十円玉を取ると、やっぱり五枚。そうよね、一分も話、してないんだから。
でも、厭だな、この冷たい十円玉。この雨と同じで、芯まで冷えちゃう。これだけ寒かったら、いつ雨が雪に変わってもおかしくない。
あたし、傘を持ち直すと、歩道を歩きだす。何処へ行くあてもなく……。
行くあて。あて、ある。
なんだか、急に海が見たくなっちゃった。それも、太平洋みたいに青空の広がる海じゃなくて、鉛色の雲がどんよりと垂れ込めて、北風が肌を突き刺すように吹いてて、たまには雪なんかも交じってる。勿論、海は白い波しぶきを上げた、荒れ狂った海。そんな海、見たくなっちゃった。そしたら、何もかも、忘れられそうな気がする。
あたし、そのまま駅に向かった。別に、アパートに戻る必要もなかったし……。
渋谷。あたし、この街好きな筈なのに、今日は余り居たくない。そんな感じがする。良晴といつも待ち合わせをしたハチ公前、良晴とよく観た映画館。良晴との思い出の場所を見るたびに、暗い気持ちになっちゃう。何か、そういうのって、やだな。とにかく、駅から離れよう。
あたし、道玄坂とは反対に、明治通りを恵比寿に向かって歩いた。この道なら、大学の友達や知人に逢うことは、まずない。
だってこんな顔、誰にも見られたくない。
そうよ、あたし知ってたんだから。良晴が写真の勉強のために、ニューヨークに行きたがってたの。高二の時、良晴と初めて逢った時もそうだったんだもの。
「里美ちゃん。こっち向いてぇ」
「えっ」
カシャ。
えっ? 何、今の音。あ、カメラ。
「里美ちゃん。写真、可愛く撮れたぞ」
な、何よこの男! いきなり人のこと写真に撮ってぇ。
「フィルムを渡しなさい」
あたし、右手を差し出して言ってやった。だって、そうでしょう? 人のこと、いきなり写真に撮ってあの言い草。あれじゃまるで、あたしが可愛くないみたいじゃない。そりゃまあ、あたしは美人じゃないわよ。でもよ、あたしだって一応は女の子なんだし、これでもダイエットや先生にバレない程度に化粧なんかして努力はしてるんだから。第一、肖像権っていうものがあるんですからね。
「フィルム? なんでフィルム、里美ちゃんに渡さなきゃいけない訳。それに、一応このフィルム、僕のなんだけど」
「それはあなたがいけないのよ。人のこと、勝手に写真に撮るんだから。肖像権っていうの、あなた知らないの? それに、知らない人にいきなり写真を撮られるなんて、気持ち悪いじゃない」
「あっ、ひどいなぁ。今度同じクラスになった、君の斜め後ろの席の江崎良晴だよ。だから、君の名前をちゃんと呼んだろう、『里美ちゃん、こっち向いて』って。でなかったら人のこと、いきなり写真になんか撮らないよ」
「そう言うのを、いきなり撮るって言うのよ。それに、ここを何処だと思っているの? ここは図書室なんだからね。カメラなんか、持ち込まないでちょうだい」
そうよ。ここは図書室で、写真部の部室でもなければ校庭でもないんだから。
「そう言う君は、澤田と雑談ですか」
江崎君、あたしの言ったことなんか意に介さず、ケロッとした顔で言った。
ふん、何よ。あたし達は、別に雑談してた訳じゃないんですからね。
「そいつは心外だな。僕らは、小説の感想を話し合っていたんだから」
澤田君、話の矛先が自分に向けられたんで、不服そうに言った。まったく。さっきまでは、面白がって眺めてたくせに。それに『心外』だなんて、らしくないな。
「ほー、それはそれは。で、なんて小説?」
江崎君はおどけて言った。
まったく、人を小莫迦にして。
あたしは、黙って文庫本の最後の作品の扉を開いて、彼に見せた。
その小説は、新鋭女流作家の短篇で、澤田君が大ファン。澤田君の奨めであたしも読んでみたんだけど、凄くいいの。久々に出た傑作って感じ。澤田君に言わせれば、傑作っていうのには同感で、更に一言付け加わるんだって。それは、物悲しいって言うの。あたしには、ちょっと判らない。確かに二人の男の人が死んだし、ううん、殺されて、悲しいっていうのは確かだけど、澤田君の言う物悲しいと、悲しいって言うのとは、ちょっとニュアンスが違うから、そこがあたしには判らない。
「ふーん、『海神』かぁ。知らないなぁ、こんな作家」
江崎君、少し感心して言った。でも、それだけ。江崎君、それ以上反応を見せない。もう、まるで関心がないって様子。
澤田君、そんな江崎君の反応に怒ったのかな。さっきあたしに話してくれた作品の感想を、江崎君にも話し始めた。
「だけど、生物の進化をテーマにした作品としては、評価は高いよ。と言うよりは、生物の進化をメインテーマに持って来た作品って、日本じゃ初めてだと思うんだ。少なくとも、僕はこの小説が初めてなんだ。うーん、あとそれと、なんて言うのかなぁ。夢を抱いている青年が、ましてや恋人が妊娠しているって言うのに、殺されるなんて不条理だよ。これから自分の夢を実現させようっていう時に殺されるなんて。第一、せっかく、やっと愛する女性と結ばれるって時に殺すなんて、絶対よくない。ハッピーエンドにすべきだったね」
澤田君、相変わらず生物の進化についてと、夢を追う青年を夢の途中で殺すのは良くないってこと、力説してる。
「うん、それは言える。生物の進化については判らないけど、夢を追っている途中で殺されるなんて、絶対良くない。僕だって殺されたら、死んでも死にきれないからな」
江崎君、たとえ今殺されても絶対死なないと言わんばかりに、自信を持って、力を込めて言った。彼、そんなに力を込めるほどの夢、追い駆けてるのかしら。
「へぇー。じゃあ、江崎君も、夢、追い駆けてるのぉ」
「まあね。とりあえずはニューヨークへ行って、こいつの勉強をして来ることなんだ」
江崎君、そう言って持っていたカメラを上げた。
「へぇー。江崎君、カメラマンになりたいの」
「ああ。出来れば、学生の内に二年ほど行って来たいんだ。ま、そのための努力はしてるんだけどね。いつになることやら……」
そうよ。あの頃から、こうなることは判ってたんじゃない。なのに、なんで涙さん止まってくれないのよ。
キャッ!
な、なに? 何にぶつかったの、あたし。でも、何もないじゃない。あたしの目の前に電柱や人が立ってるんなら判るけど、ずっと先まで道が見渡せるじゃないの。なんでぇ。
「あのぉ、大丈夫ですかぁ」
えっ!? 今の声、何処からしたの? 透明人間? まさかぁ、漫画じゃあるまいし。
あたし、周囲を見回してみる。でも、やっぱり何もない。ある物と言えば、右手に車の頭、左手に運転席。えっ、車?
「広瀬君。大丈夫かよ」
その運転席からさっきの声。それも、あたしの名前を知ってる。
あたし、運転席の方を見る。すると、今のあたしの心と同じダークブルーの色をした車の窓から、顔だけ出した男の人が居た。
「すみません。考え事してたもんで……」
あたし、涙見られるのが嫌で、ペコリと頭を下げると慌てて傘で顔を隠した。でも、相手の男の人、そんなあたしに気付いてたみたい。
「君らしくもないな。君には、涙よりも笑顔の方が似合ってるんだから。さっ、涙なんか拭いて、とにかく車に乗れよ。家まで送ってやるから」
あたし、彼があんまり馴れ馴れしく、それもあたしのことを知ってるかのように言うから不愉快に思ったけど、彼の顔を見てやっと理解できた。
「澤田君……」
澤田君、学生服が背広に替わってるけど、あの頃と少しも変わってない。あのモサッとした感じなんか、そのまんま。でも、なんで澤田君がこんな所に居るのかしら。
「やっと思い出してくれたね、広瀬里美さん」
澤田君、微笑して言った。
「え、あの、でも……、なんで澤田君がこんな所に……」
あたし、澤田君とは高校を卒業して以来会ってなかったから、澤田君が今、何処で何をしてるかなんて知らない。でも、ひとつだけ知ってることは、澤田君の家は、都内にはないってこと。
「ちょっとね、そこに仕事の打ち合わせで来てたんだ」
澤田君、親指を立てて上を指した。その指に釣られて上を見ると、そこには『朝日電子株式会社』って書いてある看板があった。
「あ、……もしかして澤田君、もう社会人?」
「まあね。しがないサラリーマンも、もう板に付いたよ。それより、さっ、早く乗って、何処へでも送って行くから」
澤田君、そう言って顔を窓から引っ込めると、助手席のドアを開けた。
どうしよう。澤田君の親切は嬉しいんだけど、今は一人で居たい。
「さ、早く乗って。早く乗ってくれないと、車の中がびしょびしょになって困るんだよなぁ。なんたってこの車、僕のじゃないから」
あたしが躊躇ってると、澤田君は再び顔を出して言った。まったく、こんな時に何考えてるのかしら。でも、するとこの車、誰の?
「ん? まだ乗らないつもり。もしかしておたく、三年振りに逢った友人とは、お茶も飲めないって言うの?」
変わってないと思ってたけど、澤田君、やっぱり随分変わったね。昔はそんな言い方、しなかったもん。
「うん、判った。今乗るから、待ってて」
あたしは重い足取りで車の反対側に回ると、助手席に座った。
「どうしたんだ。やけに元気ないじゃないか」
澤田君、ハンドルを握って、前を見たまま言った。やっぱり、さっきの涙見られたのかしら……。そうよね。澤田君って、前からそういうことには凄く敏感だったものね。だからあの時も……。
「話したくないか。なら、話さなくていいよ。僕も、無理には訊かないから」
あたし、話せない。良晴に振られたなんて、澤田君に話せる訳ない。
「さ、着いたよ」
「え?」
あたし、周囲を見回した。いつの間にか走り出して、気付かない内に、どっかの小さな駐車場に入ってた。
ここ、何処? 暗くて良く判らない。でも、どっかのビルの地下駐車場とかじゃないことは確か。だって、フロントガラスに雨が当たってるんだもん。
「うん? どうした。降りないのか」
「でも……」
「大丈夫だよ。怪しげな所に連れ込もうって訳じゃないんだから。この先に、僕の行きつけの茶店があるんだ。まずはその冷えた身体を、コーヒーでも飲んで温めなくっちゃな」
あたし、その言葉にコクリと頷く。
澤田君、相変わらず優しいのね。今でもそんなに、どんな女の子にでも優しいの?
澤田君は車を降りると、助手席の方へ回って来てドアを開けてくれた。
「さ、お姫様。どうぞ」
澤田君、恭しく頭を下げて言った。でも、それが凄く様になってる。
あたしが車から降りると、澤田君は手にした傘をあたしに差し掛けてくれた。そしてあたしが傘を開くと、澤田君は助手席の鍵を掛けた。
「行こうか」
あたしと澤田君は、並んで歩き出した。
駐車場を出ると、そこは坂道になってて、あたし達はその坂を下って行った。坂は五〇メートルくらい先で、大通りと交差して終わってる。大きな音と水沫を立てて、バスが通って行った。あの道、多分明治通りだと思う。いくらホケッとしてたからって、どのくらい車に乗ってたか、あたしにだって判る。あたし、断言できる。まず、五分と乗ってない。
あは。あたし、何考えてんだろ。そんなこと、どうでもいいことなのに。でも、……何か考えてないと、澤田君の前で泣きだしそうで、怖い。
「広瀬君、着いたよ。ここが僕の行き着けの茶店なんだ」
澤田君はそう言って、ちょっと洒落た、静かな喫茶店の前で立ち止まった。
凄く雰囲気がいい。でも、良くない。こんなに静かで落ち着いた喫茶店じゃ、何もかも、みんな澤田君に話しちゃいそうで、怖い。