希莉日記1
9月1日。晴れ。
私は今日初めて契約をした。
この世に触れることが出来た。
やっぱり人間はすごい。
今日私は初めて人間の味覚というものを感じた。
吾郎が今朝飲んでいた牛乳という飲み物を口に含んだ瞬間、私は言葉を失ってしまった。
舌の上を滑る液体の濃厚な味わいが、甘みが、喉を通る爽快さがとてつもない刺激となって私に降り注ぐ。
吾郎はなんでもないような顔で「牛乳なんてそんな味しないだろ」と言っていたが、そんなことはない、そんなわけがない。
それは生まれながらに繊細な味覚を有している人間のみが持ち得る感覚だ。
ゴキブリは味覚など感じない。
私達ゴキブリにとって食べることは、すなわち生きること。
生き延びるための栄養補給以上の意味合いなんてなかった。
ただただ食べ、生き、生殖し、子孫を残す。それだけだ。
しかし人間の器を与えられ、吾郎と契約をし、そして初めて世界に触れて私はあまりの刺激の多さに驚いてしまった。
触覚、視覚、味覚、聴覚、嗅覚。
人間の持つ五感が私に世界を感じさせる。
今まで思念集合体として情報でしか知ることができなかった世界の存在をこれほどまで深く感じることができる。
思念集合体は世界の存在を情報として知覚する。
しかし知識として知っているのと経験するのとではまるで意味合いが違う。
私は今日それを実感した。
そもそも厳密に言えば思念集合体でしかない私にはゴキブリとしての経験すら有しているとは言い難いのだ。
思念集合体とは、とても曖昧で、とても不確かな存在だから。
だけど吾郎のおかげで私は世界に触れることが出来た。
他の契約経験のある精霊から情報を得たことは今までにもあった。
しかし私達ゴキブリとほんの少しでも類似した遺伝子情報を持っている人間というのが今まで生まれたことがなく、必然的に私は世界に干渉したことがなかった。
今日……私は名前をもらった。
これも初めての経験だ。
嬉しい。
もう決めた。
私は今日から自分のことを吾武希莉と名乗ろう。
ドキドキする。
これから私は何を経験することが出来るのだろうか。
今、私はカーテンコールを待つ観客ではない。
ただ指をくわえて眩い世界に憧れるだけではないのだ。
私は今――世界という舞台に立っている。