第五話 食事
土曜日の昼下がり。
「シェフっ! ケチャップを所望する!」
「はいはい」
特に部活動に勤しんでいるわけではない吾郎は基本的に休日は暇である。
大抵の場合は孝介と一緒に遊んでいるか、のんびりと身体を休めるかのどちらかだ。
だがいかんせん先日現れた来訪者のせいで吾郎の休日は俄かに騒がしくなってしまった。
彼女は吾郎にいろんな質問を投げかけてくる。
それは吾郎が答えられるような簡単なことから調べないと分からないような難しいものまで様々だ。
彼女の質問に答え、彼女と会話をしているうちに吾郎自身が新たな発見をすることもしばしばあった。
「お前は本当にあれだな、オムライスが好きだな」
「まぁねっ!」
希莉は吾郎からケチャップを受け取ると鼻息荒く、オムライスにケチャップで文字を書いていく。
ついさっきテレビでやっていた昼間のワイドショー。
その番組でメイド喫茶特集をやっていたことが原因だ。
テレビの中では様々な文字をメイドさんが楽しそうにケチャップで書いており、どうやら真似をしたくなったらしい。
「できたっ! どうっ!?」
胸を逸らした希莉の作品を見た途端に吾郎は驚愕の声を上げた。
「えぇうまっ!? メイドさんよりはるかに上手だろこれ……」
そこにはとても細く丁寧に「吾武希莉」と書いてあった。
漢字である。
吾郎の目が確かであるならば、彼女が書いた文字は明らかにケチャップの口部分よりも細く小さい。
恐らく口部分を斜めに傾け、上手い事細い字を書くことに成功したのだろう。
希莉の書いた文字は職人技であるといっても過言ではなかった。
「へっへ~」
嬉しそうに希莉はオムライスに書いた自分の文字を見つめている。
「……」
希莉は文字を書くことが大好きだった。
彼女に言わせれば文字や言葉といったものが人類が生み出した最高の発明の一つであるらしい。
故に憧れていたのだとか、なんとか。
出会ってからしばらく経つが吾郎が思うに希莉は感動する基準がやたらと低い。
些細な出来事に一喜一憂し、表情をころころと変えるのだ。
吾武希莉というゴキブリを少しいじっただけの名前。
とっさに思いついた吾郎としては、これはひどい名前だ、と思ったのだが予想外に彼女はとても喜んでくれた。
名前を付ける、という行為そのものが初めてであったらしく、彼女はあれ以来、自分のことを吾武希莉という名前で呼ばれることを好む。
「ん? 吾郎どしたの?」
「あ、いや」
いかん。
ついつい、ぼーっと希莉の事を眺めてしまっていた。
「……早く食べないと冷めるぞ」
「おぉ、そだね! いただきますっ!」
「いただきます」
そう言って二人はスプーンを、今しがた作ったオムライスへと差しこんでいく。
オムライスは吾郎の得意料理の一つだ。
幼い頃に母親を亡くしてから、郷田家でご飯を作るのは吾郎の仕事のようになっている。
父は遅くまで仕事だし、姉である沙耶は家事をまるでしない。
必然的に全ての家事を吾郎がすることになり、料理の腕は近所の奥様方にも引けを取らないレベルだった。
「う~ま~い~ぞ~っ!」
大袈裟な希莉の反応に思わず吾郎は苦笑をこぼした。
「……そうか」
「グリーンピース! うまい!」
「お前、本当に豆好きだな」
彼女はやたらと緑色の豆を好む。
グリーンピースとか枝豆とかサヤエンドウとか。
ゴキブリは豆が好きなのか、と聞いてみたところ別にそんなことはないらしく、単純に希莉の好物のようだった。
「卵がふわっふわ!」
「お前は本当にいつも美味そうに食うよな」
「そりゃあそうだよ!」
一度口の中のものを飲み込んだ希莉が笑顔で答える。
「私達は元々味覚なんてものはないからね。いや私達に限らずこれほど繊細な味覚を持っているのは人間だけだよ。私達にとっては食べる、という行為は生きるための栄養補給でしかない。だから人間は恵まれていると思うし、その味覚を活かすための術を無数に持っていることがやっぱりすごいとも思う」
こうしていると普通の女の子のように見える目の前の少女。
しかし彼女はゴキブリの思念の集合体であり精霊。
人間とは違うのだ。
「そう……なのか」
吾郎は今までの人生で自分の味覚に対して特別な考えを持ったことはない。
生まれた時から当たり前のように舌があり、甘味、酸味、塩味、苦味を感じ、様々なものを口に運んできた。
だがそれは希莉にとっては当たり前ではない。
ゴキブリには味覚を感じる器官は存在しないのだ。
それゆえに食事に対する喜びが常人を遥かに上回っている。
「美味いか?」
「美味いよ! 吾郎と契約して初めて味覚を体験したけれど……すごいよねっ! 特に吾郎の作るオムライスは世界一美味い!」
「……世界一は言い過ぎだろう」
吾郎は再び苦笑してしまう。
平凡な材料で作った一般家庭の平凡な料理だ。
この世にはもっとおいしい料理が溢れていることは間違いがない。
だけど。
「おいしいなぁ~」
希莉の笑顔を見ているのは。
「……」
悪い気はしなかった。
目の前の彼女は本当に嬉しそうに、幸せそうにオムライスを食べている。
思えば初めて吾郎が料理をしようと思ったのも、家族のこんな顔が見たかったからだったような気がする。
母が死に。
一時は父も姉も、もちろん吾郎もであるが、不幸のどん底に落とされた。
家の中の空気は暗く、いつも快活で周りの人間を引っ張っていくような強い沙耶ですら、笑顔を見せることがなくなった。
吾郎はそんな父と姉にもう一度笑って欲しかった。
そのために幼い吾郎が考えたのはオムライスを作ることだった。
母の一番の得意料理。
しょっちゅう家族揃ってテーブルを囲み、オムライスを食べていたものだ。
その時――みんな笑っていた。
だから。
またあの時のように――そんな願いを込めた。
とてもじゃないが幼い吾郎が作ったオムライスは母が作ったものには到底及ばないだろう。
味付けは薄いし、卵はボロボロ。
それでも吾郎は頑張ってオムライスを作った。
もう一度家族揃って食卓を囲みたかったから。
「えへへっ」
そう、もう一度家族みんなが、今の希莉のように笑っている姿が見たかったから。
「はぁ~、美味かった」
「そりゃあよかったよ」
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
☆ ☆ ☆
「こっ……これはまさか……っ!?」
驚愕に打ち震える希莉を楽しそうに吾郎は眺めている。
「ふっふっふ。そのまさかだ」
「な、なんとまぁ」
郷田家の庭先へと出ている二人。
外に居るのは、今年から吾郎が試みている、自家栽培用の鉢植えに水をあげるためだ。
そしてその野菜というのが。
「これがあの翡翠色の宝石になるのですね」
「なぜ敬語……」
それに宝石て。
いくらなんでも大袈裟過ぎるだろう。
実は今年から吾郎はエダマメを育てていた。
エダマメは収穫までの期間が3~4ヶ月と短く、さらには病害虫なども少なく栽培がしやすい(らしい)ため、初心者である吾郎はまずエダマメを選んだのだ。
本来ならば5月までに植え付けを終え、9月までには収穫出来るはずなのだが、吾郎が自家栽培を始めようと思ったのは6月だったため、未だエダマメは収穫時期を迎えてはいなかった。
少しだけずれてしまったが、まぁ地球温暖化も進んでいるし、早々問題はないはずだ多分きっと大丈夫!
「水はこれぐらいでいいの?」
「おう、もう少しかな」
おずおずといった様子で希莉は如雨露の先を傾けている。
太陽の光が葉についた水滴を眩しく輝かせ、緑の色を鮮やかに彩る。
植物を育てる、という初めての体験にテンションが上がってしまっている希莉は終始笑顔だった。
「もう少ししたら食べられるかな」
吾郎はエダマメの様子を見ながら呟いた。
「ホントっ!?」
「ほんとほんと」
あまりの食い付きに吾郎は少したじろいでしまう。
食事に対する関心が高い希莉だが、その中でも豆に関しては別格だ。
それほど豆が好きなのか。
「ほぇ~。楽しみだね~」
ニコニコとエダマメと吾郎を眺める希莉の無邪気な姿があまりにも可愛くて、吾郎の心には温かい気持ちが満ちていく。
「あぁ……楽しみだな」
収穫の時期が以前よりも待ち遠しく感じてしまうのは――きっと吾郎の気のせいではない。




