第七話 精霊の力
「おい早く出せっ!」
「まかせろって!」
少年達の心は自分達の仕事が上手くいきそうな高揚感で満ちていた。
ナンバープレートは偽造したプレートを上から貼ってあるだけであり、そもそもこのバイクも盗品だ。
二人共サングラスをかけ、深く帽子をかぶっているため、顔をしっかりと確認することも難しい。
身元がばれる可能性は低いと二人の少年は見積もっていた。
あとはこのままバイクで遠くまで逃げ、このバイクを捨てればいい。
二人がそう考え安堵していた時――予期せぬ出来事が起こった。
「待てやごらぁああああああっ!!」
背後から声。
「「っ!?」」
後ろを振り返った二人の少年は絶句した。
一人の男が追って来ている。
それ自体は別におかしくはない。
いや困るけれどおかしくはない。
社会的に悪いことをしているのは自分達。
自分達は追われる立場。
そんなことはわかっている。
だけど。
「っしゃぁ! もう少し!」
その男の手がバイクの後部へと伸びてくる。
「ひぃっ!」
少年たちは恐怖した。
なぜならその男。
時速50キロ以上の速度で走っているバイクを走って追いかけて来ているのだ。
己の足で。
蠢く足は眼で追えぬほど機敏に動いている。
はたから見れば恐怖しか感じない光景だった。
「おらおらあと少しぃっ!」
「くそっ! な、なんなんだよこいつっ!?」
ハンドルを巧みに操り方向を変えてもその男はすぐに態勢を整え追ってくる。
そもそも前後二つのタイヤを回転させて地を走るバイクが二本の足で立つ人間よりもバランス感覚で優れているわけがない。
つまり同じ速度で追いかけられている以上振り切ることは不可能。
「残念だった……なっ!」
ついに男の手がバイクを捉えた。
☆ ☆ ☆
精霊というのは元になった生物に則った形で生み出される。
当然希莉もその例に漏れることはない。
"これが精霊の力!?"
バイクを追いかけながら地を走る吾郎は自身の身体に起こっている事態を正確に把握してはいなかった。
"ふふんっ。私達ゴキブリを舐めないでよねっ!"
勝ち誇るように言う希莉の声が吾郎の頭の中で響き渡る。
"いや舐めるどころか、最大限の畏怖をだな……"
ゴキブリとは脚が非常に発達した生物である。
大抵の個体は一瞬のうちに自身の体長の数倍以上の距離を移動する。
例えばワモンゴキブリの走る速さは一秒当たり1.5メートルと言われており、これは実に体長の50倍近い距離である。
ゴキブリのすばしっこさにいつも人間は苦しめられているが、今はその発達した脚力という『パーソナリティ』が吾郎に力を与えていた。
もちろん吾郎の足はゴキブリのように多数あるわけではないため、そこまでの速度を生み出すことは出来ない。
しかし希莉のゴキブリの精霊としての力を駆使すれば、ある程度ではあるが、ゴキブリの持つ"脚が速い"というパーソナリティを付与することが出来るのだ。
"これならいける! ……けどっ"
目の前の少年たちが走っている通りは人通りの少ない道路だ。
だがそれでも人目はある。
尋常ではない速度で走る吾郎を見た人々は皆茫然と口を半開きにしていた。
あまりにも目立ち過ぎている。
残念なことに吾郎は人々から向けられる奇異の視線で性的な興奮を得られるという特殊なステータスは持ち合わせてはいないしこれから先も目覚める予定はないんだ今のところは嘘じゃないよ。
「映画の撮影ですからぁああああああああっ!」
吾郎自身それが苦しい言い訳であることは自覚しているが、それでも何も言わないよりはマシだ。
「早く捕まえなければ……っ!」
いろんな意味で。
もちろん吾郎は善意からひったくり犯を追っているわけだが、この場に警察官が現れたならば高確率で職務質問を受けるのは少年ではなく吾郎だろう。
これほど割に合わない善行もそうそうない。
"なに、楽勝よっ! ほらこれでどう?"
吾郎の足が地を蹴る音が少しずつ大きくなっていく。
「うぉおおおおおおおっ!? ……待てやごらぁああああああっ!!」
さらに加速し、一陣の風となった吾郎が疾駆する。
人間の限界を軽く超越したスピードでついに吾郎はひったくり犯のバイクに手をかけた。
しかし。
「えっ?」
「ぉあああわあああああああああっ!!」
走っているバイクの背部を突然手で掴み、強制的に止めようとするとどうなるか。
しかも吾郎自身が前方に向けて凄まじい運動エネルギーを伴っている運動体である。
大地に向かって制止をかけようとした吾郎はそれを実体験として理解した。
掴んだはいいが、バイクが前方へと向かおうとする運動エネルギーはなくならない。
後輪が下に向って力を受けることで、地球上における慣性の法則に従い、掴んだ吾郎の腕を支点にし、力のベクトルは上空へと向かった。
そして。
勢いは消えることがなく、そのままバイクは縦回転をしながら吹っ飛んでいき、近くの畑へと突っ込んでいく。
少年たちは二人ともさながら空を舞う落ち葉の如く畑の大根に向かってスカイハイ。
勢いを止めることが出来なかった吾郎もついでに上空へと飛んでいくバイクの下を通過し、滑空するようにしてスカイハイ。
「……いてぇ」
地面に叩きつけられた吾郎が状態を起こすと、そこには倒れ伏す少年が二人。
おそらく気絶しているのだろう、動きを見せる気配はなかった。
いや……死んでないよね?
様子を確認してみたが、目立った外傷はない。
しかし頭を打っている可能性もあるので一応医者に見せた方がいいだろう。
「……やばいか?」
幸いなことにバイクは無人の畑に向かって飛んで行ったので怪我人はないようだ(少年二人を除いて)。
だが少数ではあるが通行人からの視線が突き刺さっている。
皆何事かと吾郎達の周りに集まってきた。
「……」
誰か助けて!
叫びたい吾郎ではあったが、現実には市民を守るヒーローなんてものは存在しない。
日本には堅実に法を守る警察官がいるのみだ。
「あ……」
周囲を見渡していた吾郎。
道路の端にはおそらく盗まれたのであろう、おばさんの鞄が転がっていた。
どうやら幸運なことに中身も無事であるようだ。
「さてと」
逃げ出したい気持ちでいっぱいではあったが、吾郎は携帯電話で警察へと連絡する。
"吾郎、大丈夫?"
"あぁ……まぁな"
むしろ面倒くさいのはこれからだ。
それを吾郎は正確に理解していた。
これから警察がこの場へとやってきて色々と聞かれることだろう。
さて、どういう風に話すべきか。
そんな吾郎の心の動きを読み取ったのか、どことなく希莉の声は落ち込んでいた。
これから吾郎を待っている面倒な出来事に負い目を感じているのかもしれない。
だけどそれは間違いだ。
"ありがとな希莉。お手柄だったぞ"
吾郎は感謝の言葉を述べた。
"えっ?"
なぜか希莉は驚いているようだった。
確かに吾郎は厄介事に巻き込まれることになったが、そもそも最初にひったくり犯を追って走り出したのは吾郎であるし、おばちゃんの鞄を取り戻したことは間違いなく正しいことなのだ。
善行を積んで、後悔することなどあってはならない。
希莉はしばらく黙っていた。
だがやがて吾郎の頭の中に彼女の美しい声が響き渡った。
"とっ、当然よっ! 私精霊だしっ"
彼女の戸惑いを感じる。
希莉はまるで生まれて初めて褒められた子供のようだった。
いや……もしかしたら本当に初めてなのかもしれない。
"あぁ、そうだな"
今吾郎の身体には精霊の力が付与されてはいない。
先ほどまでの力強さがない。
というか体が異常に重かった。
"なんというか……すっげぇ疲れたな"
"それは精霊の力の反動かも……。私もなんだかすごく疲れちゃったし……"
希莉はまたしても少し申し訳なさそうだった。
"まぁ面白い体験ではあったよ"
苦笑しつつ希莉に告げると、やがて遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
吾郎は立ちあがり、警察にどう説明をすれば、さっさと家に帰ることが出来るかと思案を巡らせていた。




